歩兵第29連隊

(通称号:勇1303部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
仙台のち会津若松 明治31年 第2師団 サイゴン

明治29年11月に仙台で編成着手。
明治31年11月編成完了。
明治37年、日露戦争と同時に動員を受け満州軍第1軍管下に入る。
鴨緑江渡河作戦、九連城付近の戦闘、鳳凰城の占領、更には遼陽会戦、沙河会戦に参加。
明治38年、黒溝台付近の戦闘、奉天会戦に参加し、明治39年1月に凱旋帰国。

大正14年1月、宮城県仙台の衛戍地から福島県会津若松に移駐し、郷土部隊として再出発する。
昭和6年、満州駐剳のため奉天(瀋陽)に向かい、満州事変の勃発後は直ちに奉天付近の戦闘に参加。
以後、江橋、昂々渓、チチハル、ニューチャン、ハルピンへと転戦。
昭和8年1月に会津若松に帰還。

昭和11年2月26日に起こった「2・26事件」では、第2師団派遣部隊として上京し、戒厳勤務に従事。
昭和12年、臨時編成下令。
満州に進出し、通河、方正、浜江省の東興、木蘭などに分駐して周辺の警備にあたる。
昭和13年4月、ハルピンに移駐。
5月に応急派兵が下令され、北支の済寧に進出して徐州会戦に参加。
その後、ノモンハンの戦闘に参加し、昭和15年10月末に帰還する。

昭和17年1月、第2師団は宇品港を出発してインドシナのカムラン湾に集結。
ここでジャワ攻略の命令を受け、3月1日、ジャワ本島に敵前上陸。
英仏蘭連合軍の抵抗を排して、3月9日に全面占領。
9月17日、連隊主力はニューブリテン島ラバウルへ転進。
ここでガダルカナル島攻略の命令を受け、ガダルカナル島に進出。
10月24日の夜間総攻撃に参加。
第10中隊は圧倒的な敵の火力により生存者は僅かに4〜5名となる。
続いて第9中隊が突撃したが敵の十字砲火にのみ込まれる。
翌25日午前4時過ぎ、第7中隊が突撃したが夜襲に完全に失敗し、残存中隊の突撃は中止となる。
この時に軍旗を喪失。
連隊は戦線に留まり軍旗を徹底的に捜索せよとの軍命令を受ける。
歩兵第29連隊の後を受けて突撃を敢行した歩兵第16連隊、歩兵第230連隊も敵陣への突入に失敗し、他方面に転進。
ムカデ高地の戦場には歩兵第29連隊のみが残る。
夜間捜索中、連隊長と軍旗の行方が敵陣から脱出してきた高橋軍曹の報告で判明。
連隊長以下7名が孤立したが、10月29日、他の5名に軍旗と連隊の最後を伝えるよう脱出を命じて、連隊長は鈴木大尉と二人で敵陣に突入したという。
11月23日、連隊は第2師団予備となり、海岸警備のため分散配置となる。
昭和18年2月、残存兵約300名はガダルカナル島を撤退。
その後、ルソン島警備につき、ここで連隊を再編成する。
11月、シンガポールに移動し、以後昭和19年2月までマレー半島パレンバン付近の警備。
この間、軍旗を再拝受するが、帰路に飛行機事故で連隊長以下が殉職。
後任の三宅連隊長が軍旗を修復し、昭和19年2月26日に軍旗が連隊に到着する。
3月、ビルマに進出し、サントウエイの防衛にあたる。
8月から龍陵に転進し、第一次「断」作戦に参加。
10月にメンマオで第二次「断」作戦に参加。
昭和20年1月、仏領インドシナに転進し、2月から明号作戦に参加。
以後は南インドシナの防衛に当たるが、9月2日に終戦を知る。


営門



連隊営門
(福島県会津若松市・市立第二中学校)





(平成20年5月5日)
連隊跡周辺



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