4.ささやかな慰霊祭


 平成22年(2010年)3月20日 (第2日目)

しばらく走ると、橋が架かっている場所に到着した。
カガヤン河である。

佐藤さんのおじいさんが渡河した正確な地点がどこなのかはわからない・・・・
が・・・この河を渡ったと“唯一の生還者”が言っているそうだから、本当に河を渡ったかどうかは知らないが、少なくともこの景色は見たのではないだろうか?
慰霊をするなら、このあたりが良さそうな気もするが・・・と、思っていたら・・・・
佐藤さんのお母さんが「この景色、見たことがあります!」と突然言い出した。

お父さんが戦死したことを知った後、当時幼かった“お母さん”は、夢の中ででもいいからお父さんに会いたいと思っていたそうである。
毎晩、お父さんが夢に出てくれるよう、お願いしながら寝たそうで・・・・
その時に、この景色を夢で見たとおっしゃるのだ。
「お父さんは出てこなかったんですけど、この景色は間違いなく、あの時に夢で見た景色と同じです!」と言う・・・
全身に鳥肌が立つ思いである・・・・
「ここで慰霊をしませんか?」と“お母さん”・・・・
「夢に出てきた景色と同じなら、ここで慰霊をするのが一番いいと思いますよ!」
ということで、意外にもあっさりと慰霊地は決まった。

“唯一の生還者”の証言によれば、エチアゲの近く(?)で米軍に遭遇した時に隣りの第2小隊長が戦車砲の直撃を受けて粉々に飛び散って戦死したという。
他の小隊長の最期の様子は詳しく覚えているのに、どうして行動を共にしている自分の小隊長の最期の様子は詳しくないんだろう?
「早いうちに病死した」という証言だけである。
早いうちって・・・いつのことなのか明確ではない。
どうもよくわからん・・・・・

敵の攻撃を避けて戦場を離脱し、カガヤン河に突き当たったそうで・・・
この小隊は、この河岸で筏を作って対岸へ渡り、そのまま東方の山地の中に逃げ込んだそうである。
筏を作ったのなら、多分、竹を使ったのではあるまいか?
しかし、この周辺には竹林は見当たらない。
戦後60年以上も経っているから、竹林も消滅したのかも・・・・

「早いうちに病死」という証言が、どうしても気になる。
マラリアなのかアメーバ―赤痢なのか、病名を明確に伝えていない。
戦場で多くの病気を体験し、見聞きしているはずだから症状を見ればすぐにわかるはずなのだが・・・
なぜ、病名をハッキリ言わないのか?
マラリアなら高熱を出して意識朦朧となる。
そこで、こういう仮説も成り立つ。
小隊長は、この時点でマラリアを発症してしまい、意識朦朧としていたため指揮が取れず、部下はそのまま河を渡って東方山地に逃げ込んだ・・・・
つまり「置いて行って」しまったのなら、“唯一の生還者”の口が重いのもわからないでもない。
最期の様子も見てないから、体調が悪そうだったので、(その後)「病死」したのだろう・・・ということにしているのかもしれない。
遺族から「見捨てた」と責められるかも知れないと思ったから、遺族に直接会うことを避けたのかもしれない。

マニラ東方高地で全滅した野砲兵第53連隊第3大隊の川北大隊長の場合は、部下達に東海岸へ向って脱出するよう命じて自分は単身敵陣に向かったという。
これは、行動を共にしていた当番兵の証言らしいが・・・
自決したとも、単身で敵陣に突っ込んで戦死したとも言われていて、その最期はハッキリしていない。
なぜならば、この当番兵もまもなく戦病死してしまい、この当番兵が亡くなる前に他の兵隊に語ったという「伝聞」だからである。
どこかで、この当番兵か、話を聞いた兵が、大隊長の最期の様子を誤魔化している雰囲気がないでもない。
自殺ではなく、勇猛果敢に敵陣に斬り込んで・・・としたほうがいい・・・とか・・・
それで諸説が残ってしまっているのではなかろうか?

佐藤さんのおじいさんの場合もこの大隊長と同じ思いだったかもしれない。
“唯一の生還者”が「病死」と言っているのであれば、負傷はしていなかったのだろうが、体力が衰えていたとすれば、元気なものは脱出して、なんとかして日本へ帰れと命じた可能性はある。
この地区で戦った兵の間には、東海岸に出て、丸太舟でも見つけてそれに乗れば、海流に乗って日本へ帰れるという噂が広がっていたという話を聞いたことがある。
だから、東方山地を目指したのではなかろうか?

もしかしたら、佐藤さんのおじいさんは部下に東方への脱出を命じて、自分は河を渡っていなかったかもしれない。
現地に来てみて、この川幅と水量を見て、なおさらそう思ったのである。
今は乾季である。
乾季でこれだけの川幅と水量があるとは驚きである。
当時は雨季である。
河の流れも乾季である今とは違って激しい濁流だった可能性はある。
体力が弱っていて意識も朦朧としていたら・・・多分、この河は渡らなかったのではなかろうか?

カガヤン川 

昭和17年、日本軍がフィリピンを占領した時に、フィリピンゲリラ討伐のため、部下を率いてエチアゲからこのカガヤン河を渡り東方高地を越えて東海岸まで行ってゲリラの討伐をして引き返して来たという人の話を聞いた覚えがある。
どういうルートだったか具体的なルートは聞いていないが、東海岸まで行くことが出来たことは確かである。
となると・・・この橋が架かっているこの道か?
東方山地の中は密林で、“山ヒル”に喰いつかれてひどい目に遭ったという。
かなり劣悪な環境だったようだ。
“唯一の生還者”の証言が全て本当だとしたら・・・・
この劣悪な環境の密林の中で病死したとしてもおかしくはないが・・・・

ああではないか、こうではないか・・・と想像するが・・・すべては空想の世界でしかない。
真実は誰にもわからない。

「うちのおじいさんは、本当にこのあたりで戦死したんですか?」と佐藤さん・・・
「う〜ん・・・どうでしょ?今となっては正確な場所なんてわかりませんからねぇ〜。とにかく、この河のこの景色は見たんじゃないかと思うんですけどね」
「そうですか・・・」
「いい線いっているけど、ちょっと違うんだよなぁ〜、もうちょっとこっちなんだけど・・・とおじいさんは言っているかもしれませんが・・・」(笑)
「アハハ・・・」
「ちょっと場所が違うが、まぁ、ここまでよく来たもんだ・・・と喜んで許してくれると思うんですけどねぇ〜」(笑)
「ですよね!」(笑)

いずれにせよ、河のこちら側で慰霊祭をすれば、どちらにころんでも間違いはあるまい。
河を渡ったのは、ここだとは断言できないが、橋が架かっている側であれば、今後、佐藤さんご家族が再訪問するときの目印にもなろう。
ということで・・・花を飾り、卒塔婆を立て、供物を並べ・・・・慰霊祭の準備に取り掛かる。
台にしようと河原の石を触ったら、太陽の熱で熱せられていて熱い!
こんなにも石が熱せられているとは驚きである。

と・・・その時・・・
“お母さん”が「日本に持って帰りたいので、石を拾っていいですか?」と言ってきた。
私はお線香に火をつけるのに夢中で顔もあげず、「いですよ〜」と返事をしたのだが・・・
何と・・・河原から持ってきたのは、両手で抱えるほどの大きな石!
「はぁ?なにそれ・・・“お母さん”、それを日本に持って帰るの?(笑)」
石と言うから、当然、小石だと思っていたら・・・・デカイ!デカすぎる!(唖然)
「そうだ・・・これを持って帰っても、私が死んだあと子供たちに迷惑をかけては申し訳ないし・・・」と何やら分からない話・・・
何で子供たちに迷惑をかけることになるんだろ?
家のどこに置こうか・・・というようなことを呟いている・・・・
「はぁ?あのぉ〜お墓に入れるんじゃないんですか?へぇ?家の中に置くの?」(笑)
「あっ、そうかぁ〜そうだよねぇ〜お墓の中に入れるんだ!」
「でしょ?そうでしょ?普通・・・お墓に入れるでしょ?」
どうも話がおかしいぞ・・・(笑)
「まさかぁ〜・・・こんな大きな石を仏壇に置こうとしてたんじゃないでしょうね?」(笑)
「えへへ・・・・」(苦笑)
「それじゃ、子々孫々には迷惑だわ〜」(大笑)

それにしても・・・デカすぎる石である。
“ステラさん”が血相を変えて言う・・・・(笑)
「本当は駄目ですけど、ホテルでよく水で洗ってくださいね」
石の持ち出しが駄目というより石に付着している雑菌を日本に持ち込んではマズイのだ。
が・・・これ・・・空港で見つかるんじゃないの?
両手で抱えるような・・・こんな大きな石・・・(笑)
X線のチェックで見つかったら没収だろうなぁ〜
まぁ、不法持ち出しで逮捕ということまでにはなるまいが・・・
見つからねぇわけねぇよなぁ〜こんな大きな石!(大笑)

祭壇・・・・・
「どっち向きに作りましょうか?」と佐藤さん・・・
「こっち向きでいいんじゃないのかな?もしかしたら、おじいさんが、どっち向いてんだ!俺に尻を向けるな!・・・って怒るかもしれないけど・・・」(大笑)
「アハハ・・・」

ワ〜ワ〜笑いながらの慰霊の準備である。
英霊は呆れているか、笑っているか・・・
どこかで見てくれているだろう・・・・
いや、集まってきてくれるかも・・・

祭壇

さぁ、慰霊祭の準備も整った・・・というか・・・これで終わり。(笑)
お線香もあげちゃったし・・・(笑)
お経は・・・私は「坊さん」じゃないから出来ないし・・・
これで・・・終わり!(笑)

と・・・“ステラさん”が「これだけじゃ寂しいから歌でも歌いましょう!」と言う。
ギョェ〜!!私の苦手な分野である!!(涙)
「私がフィリピン国歌をうたいますから、皆さんは“君が代”を歌って下さい。で・・・・あの、海なんとか・・・っていうのも歌って下さい」
「あっ、“海ゆかば”ね」
「そう、そう、それ!」
では・・・(笑)
ということで、“君が代“斉唱!!
が・・・私はこの歌が大の苦手なのである。
なにせ音が高い!
なので・・・低く出だしたら・・・完璧に音を外し滅茶苦茶になった!(大笑)
もう、収拾がつかない!(笑)
大勢いるなら“口パク”でごまかせるが(笑)、3人で歌うんだからそれは無理。
しかも佐藤さんは元音楽の先生である!(笑)
最悪のシチュエーションではないか!
“君が代”はいったい誰が作曲したんだ!
なんでこんなに音が高いんだよ!
迷惑千万な、歌いづらい国歌である。(笑)

「君が代」のいいところは・・・歌詞が短いところ。(笑)
これは、助かる。(笑)
これに対して、フィリピン国歌は歌詞が長い!・・・・“君が代”と比べると滅茶苦茶、長い気がする。
公式の場で何度か聞いてメロディーは知ってるが・・・
さすがに“ステラさん”が途中で歌詞を忘れたのも無理はない。(大笑)
で・・・「海ゆかば」・・・
知っていることは知っているが・・・歌詞はうろ覚えである。(笑)
しまったぁ〜歌詞カードがないと歌えない・・・と気が付いたが・・・遅かった。
戦後生まれではあるが・・・“ソングリーダー”を務めることができるのは・・・私しかいない。(笑)
うろ覚えの歌詞を思い出しながら「適当に」歌ったが・・・
う〜ん・・・英霊は・・・「聞いちゃいられねぇ」と呆れていたかも・・・・多分、呆れていたな・・・(笑)
大失敗だ・・・こういうことになろうとは考えていなかった。(涙)

普通、慰霊団では、カセットテープを持ってきて「君が代」や「海ゆかば」を流したりするが・・・
実は、私はそういう仰々しいセレモニーがあまり好きじゃない。
だから、セレモニーのことは考えていなかった。
静かに景色を見て・・・でいいじゃないかと思っていたのは間違いだったようである。

団体行動と違って、個人の場合のいいところは、じっくりと現地にいられるということ。
これが団体だと、さっさと慰霊祭をして、さぁ、次の場所へと急き立てられる。
思う存分景色を見て英霊を偲ぶなんていう暇はない。
私はそういう忙しい慰霊祭は嫌いなのである。

 (英霊を偲ぶお二人)

ちょっと厳しい夕日を浴びながら過ごすこと約30分。
東方山地の山々は、ずっと向こうの方に霞んでいる。
う〜ん・・・このあたりを渡ってあっちの山まで歩いて行ったのか?
かなり距離があるような気もするが・・・
とにかく「ここだ!」という決め手がないんだから仕方がない。
ここで勘弁してもらうしかない。
慰霊団によっては、ガイドの指図であきらかに見当違いの場所で慰霊をさせられることがある。
私はそういうことはしたくない。
1mでも近い場所で行なってあげたいのである。

時刻は午後4時半・・・たっぷりと河岸で過ごし、今晩の宿へと向かうことにする。
卒塔婆は後日、慰霊団が来た時に一緒に燃やしてもらうということで“ステラさん”に預かってもらう。
お花は、そのまま現地に残していいと“ステラさん”は言う。
地元の誰かが持って行くだろうし、花篭は再利用されるだろうという。
これも供養と思えばいいのだが、なんとなく寂しい・・・・

ポツンと花篭が残る・・・

振り返ると・・・ポツンと花だけが残っている。
う〜ん・・・なんとも寂しい・・・
また、いつか、この近くを通ったら、会いに来ますからね・・・小隊長殿・・・・

ちょうど近くで遊んでいた子供たちに供物のお菓子を佐藤さんから配ってもらう。
これも供養である。
・・・と、言っても、彼らには何のことやらわからんかも・・・・(笑)
それでもよかろう。
英霊たちが望んでいるのではないか?
そうやってくれ・・・って。

帰り道、「アイ・ラブ・マイ・ホームタウン!・アンガダナン」という看板を見つけたので、ここで記念撮影をする。

看板を撮影する“お母さん”
この道を真直ぐ行くとカガヤン河にぶつかる。

この「アンガダナン」・・・どうも私には覚えづらく発音しづらい。(笑)
どうしても「アンダナガン」になってしまうのだ。
「アンダナガン?アンダガナン?アンダ?アンガ?・・・あれ?いや、アンガ・・・ダ・・ナン???」
車内でみんなで大笑い。
とにかく、佐藤さん親子は明るい方なので助かった。
楽しいと言っては英霊に失礼になるかもしれないが、楽しい慰霊の旅となった。

続いて、ここに来る途中、エチアゲの町の入り口で看板を見つけてたので、下車してここでも記念撮影!(笑)
「二股に道が分かれるところの角に緑地帯があるから、そこで止まって!」
「よく見つけましたね〜私は全然気が付かなかったけど」と“ステラさん”
どんなもんだい!(笑)
アンガダナンに向う途中で、チラリと目に入ったのを憶えていたんだ!
方向音痴の割には、しっかりしていると我ながら感心。
佐藤さんのおじいさんの戦死公報では、ここエチアゲで戦死ということになっている・・・・

エチアゲの看板

エチアゲを通過してサンチャゴという町に入る。
今日の宿泊地はこのサンチャゴである。
当初は、バヨンボンまで戻って「サパー・イン」に宿泊する計画もあったが、できれば、できるだけ戦没地に近いところに1泊させてあげたい。
「え?もう帰っちゃうの?」と英霊にも言われてしまう気がするし・・・(笑)
で・・・サンチャゴを宿泊地の候補に入れてホテルを探してくれるように現地旅行社に頼んでおいた。
ホテルが取れたという連絡が入ったのは日本を出発する直前!(笑)
うまくいった。ラッキーである。

午後5時半、ホテルに到着。
ここに来る途中、道路わきでマンゴーを売っていたので、“ステラさん”に買ってもらった。
到着早々、ホテルの敷地内の東屋で、このマンゴーを食べることにする。(笑)
チェックインの手続きの間に、ホテルの従業員にスライスしてもらい持ってきてもらう。

マンゴー

このマンゴーを買ってくれたのは“ステラさん”で、彼女の“おごり”である。(笑)
私がいつも移動途中の道端のお店で地元の果物を買って食べるのが好きなことをよく知っているのだ。
で・・・今回も、そういうことで、「おいしそうなマンゴーが売ってますから買いましょうか?」と言って買ってくれた。
彼女から佐藤さんたちへのプレゼントである。(笑)
毎回、私がどのくらい謝礼を払うかは彼女は知っているから、その範囲内でサービスしてくれたのだろう。

   

私の部屋は、広い・・・というより殺風景・・・(笑)
しかし、一応、シャワーはお湯が出る・・・
お湯が出れば申し分はない。
バケツの水で行水というのは私だけの一人旅ならまだしも、佐藤さんたちにはキツイ。(笑)
トイレも水洗だった。
田舎の割には、結構いいホテルが取れてホッとした。

佐藤さん親子は夕食は不要ということなので、夕食は、“ステラさん”とドライバーの“クリスくん”と3人で町の中のレストランで取ることにした。
ちょっとしたコテージ風の洒落たレストラン。
南国風でなかなかいい。
南国なんだから南国風なのは当たり前だが・・・(大笑)

夕食

夜8時・・・部屋に戻り、テレビを見て過ごす。
が・・・部屋の中は禁煙である。(笑)
ちょくちょくベランダ(テラス?)に出て夜風に吹かれながらタバコを吸う。
これまた、気持ちのいいものである。
無事に慰霊もできたし・・・格別、気持ちがいい!(嬉)


  


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