野砲兵第122連隊

(通称号:嵐6222部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
京都 昭和13年 第116師団 湖南省

特設師団砲兵隊。
杭州付近の警備の後、昭和13年8月、南京付近に集結し、武漢作戦に一部が参加。
昭和15年、秋冬季の皖南作戦に参加。
昭和16年、皖浙作戦。
昭和18年末から19年初頭にかけて、主力は漢口へ移動。
満洲事変時に鹵獲した山砲で臨時山砲兵大隊を編成し、常徳殲滅作戦に参加。
昭和19年5月から大陸打通作戦に参加。
この作戦で、独立山砲兵第5連隊から山砲18門の装備替えを受け、山砲3個大隊に改編。
第2次衡陽攻略作戦以降に独立野砲兵第2連隊の配属を受けた。
第116師団は軍の主攻撃師団であったので、連隊は野砲・山砲の火力で支援したが、弾薬不足に悩まされ悪戦苦闘の末、火砲の半数が損傷した。
昭和19年8月下旬から20年4月まで軍の側背掩護と並行して火砲の補給を受ける。
山砲2個大隊、野砲1個大隊を編成し、機動性と山地戦闘への即応態勢を整えた。
昭和20年4月、中国における最後の攻勢作戦として敵航空基地覆滅作戦を展開したが、米空軍の攻撃と米式装備の中国軍の激しい抵抗に遭い、作戦は中止された。
その後、戦場を離脱した湖南省で終戦を迎えた。


顕彰碑



『顕彰』の碑

(京都市・京都霊山護国神社)




(平成16年4月2日)

碑文

聯隊は昭和13年5月京都伏見で編成され直ちに大陸に渡り 池州 安慶 常徳 湘慶 宝慶 湘西等の作戦に参加し昭和21年7月帰還
編成を解かれる迄よく困難を克服し師団砲兵の責務を遂行した
この間武運拙なくして大陸に散華した幾多の友の鎮魂の為戦後三十年茲に生存者相計り護国の礎となられた英霊の勲功と聯隊の遺業を後世に留める為一基を建立し 併せて悠久の平和を祈念するものである

願わくば在天の英霊安らかに鎮まり給え

昭和50年3月9日
野砲兵第百二十二聯隊戦友一同



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