広島護国神社

広島県広島市中区基町21−2 広島城内)


広島護国神社 平成22年5月1日

由緒

明治元年 朝命により戊辰の役の戦死者78柱の み霊を二葉の里に斉祀し水草霊社と称したのに起源する
明治8年 社名を官祭招魂社と改称する
昭和9年広島市基町に社殿を造営し明治10年以降の各戦役・事変に於ける戦死戦病歿者4千262柱を合祀する
昭和14年4月 広島護国神社と改称する
昭和20年8月6日 原子爆弾により社殿悉く灰燼に帰す 為に仮に小祀を建立して祭祀を続ける
昭和31年11月 社殿を此の地に造営し累次合祀して現在9万2千余柱を奉斎する このうち1万柱は 地域・職域・義勇隊・動員学徒・女子挺身隊等の公務原爆関係の御祭神である

以上

平成元年12月
別表神社 廣島護國神社

(説明板より)

廣島護国神社 廣島護国神社・社殿
廣島護国神社・社殿 廣島護国神社

御由緒

当神社は、明治元年12月、明治維新の戊辰の役において陣没された高間省三命以下78柱を二葉の里に新しく造営された水草霊社に斎祀したのに起源します。
爾来、大東亜戦争に至る迄の幾多の事変・戦争において戦没されたおよそ9万2千柱(勤労奉仕中に原爆の犠牲となられた動員学徒等の英霊1万柱を含む)の神霊をお祀りしています。
水草霊社は明治8年に官祭招魂社となり、同34年官祭広島招魂社と改称されました。
昭和9年、社殿の老朽化に伴い、西練兵場(t現在の市民球場の辺り)の西端に新社殿を造営、遷座されました。
同14年、広島護国神社と改称されましたが同20年8月6日、至近距離上空で原子爆弾が炸裂し、社殿等を悉く焼失しました。
その後同地に小祠を設け、祭祀を続けてきましたが、市の復興に伴い移転を余儀なくされ、現在の広島城跡地に社地を選定し、復興奉賛会を結成。
同31年秋、社殿が竣功し遷座祭が執行され、待望の復興を遂げました。
以来30余年、多くの参拝者を迎え社頭は賑わいをみせておりましたが、鳥居・社殿等傷みが著しくまた手狭となってきたため、平成の御大典を契機に記念事業としてこれらの改修・お建替えを計画し、平成2年に御大典記念事業奉賛会が結成されました。
そして、ご遺族を始め県市民・各会社団体はもとより全国有志からの浄財により、平成5年4月本殿拝殿を始め石鳥居・石畳に至る全ての工事が竣功。
盛大な遷座祭・竣功奉祝祭・旧社地への御神幸等が執り行われ現在に至っています。
その境内地は、広島市の中心部に近く広さは1千500坪(4千950平方米)を有します。
また広島城はおよそ400年前の天正17年に毛利輝元により築城され、明治維新以後は広島鎮台・第5師団司令部が置かれ、広島は軍都として栄えました。
特に明治27年の日清戦争の時には大本営が置かれ明治天皇が7か月余御駐輦遊ばされました。
戦後この城跡は、中央公園の一部として逐次整備され喧噪な市街地の中でその閑静かつ歴史的に意義深い環境は英霊のお鎮まりになる場所として相応しいばかりでなく、県市民の憩いの場として人気を集めています。

(『御参拝の栞』より)

「英霊にささぐ」像





「英霊にささぐ」像






(平成22年5月1日)

(碑文)

父慕い
母の育み
    幾春秋
深き恵みに
われはこたえん

昭和53年10月吉日
主唱 広島市遺族会青年部
後援 広島県遺族会青年部
〃   広島市遺族会
〃   広島県遺族会
施工 三好石材店


慰霊碑




中国軍管区司令部原爆慰霊碑
(広島城内・広島護国神社脇)





(平成22年5月1日)

中国軍管区司令部原爆慰霊碑について

明治6年此処広島城内に広島第五鎮台が設置され、その後第五師団司令部となりました。
爾来その隷下部隊は、萩の乱、西南の役、日清戦争、日露戦争、北清事変、シベリア出兵、など幾多の戦役に際し、常に我が国軍の一翼として活動しました。
一連の日華事変、太平洋戦争において第五師団出兵後の広島では、留守第五師団司令部、広島師管区司令部、中国軍管区司令部と名称、組織、使命はその都度変化しながらも多くの師団、旅団を編成して送り出し、補充を行ってきましたが、昭和20年8月6日午前8時15分 原子爆弾の一閃により壊滅し、事実上の終焉を迎えました。
被爆当時中国軍管区司令部に勤務しておりました軍人軍属の死没者の数につきましては諸説があり定かではありませんが、この地で被爆した軍人軍属並びに学徒動員のさなかにこの地で被爆した旧比治山高等女学校関係者を中心に結成した「広島師友会」は、以来、盟友の慰霊碑の建設と慰霊式の開催を中心に活動してまいりました。
毎年8月6日午前8時より、この地におきまして比治山女子中学高等学校の主催により原爆死没者の慰霊と共に二度と戦争のない平和な社会の実現を目指す誓いの場として追悼式が執り行われております。

連絡先 比治山女子中学高等学校 広島市南区西霞町5−16

平成19年7月8日
広島師友会

(説明板より)

中国軍管区司令部配置図 (説明板より)

中国軍管区司令部地下通信室跡





中国軍管区司令部の地下通信室






(平成22年5月1日)

中国軍管区司令部の地下通信室 (爆心地から約700メートル)

広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の作戦司令室、通信室が設けられていた。
この通信室では、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。
原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。
これが、広島の原爆被災の第一報といわれている。

被爆後の通信室周辺の写真
(被爆後の通信室周辺、1945年10月 米軍撮影)

(説明板より)

地下通信室 地下通信室内部
地下通信室 内部



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