(別称:朝倉城・韮城・衡城・龍ヶ崎城)
「横手城」のパンフレットより
横手城は、その昔朝倉城といい、威名を遠近にとどろかせ、仙北三郡を領していた小野寺氏の居城であった。
朝倉山の前には横手川が流れ、背後は山また山と奥羽山脈につづく独立した一箇の要害なので、天文・弘治年間(500年程前)に、小野寺氏によって築かれたと伝えられている。
城の普請は、石畳を用いないで土居削崖とし、土くずれを防ぐ土止めと、敵が這い登ることができないように韮[にら]を植えた築城であったので韮城の名があり、また詩人は衡城とも称していた。
あとで俗に横手城といわれるようになった。
城主小野寺義道は関ヶ原の合戦後、徳川氏に石田方とみられ、慶長6年(1601年)所領没収、石見国へ流された。
翌7年、水戸から秋田へ左遷された佐竹義宣は、久保田城を本城として築き、朝倉城を支城として築城替えをし城代(伊達氏)をおいた。
朝倉城下に家臣を配置するために屋敷町を割り、町内をつくり攻守に備え、横手川を外濠とした。
城の両翼、南の曲輪(現城南町)北の曲輪(現城南高校付近)は敵を防ぎ戦機をみて攻撃に転ずる城の重要な場所であった。
慶応4年(1868年)戊辰の役には、仙台庄内の軍勢が朝倉城に迫り防戦したが、砲火によって城は炎上し、同年8月11日の夕暮、ついに本丸、二の丸とも落城し、城士22名は壮烈な討死をとげた。
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昭和40年に、二の丸跡に建てられた模擬天守 郷土資料館を兼ねた展望台です。 (平成14年10月6日) |
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朝倉城本丸跡 横手城(展望台)のすぐ側にあります。 藩祖・佐竹義宣を祀る秋田神社が建っています。 |
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「朝倉城跡」の碑も建っています。 ちなみに朝倉城(横手城)には天守は建てられていません。 (平成14年10月6日) |
朝倉城趾
朝倉城は横手城ともまた後代に阿櫻城とも云い詩人は衡城とも言っているが室町時代の後期豪族小野寺氏が始めて此處に築城したのであります
城主小野寺遠江守義道は関ヶ原の戦後徳川氏に石田方とみられ慶長6年(西暦1601年)所領を没収 石見国に配流されたのであります
翌7年佐竹氏が水戸から秋田に転封されて入部した時城を築き替へ城代に伊達氏を後に須田氏次いで戸村氏が代々城代を勤めて二の丸におったのであります
秋田久保田城の支城として県南の中心的守堡としての要衝の役割が大きかったのであります
幕末戊辰の役には勤皇秋田藩は佐幕派の奥羽諸藩の軍が侵入し明治元年8月11日仙台庄内の軍勢が朝倉城に迫り防戦したのでありましたが遂に利なく寄手の砲火によって城は炎上勇士21名は討死に名城と言われた朝倉城は全く灰塵に帰し落城したのであります
雄大な景観を有する古城の跡は現在の横手公園として四季の夫々の風趣を誇っているのであります
横手市
(説明板より)
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