飛行第65戦隊


慰霊碑



飛行第65戦隊
慰霊碑

(愛知県幡豆郡幡豆町・三ヶ根山頂・比島観音霊場)




(平成20年4月16日)

戦隊概史

飛行第65戦隊ハ昭和13年8月朝鮮会寧ニ創設。
連浦・宣徳ヲ経テ16年8月満洲国敦化ニ移駐シ関特演ニ参加。
17年5月ヨリ9月マデ中支上海・杭州ニ進出淅■作戦ニ参加シ10月勃利(青山堡)ニ帰還、海浪移駐。
19年7月比島進出、ルソン島・ネグロス島ヨリ対潜作戦・レイテ航空作戦ニ参加。
12月主力ハ原ノ町ニテ戦力増強、比島残留者ハ地上戦斗に参加、中部ルソン「サラクサク峠」ニテ激戦ス。
20年3月知覧ヨリ沖縄航空作戦ニ参加、終戦ニ至ル

昭和56年4月吉日建之 戦友会一同

(碑文より)


【飛行戦隊】

日華事変中の昭和13年8月、制度を改めて従来の飛行連隊や飛行大隊は飛行戦隊と改称し、陸軍航空兵力の基礎単位となった。
戦隊長は少佐である。
主として内容は同一機種である。
1個飛行戦隊は3個飛行中隊からなる。
爆撃機なら1個中隊(9機)×3=27機、戦闘機なら1個中隊(12機)×3=36機というわけだが、予備機や欠員も多く、必ずしも一概には言い切れない。
飛行戦隊は独立した飛行場大隊の世話になった。
飛行戦隊は時には兵力の3分の1=1個中隊を本隊と分離し、別の方面に貸与してやる場合も多い。
太平洋戦争終了までに100以上の飛行戦隊があった。

偵察機は少数機で忍者のように行動するから、飛行戦隊よりも独立飛行中隊(8〜12機)として行動したものが多い。
もちろん偵察機の飛行戦隊もあったし、偵察機と構造のよく似ている軽爆(あるいは地上襲撃機)の中隊とコンビを組んで1個飛行戦隊を編成するケースもあった。
同じ部品を使っていると整備が容易だからであろう。

(参考:木俣滋郎 著 『陸軍航空隊全史』 朝日ソノラマ 文庫版航空戦史シリーズ90 1994年7月 第6刷発行)

(平成31年1月4日 追記)


【飛行第65戦隊】

通称号:威第9104
飛行分科:襲撃、軽爆
編成時期:昭和13年7月27日
編成地:会寧(朝鮮)
使用機種:九四式偵察機、九八式軽爆撃機、一式戦闘機「隼」二式複座戦闘機「屠龍」、九九式襲撃機
終戦時の所在地:目達原(福岡県)

ノモンハン事件(昭和14年9月)、浙かん作戦(昭和17年5月)などに参加。
太平洋戦争前半は咸興(北朝鮮)、海浪(満州)などに駐留。
昭和19年7月、フィリピン・ルソン島リパに展開してレイテ航空総攻撃などフィリピン防衛戦に参加。
昭和20年1月2日、戦力回復のため原ノ町(福島県)に移動し、夜間低空進攻の訓練を実施する。
3月、知覧(鹿児島県)に展開して沖縄への反攻航空作戦に参加。
ただし、特攻攻撃は吉田戦隊長の強い意志のもと、実施されなかった。

(参考:『別冊歴史読本 零戦と日本航空戦史』 新人物往来社 1996年11月発行)

(令和元年11月25日 追記)



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