岡山県岡山市高松558−2
平成16年10月2日
国指定史跡 高松城跡 附水攻築堤跡
昭和4年12月17日指定
高松城とは・・・・
高松城は、備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあり、天正10(1582)年の中国役の主戦場となった城跡として有名である。
城は沼沢地に臨む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築成された「土城」である。
城の周辺には、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていたのが窺われる。
縄張りは、方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態である。
本丸跡は江戸時代初期にも陣屋として活用されていた。
中国役とは・・・・
全国統一を目指した織田信長は西進を図り毛利方と対峙した。
毛利方は備中境に境目七城(高松城・宮地山城・冠山城・加茂城・日幡城・庭瀬城・松島城)を築き備えた。
織田軍の先鋒羽柴秀吉は、天正10年に三万の軍勢をもって同国南東部に侵攻し、境目の城を次々に攻略した。
最後に、攻めあぐねていた高松城の周囲に約2.6kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。
籠城1ヶ月余を経て城兵が飢餓に陥ったころ、本能寺の変が起きた。
秀吉は毛利との講和を急ぎ、高松城主清水宗治の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。
本丸跡には明治末年に移転改葬された宗治の首塚があり、北西の家中屋敷跡の一画に宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されている。
築堤跡は蛙ヶ鼻に現在も一部残存している。
平成8年3月 岡山市教育委員会
(説明板より)
説明板より
説明板より
高松城址公園 (岡山県岡山市高松) 昭和49年度、史跡0.5haに周辺を含めた3.5haを計画。 昭和50年度から整備。 平成5年度完成。 |
資料館内部 高松一帯から出土した遺物・文化財などを多数展示 |
『清水宗治城跡』の碑 (本丸跡) 明治9年に毛利元徳公爵により建立。 碑の裏には碑文が刻まれていましたが薄れていてほとんど読めませんでした。 |
史蹟 舟橋
高松城は平城で三方を掘にかこまれていたが、この南手口には、具足の武士がようやくすれちがう程の細い道があったが、開戦直前に八反堀を掘り外濠とした。
そこへ舟を並べて舟橋(長さ約六十四米)となし、城内より進攻の際はこれを利用し、又退ひく時は舟を撤去出来る仕組で城の西北の押出式の橋と共に大きく防備の役を果していた。
高松城跡保興会
高松観光協会
(説明板より)
高松城水攻め史跡公園
高松城跡は天正10年(1582)中国の役の主戦場となった城跡で、羽柴(後に豊臣)秀吉の水攻めで有名であり、水攻め築堤跡(昭和4年12月17日国指定史跡)は、高松の地の歴史を語り、当時の様子を知ることのできる貴重な文化財である。
このような史跡との一体的な利用を図ることで、貴重な歴史遺産を保存・活用し、後世に継承していくための郷土の学習の場として公園(面積約4,000u)を整備しました。
また、発掘された杭列くいれつや土俵つちだわらの痕跡等の基礎地業じぎょうの状態を、公園内に複製により展示しています。
(説明板より)
発掘調査状況(複製) |
説明板より
水攻め築堤跡の調査
平成10年(1998)の4月から5月にかけて、水攻め築堤の遺構状況を確認するため、発掘調査が行われました。
その結果、築堤の大半はすでに削り取られていたものの、現在の水田の下約1mのところで、基底部が確認されました。
堤防の盛り土は、周辺の丘陵部から運び込んだとみられる花崗岩風化土が主で、どの土層からは、陶器片や五輪塔の断片、骨片などが出土しました。
盛り土の最下層では、杭列くいれつなどとともに、「土俵(つちだわら)」の痕跡が確認され、築堤の基底部の様相が明らかになりました。
また、さらにその下は、深い粘土層が堆積しており、築堤以前には一帯が湿地であったと判断されました。
平成15年4月
岡山市
岡山市教育委員会
(説明板より)
国指定史跡 蛙が鼻築堤跡
天正10年(1582)に羽柴秀吉は、備中高松城を攻めたが、城は典型的な沼城で、地の利を生かしてその守りの固いことから、地の利を逆用して水攻めに転じた。
水攻めの築堤は、基底部20〜24メートル、上幅10〜12メートル、高さ7〜8メートルを計り、足守駅の下手まで延々と築かれた。
堤は、奉行の千原九右衛門勝則の設計によって、わずか十数日で完成したと伝えられている。
築堤は、現在ではほとんどが取りのぞかれたが、この蛙が鼻と足守駅下手に遺存する東西の両端が、往時の様相を伝えている。
(昭和4年12月17日指定)
平成元年3月
岡山市教育委員会
(説明板より)
説明板より
年表(説明板より)
永禄8年(1565年) | ||
清水宗治 高松城主になる。 | ||
天正2年(1574年) | ||
清水宗治 毛利氏に属する。 | ||
天正9年(1581年) | ||
11月 | 小早川隆景 三原城に備中七城の城主を招く ご馳走を振るまい刀を授ける。 宗治、隆景に力の限り戦い、最後はこの刀で切腹する覚悟と断言する。 |
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天正10年(1582年) | ||
3月 | 15日 | 秀吉 2万の軍勢を率いて姫路城を出陣 |
19日 | 秀吉勢 宇喜多の沼(亀山)城に到着 16日間滞在して、石山(岡山)城の宇喜多の動向を探る。 |
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4月 | 15日 | 秀吉勢 竜王山に着陣 |
16日 | 秀吉、鍛冶屋山城から宮路山みやじやま城を攻める→5/2落城 | |
17日 | 冠山かんむりやま城を攻める→4/25落城 | |
25日 | 冠山城落城 忍者に火を放たれ、城主・林重真切腹 中島元行と清水右衛門が秀吉陣に夜討ちをかける |
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27日 | 清水宗治、秀吉勢と戦う 宗治 味方を100人失うも、総力戦で400もの首を取る。 |
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5月 | 1日 | 秀吉「水攻め」を決定する 黒田官兵衛の案により前代未聞の「水攻め」に着手する。 |
2日 | 宮路山城落城 清水宗治、宇喜多陣に攻めこむも敗れる。 |
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8日 | 築堤工事に着手 底部24m、上部12m、高さ8m、長さ3kmに及ぶ大堤防を12日間で築いたとされる。 |
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11日 | 秀吉 陣を石井山に移す 竜王山から、高松城に一番近い石井山に陣を移す。 |
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不明 | 日幡ひばた城 裏切にて落城する 上原元祐(毛利)秀吉に寝返り、城主日幡六郎兵衛を討ち取り、日幡城を開城。 後日、隆景が城を取り戻す。 |
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16日 | 鴨庄かものしょう城 裏切にあうも応戦し勝利する 加勢の生石中務が寝返ったが、毛利家臣桂かつら民部みんぶは数十人を討ち取り勝利。 |
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19日 | 築堤が完成する 数日で満水となり、城は孤城となる。 |
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21日 | 毛利の援軍到着 輝元を大将に4万。 輝元は猿掛城、隆景は日差山、元春は庚申山。 |
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6月 | 2日 | 本能寺の変 織田信長、高松にむけ出陣するが、本能寺で明智光秀に討たれ自刃。 |
3日 | 秀吉、光秀から毛利への使者を捕らえ、信長の死を知る 秀吉は急ぎ安国寺恵瓊えけいを呼び、毛利と講和する |
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4日 | 清水宗治 自刃 小船を浮かべ、舞いをまい、唄をうたい湖上に散る。46才。 辞世の句 「浮世をば 今こそ渡れ 武士の名を高松の 苔に残して」 |
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8日頃 | 秀吉、姫路城に帰還(中国大返し) |
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