安井息軒 やすい・そっけん

寛政11年1月1日(1799年2月5日)~明治9年(1876年)9月23日


儒学者・安井滄洲の子。
日向国宮崎郡生まれ。
大坂で篠崎小竹に、江戸で昌平黌しょうへいこうに学ぶ。
日向国飫肥おび藩藩校の設立に際し、助教となって総裁である父を助けた。
天保10年(1839年)江戸で三計塾を開く。
ペリー来航に際し、『海防私議』を著し、水戸藩主・徳川斉昭に認められた。
文久2年(1862年)昌平黌儒官となる。







安井息軒の墓
(東京都文京区・養源寺)




(平成23年1月22日)

東京都指定史跡
安井息軒墓

所在地 文京区千駄木5丁目38番2号 養源寺
指定   昭和31年3月3日

安井息軒は、後に日向飫肥ひゅうがおび藩(5万1千石)の藩校振徳堂しんとくどうの総裁兼教授となった儒学者安井滄洲そうしゅうの次男として、寛政11年(1799)1月1日飫肥おび藩清武郷きよたけごおり中野(現在の宮崎県清武きよたけ町大字加納甲3368-1)に生まれた。
幼名を順作じゅんさく、字あざなを仲平ちゅうへいといい、諱いみなは衡こう、息軒は号の一つである。
生家は「安井息軒旧宅」として国指定史跡となっている。
大阪で篠崎小竹しのざきしょうちく、江戸で昌平黌しょうへいこうに入り古賀侗庵こがどうあん、さらに松崎慊堂こうどうに師事して考証学を学び、江戸藩邸(現在の千代田区内幸町二丁目)では飫肥藩第一の名君といわれた13代藩主伊藤祐相すけともの侍読じどくを兼ねた。
文久2年(1862)塩谷宕陰しおのやとういん、芳野金陵よしのきんりょうとともに昌平黌儒官じゅかんに登用された。
息軒は幼少時から古学派系の父滄洲を師とし、朱子学だけにとらわれず諸説を参考とし、時勢に対する的確な考証に優れ現実政治にも関心が深かった。
著書に『海防私議』『論語集説』『毛詩輯疏もうししゅうそ』『管子纂詁かんしさんこ』『左傳輯釋さでんしゅうしゃく』などがある。
明治9年(1876)9月23日土手三番町(現在の千代田区五番町12)の自宅において77歳で死去した。
墓碑の篆額「安井息軒先生碑銘」は清国の江蘇省こうそしょう按察使あんさつし(司法長官)應寶時おうほうじ、撰文は門弟川田甕江おうこう、書丹しょたんは日下部鳴鶴くさかべめいかく、鐫刻せんこくは谷中の石工廣群鶴こうぐんかくである。
墓域には後妻槙子まきこ、長女須磨子すまこ、須磨子の長男小太郎(朴堂ぼくどう)の子健一郎、次男謙助の子千菊せんぎくの墓石がある。

平成14年3月29日
東京都教育委員会

(説明板より)






養源寺
(東京都文京区千駄木5-38-3)




(平成23年1月22日)



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