3.慰霊地はどこにしようか・・・・


 平成22年(2010年)3月20日 (第2日目)

さぁ、今日は更に強行軍である。
一気にエチアゲまで走る!
多分、ここから200km以上あるんじゃないかな?

朝食

朝食を食べて8時にはホテルをチェックアウトして出発!
国道5号線を北上する。
1時間後・・・ヌエバエシア州のムニオスに着く。
この地は、我が戦車第2師団の戦車第6連隊が米軍と激闘した場所である。

この町の中心街を抜けて少し北上すると「セントラル・ルソン・ステイト・ユニバーシティ」がある。
日本語ではなんていうんだろう?
中部ルソン州立大学?(笑)
ここは、当時は「農学校」って呼ばれていたと思うのだが、ここにも日本軍が配置されていた。

CENTRAL LUZON STATE UNIVERSITY
大学正門前の歩道橋

国道5号線上で「歩道橋」があるのはここだけではなかろうか?
日本では珍しくはないが、フィリピンの郊外で歩道橋を見かけるというのは・・・まず皆無である。

大学前の国道5号線

並木道があるのもここだけである。
佐藤さんのお母さんが、この街路樹の写真を撮りたいというので、ここで車を降りて小休止する。

ここから車で約20分で、サンホセという町に到着。
ここのレストランでトイレ休憩。
このレストランは、今から10年ほど前に来たことがある。
当時、空き地だった隣りの土地には洒落たレストランが建っていた。
まぁ、10年も経てば変わるのも無理はないか?(笑)
しかし、その他の景色は・・・変わってないなぁ〜

サンホセのレストラン
   
(サンホセ)・レストランの前の道

このサンホセは、当時は交通の要衝で、日本軍の兵器、食糧の集積所でもあった。
道路の両脇に大量の物資が積み上げられて各地への輸送を待っていたが・・・・
米軍の空爆で灰燼に・・・・
なんと杜撰な管理だろうか・・・
この地を訪れるたびに昭和20年の景色を想像してしまうのである。
あ〜なんというもったいないことを・・・・
この時に大量の物資が失われていなければ・・・と、ついつい思ってしまうのである。

更に北上し・・・・プンカンに着く。
小さな集落で、地図にも載っていない場所である。
ここの道路脇に歩兵第10連隊関係の慰霊碑がある。
佐藤さんのおじいさんの部隊とは全く関係のない場所なのだが、ここで下車して慰霊碑をお参りするのに付き合って頂く。

プンカンにある慰霊碑

慰霊碑が十字架の形になっているのは、十字架ならばキリスト教徒のフィリピン人に荒らされることはないだろうということらしい。
民家の庭に建っていて、ここの住民が管理しているが、今日は子供だけしかいなかった。
どうも大人は仕事に出かけているようだ。
以前も、ここに訪れた時にわずかだが「管理料」として謝礼を渡したのだが、まさか子供に現金を渡すわけにもいかないので、今回は佐藤さん持参のキャンディーを子供たちに配ってもらうことにした。

キャンディーを配る佐藤さん

このプンカンという場所は当初、私の祖父の部隊がここに陣を張った場所であるが、地形的に敵の浸透を受けやすいため別の場所に移動した。
このことは師団司令部にも進言し、許可を得て移動したにもかかわらず、祖父の立ち去った後に歩兵第10連隊の一部を主隊とする別の部隊に陣地を築かせたのである。
結局、祖父の予想通り、敵の攻撃を受けた時に周囲から敵に浸透され、守り切れず玉砕してしまったのである。
なんで、こういうことをしてしまったのやら・・・・
祖父が「ここは駄目だ」と進言していたというのに・・・・
昨年、作戦参謀にお会いする機会があったのでお尋ねしてみたら「方面軍の指示だったから仕方がなかった」との答えだった。
どうも言い訳がましくしか聞こえなかったが・・・
おかげで貴重な命を無駄に失ってしまったと言える。
もっと地形的にいい場所に陣地を作っていたら、もっと実力を発揮できたものを・・・・
何が悔しいって、自分の実力を思う存分発揮させてあげられなかったことである。
可哀そうである。
さぞかし辛かったろう・・・・
祖父は師団の中でも一目置かれた連隊長だったらしいので、上級司令部から意見を認められ移動できたのだろうが・・・
この部隊は、命令に従わざるを得なかったのだろうか・・・
いつもここをお参りするたびに悔しいなぁと思うのである。
祖父たちの進言が役に立たなかったことが、なんとも悔しい・・・・

と・・・・ちょうど大型観光バスが通りかかった。
日本人の団体のようである・・・・が・・・・
わずか1〜2分間停車して窓から写真を撮って・・・通り過ぎていった。
なんだ?あいつら?
“ステラさん”が、今日、こちらの方面からマニラに戻る日本の慰霊団があるという話を聞いているので、多分、あのバスがそうではないかと言う。
バスを降りてお線香をあげてやらないのか?
慰霊碑は道路のすぐ脇である!
我々を写真に撮ってどうしようっていうんだ?(笑)
だから、団体の「慰霊団」っていうのは嫌いなのだ。
大型観光バスで移動するから長時間車を止められないのはわかるが・・・・
窓から見て通過・・・・では、慰霊になるのだろうか?
時刻は午前10時・・・・
今からマニラに戻って市内観光と免税店でのショッピングか?

更に北上・・・・
バレテ峠に着く。
ここにも日本の慰霊碑があるが、足が少し不自由だという佐藤さんのお母さんには丘の上まで歩いてもらうのはちょっと大変だろう。
ということで、ここは車窓から丘を見てもらうということで通過することにする。
慰霊碑の横まで車が入っていけるのなら慰霊をしたいところだが、坂道を歩いていかねばならないので無理だ。
英霊には申し訳ないが・・・勘弁してもらおう。
ここは第10師団を主力とする部隊が守っていた場所。
さきほどのプンカンに前進陣地として一部の部隊を配置して国道5号線を北上して来る米軍(米第25師団・ガダルカナル島での戦闘を経験しているハワイの部隊)を迎え撃つ。
で・・・その後ろのこの峠に主力が強固な陣地を構築して防衛線を築いたわけだが・・・
結局、この峠の防衛線も激戦のうちに突破されてしまったのである。
ここの慰霊碑の下には、この周辺から収骨した遺骨を荼毘に付した後の遺灰が埋葬されている。

バレテ峠を越えて、今度は下り坂・・・・
サンタフェに到着。
ここは昔からある「宿場町」という感じの集落である。
ここには一時期、戦闘指令所や野戦病院もあった。
この集落から西に向かって山道を入っていくと、サラクサク峠がある。
そこが私の祖父が戦っていた場所。
米軍は、サラクサク峠を越えて西からこの国道5号線を寸断するよう横切る作戦だった。
そのため、祖父たちは時間稼ぎの戦闘を続けて米軍の進出を食い止めようとした。
祖父達600名対米軍1個師団(米第32師団)の戦いである。
米軍は約1万名以上いたであろう。
この米第32師団(通称・レッドアロー)はフィリピンに来る前はニューギニアで日本軍と戦った実戦経験のある部隊である。
600名の祖父の部隊は、一気に50名まで兵力を消耗。
この時に、戦車を失い歩兵化していた戦車第2師団が投入された。
激闘すること3ヵ月にも及び、結局、米軍はサラクサク峠を突破できず、それ以上の前進を諦める。
その代わり、第10師団(鉄兵団・姫路で編成)が守る国道5号線上のバレテ峠が先に突破されてしまった。

このサンタフェを通過して北上へ逃げる日本軍将兵や在留邦人など民間人の退路を守るため祖父たちは戦っていたのである。
ある生還者から「あなたのおじいさんには会ったことはないが、サンタフェを通過する時に鈴木部隊が米軍を食い止めて頑張っているから今のうちに早く通過しろと言われたので名前だけは知っている。そういう意味ではあなたのおじいさんには恩義があるんだ」と言われて感激したことがある。
そのサラクサク峠には慰霊碑が建っているが、そこへ行く時間的余裕はない。
残念ながら、祖父の部下達のお参りには行けない。
今回は佐藤さんご家族がメインであるから・・・勘弁願おう。
たぶん「いいよ〜」って言ってくれるだろう・・・と勝手に解釈し・・・(笑)
サンタフェのガソリンスタンドでトイレ休憩、一服して・・・さらに北上する。

今日の昼食はバヨンボンでとるのがいいのではないかと“ステラさん”と話をしていたのだが・・・
なんと、ドンピシャ!12時にバヨンボンの町に到着!(笑)
お〜お〜!完璧な旅行ではあるまいか?(大笑)
バヨンボンにあるサパー・インというホテルのレストランで食事をする。
このホテルは、よく日本の慰霊団が宿泊するホテルである。

サパー・イン・ホテル
昼食

食後、佐藤さんたちには一休みしていただき、その間にホテルの従業員と“ステラさん”と私の3人で佐藤さんの慰霊地の検討をする。
川の近くでの慰霊がいいと思うのだが、問題はどのあたりがいいかということ。
ホテルの従業員の話では、アンガダナンという町が川の近くにあり、そこから川岸に行けるとのこと。
その他の場所からは川岸に行く道はなさそうだという。
そういうことならば、アンガダナンを候補地の一つとしよう!
“ステラさん”が「アンガダナンが目的地ですか?」と言う。
そうじゃなくて・・・・単なる私の勘である。(笑)
だから、候補地の一つ。
とにかく現地に行ってみなければわからないのである。

まだ出発するには、ちょっと時間がある。
タバコを吸いに外に出たついでにホテルの周囲を調査。
ホテルの前あたり1ブロックなら歩いても安全そうである。
車の窓から景色を見ているだけではよくない。
少しは街の中を散策しなくては、思い出というものが残らないのではないか?
エアコンの効いた車の中にいるばかりでは、外の暑さも経験できない。
というわけで・・・佐藤さんご家族を誘ってホテルの周囲を散歩することにした。
が・・・“ステラさん”がちょっと嫌な顔をしたのが気になる。
ん?何かあるのか?
まぁ、よかろう・・・
ホテルの前の道を1ブロックだけ歩いてすぐにホテルに戻ることにする。
と・・・後から“ステラさん”が追いかけてきた。(笑)
何かあったら大変ということで心配して追いかけてきたのである。(笑)
私の事だから無茶をするんじゃないかと思ったのだろう。(笑)
一人旅なら無茶もするが、今回は別である。
1ブロックだけしか歩かないよ〜(笑)
雰囲気を感じるだけだから大丈夫だってば!(笑)

バヨンボンの町

“ステラさん”が血相を変えたということは、この町を単独で散策するのは危険ということなのか?
このバヨンボンは北へ向かう日本軍、民間人が滞留した場所である。
在留邦人などの中には、ここにいくつかの集落を作って自活生活に入っている人達もいたようである。
その跡地はどこなのか・・・今はどうなっているのかは知らないが・・・

時刻は午後1時・・・ここからエチアゲに向かう。
約2時間後、エチアゲの町に入るが・・・
どこか適当な場所はないものか・・・
ここがエチアゲですよ〜と分かるような場所で記念写真を撮っておきたい!
で・・・エチアゲ・イースト・セントラル・スクールという学校を見つけたので、その前で写真を撮ることにする。
「ECHAGUE(エチアゲ)」という文字が一緒に写れば、エチアゲに来たぞという証拠写真になるだろう。(笑)

   
ECHAGUE EAST CENTRAL SCHOOL 学校の前の道

時刻は午後3時・・・・更に北上!
アリシアという町を通過して・・・そのままカワヤンまで向う。
“ステラさん”が「アンガダナンへ行くんじゃないんですか?」と驚いた。
いや、こっちの方が驚いちゃうんだけど・・・(笑)
アンガダナンはあくまでも候補地の一つである。
カワヤンは一度行かねばならぬ場所だから・・・このまま進む!(笑)

佐藤さんのおじいさんは、独立歩兵第179大隊(一瀬部隊)第3中隊第3小隊の小隊長だった。
ルソン島北端のアパリから南下してカワヤンに駐留していた。
戦況が急迫し、駐留地を出発し南下して北上して来る米軍と戦うことになったらしい。
で・・・一瀬部隊の先頭を切って南下していたが、途中で米軍と遭遇、戦車による攻撃を受ける。
小隊長は戦車相手に戦うのは無謀ということで物陰に隠れ戦場を離脱。
途中で川を渡り東方の山地へ向かったが、小隊長は途中で病死したという。
これが、“唯一の生還者”の証言らしいのだが、どうも腑に落ちない点が多い。
この証言は生還者が直接語ったのではなく、間に入った戦友の方が聞いた話として伝わっている。
この、間に入った人が会った時にこの生還者は「あまり話をしない人」だったという。
私のの祖父もフィリピン戦については全く体験談を語ることはなかったが、遺族に対しては何時間にもわたって事細かに最期の様子を話していた。
遺族に対しては生還者はだいたいそういう丁寧な対応をするはずなのだが・・・
「小隊長と最後まで行動を共にしていた」と言っていたらしいが、その割には証言があっさりしすぎている気がしないでもない。
直接、遺族に会って報告をしようともしていない・・・・
私は“唯一の生還者”のこの証言は正直言ってあまり信用できない気がしてならないのである。
どこまでが本当の事なのか・・・・どこか誤魔化しているところがあるような気がする。
本当は、最後まで一緒には行動していなかったのではあるまいか?
途中で小隊長を置き去りにして、一人、単独行動を取ったから生きて帰ってこれたのではなかろうか?

いずれにせよカワヤンにいたことは確かである。
ここから南下して米軍とぶつかったが・・・それはエチアゲだろうか?
米軍側の記録や資料を入手していないのでなんとも言えないが・・・
エチアゲまでは到達していなかったのではあるまいか?
その手前のアリシアあたり又はアリシアからエチアゲの中間地点あたりで衝突したのではないだろうか?
証言では、小隊長は戦闘を避けて「カワヤンの1〜2キロの地点から川を渡った」という。
「カワヤンの1〜2キロ」とはカワヤンを過ぎてというよりカワヤンの手前と考えていいだろう。
ということで、いずれにせよ、カワヤンまで行って検証しなくてはなるまい。

カワヤンの町の入口あたり・・・・
白い車が我々のワゴン車。

走ること約40分ほどでカワヤンの入り口付近に到着。
ここのトライシクル乗り場(日本でいえばタクシー乗り場)でトライシクルの運転手たちにカガヤン河の川岸に向かう道があるかどうか尋ねてみたが、そういう道はないという。
当時、逃避行している人が、道がないから川には行かなかったとは言えまいが・・・
少なくとも我々は慰霊のために川岸に行きたいので、道がないのではダメだ。
簡単な略地図では、道路のすぐ脇を川が流れているように見えるのだが、この道路からは全く川が見えない。
“唯一の生還者”の「1〜2キロ地点で川を渡った」というのは、どうだろうか?
信用できる証言だろうか?

もと来た道を戻ることにする。
少なくとも、佐藤さんのおじいさんは、この道を通ったことは間違いない。
サンチャゴへ向かう道は、この道しかないのだから・・・・
当時と同じ道を走って亡きおじいさんを偲んでもらうことにする。

カワヤンからエチアゲに向う道
イサベラ州カワヤンの境界線を示すアーチ

やっぱり、どうも納得できない。
この一本道を真っすぐ引き返して、カワヤンの1〜2キロ手前で川を渡るというのは考えられない。
一本道を真っすぐ戻ったら、相手は戦車である。
すぐに追いつかれてしまう。
となると・・・この道の左右どちらかに本道を避けて横道に逃げるのが自然ではあるまいか?
ここは遺族の方の御意見も伺わねば・・・・
お二人とも、この一本道を、先ほどの場所まで引き返してから川を渡るというのは不自然な気がすると私と同意見だった。

エチアゲからアリシアに向かう道は逆L字に曲がっている。
もし戦闘に巻き込まれたのがこのあたりだとすると・・・・
敵を背にして左に逃げるとエチアゲの町に向かうから敵に近付いてしまうので、もし私が小隊長だったら右へ逃れるだろう。
右へ逃れると、カガヤン河に向かうことになる。
アリシアの町の中で米軍と遭遇した場合も同様で、やっぱり右方向へ逃れるだろう。
右へ逃れると・・・・アンガダナンの集落へ向かい、その先はカガヤン河である。
昭和20年当時、アンガダナンという集落があったかどうかは知らないが・・・
敵と遭遇して退避するとすれば道の右方向・・・アンガダナンの方へ行く・・・・
これが理にかなっているのではあるまいか?
ということで・・・アンガダナンへ向かうことにした。

ドライバーの“クリスくん”や“ステラさん”は、同じ道を行ったり来たりして無駄なことをしているように思っていたかもしれないが、考えられるだけのことを考えるためにも、この行動は必須なのである。
現地に足を運び自分の身で体験する。
65年も過ぎてしまっているが、追体験をしてみることは大事なことだと私は思う。
そのうえで、少しでもベターな判断をする。
戦後65年も経っていては、どうしたってベストの判断は無理なのだから、少しでもベターな判断をせねば・・・と思うのである。


  


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