回天


【回天】

若い士官から人間魚雷の構想が、海軍省軍務局に提出されたが、体当たりであるため無視されていた。
昭和19年2月になり、ついに呉工廠へ試作の命が下り、5ヶ月後に3本が完成した。

中央に操縦席をつくり、前部に1.6トンの炸薬、後部に九三式酸素魚雷のエンジンを付けたもので、搭乗員は床に座り、小さな望遠鏡を覗いて進んだ。
テストの結果、正式採用に踏み切り、130隻が発注された。

搭乗員は水陸両用戦車や特殊潜航艇の要員、予科練修了者、予備学生などから選ばれ、水雷学校長・大森仙太郎中将は、これを「回天」と名付けた。

「回天」は速度が8ノット以下に落ちるとエンジンの燃焼室の火が消える恐れがある。
火が消えても酸素と燃料は送られてくるから、爆発の危険がある。
このような「冷走爆発」はしばしば起こったため、速度を10ノット以下に下げてはならないという命令が出た。
また、体当たりしても、炸裂しなければ犬死であるから、操縦員が引鉄ひきがねを引いても爆発するよう、自動、手動の起爆装置が付けられた。

「回天」は規模を大きくした「回天」4型も量産に移され、行動力を増すため、動力ロケットを装備した「回天」2型も設計された。
このロケットは、ドイツのメッサーシュミットMe163型のワルター・エンジンを使い、特呂2号液を燃やそうというものであった。

(参考:木俣滋郎 著 『幻の秘密兵器』 光人社NF文庫 1998年8月発行)

(平成31年4月20日 追記


人間魚雷 回天



回天1型かいてん・いちがた
(東京都千代田区九段・靖国神社・遊就館)





(平成14年10月24日)

大東亜戦争末期の昭和19(1944)年8月海軍が制式兵器として採用した「人間魚雷」でありここに展示のものはその1型である。
回天は日本が世界に誇った酸素魚雷を活用することを黒木博司大尉・仁科にしな関夫中尉が着想したことから研究され、一発で巨艦も轟沈させる威力を持つ兵器となった。
この必死の兵器により、身を挺して祖国を護ろうと百余人の若人達が次々と南溟[なんめい]に散っていった。
ここに展示してある回天は、終戦後ハワイの米陸軍博物館に展示されていたが、当局の好意により昭和54(1979)年10月、靖國神社に永久貸与されたものである。

(説明板より)


【回天】

昭和19年(1944年)6月、米軍の来攻でマリアナ諸島を失ったあと、「回天」による攻撃を実行することになった。
これに使われたのは、日本が独自に開発した九三式改三型酸素魚雷だった。
高圧酸素を原動力として速力48ノット(時速約89キロメートル)で、1万5千メートルの射程をもっていた。
駆逐艦や巡洋艦にも広く搭載されていた九三式魚雷は、本土決戦のみとなったときには使い道がなく、軍港の兵器庫などにただ死蔵されるばかりとなる。
「回天」の発案者は海軍中尉・黒木博司と海軍少尉・仁科関夫といわれているが、一説には甲標的の建造を担当した呉工廠造船部員・緒明亮乍ともいわれている。

「回天」の計画では、1型、2型、4型、5型、6型の5種類があった。
その中で量産され、実戦に投入されたのは1型のみである。
4型は実験発射の段階で、2型、5型、6型は計画段階で終戦を迎えた。

4型は1型を大きくしたもので、量産に使われる6号機械の製造が呉工廠の造機部で進められていた。
2型は4型と同じ大きさだが、動力は酸素方式にかわって過酸化水素方式を使うことになっていた。

「回天」とそれを搭載した8隻の潜水艦の沈没も含め、犠牲者は合計845名にも上った。
このうち特攻出撃そのものでの犠牲者は訓練中の事故による殉職が15名、終戦後に自決した者2名、戦死者は86名で、平均年齢は21歳だった。

(参考:前間孝則 著 『戦艦大和誕生(下) 「生産大国日本」の幕開け』 講談社 1997年9月 第1刷発行)

(令和2年9月4日 追記)


 平成21年12月8日

回天 (アメリカ合衆国・ハワイ・ボウフィン博物館)

KAITEN
One Man Japanese
Suicide Torpedo
First Used in 1944

説明文
KAITEN
WWU JAPANESE SUICIDE TORPEDO
THE NAME "KAITEN" MEANS "TO MAKE A RADICAL REVERSE IN COURSE OF EVENTS"
THE JAPANESE HOPED THAT THIS NEW SECRET WEAPON WOULD HAVE JUST SUCH AN
EFFECT ON THE COURSE OF THE PACIFIC WAR IN 1944.

KAITEN WAS BASICALLY AN ENLARGED TORPEDO WITH A SMALL COCKPIT,A PERISCOPE,AND
MANUAL CONTROLS FOR STEERING,SPEED AND DEPTH.IT HAD A PURE OXYGEN-FED,
KEROSENE-BURNING 550 HORSEPOWER ENGINE AND A HUGE 3,000-POUND EXPLOSIVE WARHEAD,
WHICH COULD BE DETONATED ON IMPACT OR BY AN ELECTRICAL SWITCH CONTROLLED BY THE PILOT.
AT TOP SPEED,KAITEN WOULD TRAVEL 75 FEET IN JUST UNDER ONE SECOND

KAITEN WERE TRANSPORTED BY SUBMARINE TO "FIRING POSITION"(3.5 to 4.5 MILES FROM THE TARGET).
A TELEPHONE LINE LEADING INTO EACH KAITEN ALLOWED THE SUBMARINE’S CAPTAIN TO PROVIDE
LAST MINUTE,PRE-LAUNCH INSTRUCTIONS REGARDING COURSE,DEPTH AND SPEED TO GUIDE EACH
KAITEN PILOT TO HIS TARGET.AS THE SECURING CABLES WERE RELEASED,THE TELEPHON LINE
WOULD DISCONNECT,LEAVING THE PILOT ON HIS OWN TO START HIS TORPEDO’S ENGINE AND
GUIDE IT ON A COLLISION COURSE WITH THE TARGET.

THE UPPER HATCH OF A KAITEN WAS INTENDED TO BE USED AS AN ESCAPE DEVICE WHEN THE
PILOT WAS WITHIN 150 YARS OF THE TARGET,IT IS BELIEVED TO HAVE NEVER BEEN USED AS
SUCH.IN ALL,96 KAITEN PILOTS DIED (16 IN TRAINING).

THE ONLY KAITEN KNOWN TO HAVE SUNK A US.NAVY SHIP WAS PILOTED BY LTJG SEKIO
NISHINA,WHO HIT THE FLEET OILER USS MISSISSINEWA (AO-59) AT ULITHI ON 20 NOVEMBER 1944.
IN HIS CRAFT HE CARRIED THE ASHES OF HIS FRIEND,LT HIROSHI KUROKI,
WHO HAD BEEN KILLED DURING KAITEN TRAINING.NISHINA AND KUROKI WERE THE TWO JUNIOR
OFFICERS WHO INVENTED KAITEN.

ONE MERCHANT SHIP,SS CANADA VICTORY,IS BELIEVED TO HAVE BEEN SUNK BY KAITEN.
ONE OTHER SHIP,USS UNDERHILL (DE-682),WAS SCUTTLED AFTER BEING SEVERELY
DAMAGED BY KAITEN.



伊370と回天
(ハワイ・ボウフィン博物館)



(平成21年12月8日)

写真の説明文(英文)

Japanese submarine I−370, departing on her first and only Kaiten
mission in 1945. Kaiten was a larger, more powerful variant of the
highly advanced Model 93 ”Long Lance” torpedo, with the addition of a
man to improve accuracy. It was a weapon designed in desperation to
repel the steadily advancing U.S.fleet, in the final months of the war.
Kaiten pilots, loyal to the ways of the Bushido(code of the warrior),
and with a culturally inherent obedience to emperor and country,
eagerly volunteered for training. although 96 of them died(16 in
training), only one U.S.ship is positively known to have been sunk by a
kaiten − it was USS Mississinewa, a fleet oiler, destroyed at Ulithi on
Nov.20,1944. Most Kaiten missions ended as unproductively as that
of the I−370. She was unable to launch any of her five Kaiten before
being sunk by the USS Finnegan(DD−307) on Feb.16,1945.   


回天4型胴体 平成18年11月22日

回天4型胴体

回天4型は、回天の速度向上と航続距離の延長など、性能向上を目指して研究改良を加えて作られたものである。
大東亜戦争の終戦時には6隻が完成していたが、重量が大きくなり潜水艦搭載に不便で、実戦には使用されなかった。
戦後は完成した6隻及び関係部品は海中投棄や解体された。
この回天4型胴体も戦後放置されていたものを、回天4型勇姿の永久保存の目的を持って、回天関係者が靖國神社に奉納されたものである。

回天4型胴体



回天4型胴体
(東京・靖国神社遊就館)





(平成18年11月22日)

回天4型の構造 (説明板より)

説明板の写真 (説明板より)


回天十型試作型 平成18年3月19日

回天十型試作型



回天十型・試作型
(広島県呉市・「大和ミュージアム」)





(平成18年3月19日)

特攻兵器
「回天」十型試作型

「回天かいてん」は、人間が魚雷を操縦しながら、目標とする艦艇に体当たりする特攻兵器で、「人間魚雷」とも呼ばれます。
一型・二型・四型・十型などのタイプがあり、実戦投入されたのは、「九三式酸素魚雷」を用いた一型のみで、約420基が製造されました。
戦没者は搭乗員だけでも100名以上にのぼり、その多くが20歳前後でした。
当館展示の「回天」十型は、潜水艦用の電気推進魚雷である「九二式魚雷」を利用し、本土決戦の近距離用として開発されたものです。
(寄贈:湯豆腐 嵯峨野)

[要目]
全長 9.0メートル
操縦室直径 0.7メートル
胴体直径 0.53メートル
全重量 2,500キログラム
速力 8ノット
航続距離 30キロメートル
装備 頭部弾頭炸薬300キログラム
乗員 1名

(説明板より)

大和ミュージアム



呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)

(広島県呉市)





(平成18年3月19日)
1階:「呉の歴史」展示
呉の歴史を、その背景となった世界・日本の動向とのかかわりのなかで紹介します。
写真や映像などに加え、10分の1戦艦「大和」や、零式艦上戦闘機、人間魚雷「回天」などの実物資料で戦争の悲惨さや平和の大切さを伝えます。
3階:「船をつくる技術」展示
船を中心とした科学技術の原理を体験・体感を通して分かりやすく紹介します。
操船シミュレータのほか、作った船を走らせることができる実験水槽、科学の不思議を体験するサイエンスショーや工作教室などで楽しく学べます。
「未来へ」展示
宇宙開発へと夢をはぐくみ広げてきた科学技術と、時空を超えた未来への希望を創造し続ける松本零士氏の世界などを紹介します。

開館時間 展示室 9:00〜17:00
休館日 火曜日(祝日の場合は翌日、7月21日〜8月31日は無休)
観覧料 一般 500円
アクセス JR呉駅から徒歩5分

(リーフレットより)


人間魚雷「回天」(レプリカ)
山口県周南市築港町・大津島行きフェリー乗り場近く

『人間魚雷「回天」実物大模型』展示場

この人間魚雷「回天」は、平成18年9月に公開された映画「出口のない海」の撮影で使用された実物大の模型で、周南市内で製作されたものです。
回天烈士の国難に殉じていった若者達の崇高な精神や人命の尊さ、そして平和の大切さを多くの方々に知っていただき後世に伝承するため、「回天レプリカ等保存協議会」が周南市の玄関口徳山駅から臨むことができ、大津島へ向かうフェリー乗り場の導線上に展示したものです。
最終場面のロケが行われた大津島には、調整工場からトロッコで「回天」を運搬するために設けられたトンネルと、魚雷発射試験場がほぼ当時のまま保存されています。
また、回天で尊い犠牲になられた145名の烈士銘碑や遺品をはじめ、貴重な回天関係の資料等収蔵・展示している「回天記念館」があり、館内に、米国シアトルに現存する回天の操縦席を再現し、映画でも搭乗シーンに使われた国内唯一の「内部操縦席模型」も展示します。

平成18年11月
回天レプリカ等保存協議会

(説明板より)







人間魚雷「回天」(レプリカ?)
(山口県周南市大津島・回天記念館)




(平成24年4月19日)
「回天」推進装置の一部
(山口県周南市大津島・回天記念館)

回天推進装置の一部

「回天」の推進部―93式魚雷(高圧酸素を燃焼に使用したため、航跡の殆ど出ない優れたものであった)の燃焼室及びシリンダー部並びに推進軸である。
「回天」を甲板に積んだ潜水艦は水深100メートル位まで潜入するので、その水圧に耐えるために、技術陣も改良に非常に苦心した。
燃焼室には石油を噴霧状態で送り高圧酸素で燃焼させ、そこに海水を噴射すると高圧の水蒸気を含む混合気ができ、ピストンを駆動しプロペラを回転させる機構である。
燃焼室で点火しないと、高圧酸素と石油ガスの混合気がそのまま送られ、たちまちシリンダーで爆発を起こし、エンジン部は破壊される。
その他、操縦系統の万全を期する等、整備関係員の苦労も大きく、必死の努力がなされた。

(注)
このエンジン部分は、終戦時、海中投棄されていたものを、防府市野島の漁業者が引き上げ、航空自衛隊防府北基地に収容されていたものを当記念館が譲り受けた。

昭和63年10月

(説明板より)






回天上部ハッチ
(山口県周南市大津島・回天記念館)

戦後、海底から引き揚げられたもの



(平成24年4月19日)




回天の潜望鏡
(山口県周南市大津島・回天記念館)





(平成24年4月19日)
映画『出口のない海』撮影用の回天内部模型
(山口県周南市大津島・回天記念館)





伊号第58潜水艦の模型
(山口県周南市大津島・回天記念館)




(平成24年4月19日)

伊58潜水艦について  2002年2月

〇伊58潜水艦の模型(110分の1)の寄贈について
寄贈・製作者 磯村和男氏 (※住所・電話番号が記載されていましたが、個人情報保護の観点から、あえて割愛します=重兵衛)
〇伊58潜水艦の特徴
回天搭載艦として製造された、乙型潜水艦の最終建造艦である。
横須賀工廠で建造されたもので、昭和17年12月16日に起工、18年10月9日に進水、19年9月7日に竣工した。

伊58潜水艦と回天(「人間魚雷回天出撃記録」による
1、第1回の出撃 回天4基搭載
金剛隊  昭和19年12月30日 大津島基地 グァム島アプラ港作戦
 艦長 橋本以行少佐
 搭乗員 石川誠三中尉・工藤義彦少尉・森 稔二飛曹・三枝直二飛曹
 昭和20年1月11日回天4基発進(空母1隻・大型輸送船3隻轟沈)
 昭和20年1月下旬から2月2日までに呉軍港に帰投
2、第2回の出撃 回天4基搭載
神武隊  昭和20年3月1日 光基地 硫黄島作戦
 艦長 橋本以行少佐
 搭乗員 池淵信夫中尉・園田一郎少尉・入江雷太二飛曹・柳谷秀正二飛曹
 作戦変更のため攻撃せず
 昭和20年3月16日帰投
3、第3回の出撃 回天4基搭載
多々良隊  昭和20年3月31日 光基地 沖縄列島作戦
 艦長 橋本以行少佐
 搭乗員 池淵信夫中尉・園田一郎少尉・入江雷太二飛曹・柳谷秀正二飛曹
 敵哨戒厳重を極め且荒天のため、襲撃の機を得ず
 昭和20年5月6日帰投
4、第4回の出撃 回天6基搭載
多聞隊  昭和20年7月18日 平生基地 沖縄東方作戦
 艦長 橋本以行少佐
 搭乗員 伴 修二中尉・水井淑夫少尉・林 義明一飛曹・小森一之一飛曹
       中井昭一飛曹・白木一郎一飛曹
 昭和20年7月28日から8月10日までに、回天5基発進(駆逐艦1隻・
 輸送船2隻・油槽船1隻・水上機母艦1隻轟沈)
 昭和20年8月14日 白木一郎一飛曹は故障発進せず呉軍港に帰投し、
               終戦を迎えた。

(説明板より)







一等輸送艦の模型
(山口県周南市大津島・回天記念館)




(平成24年4月19日)

一等輸送艦(1,500トン)

昭和19年5月より21隻つくるが、この模型は20号で大津島より八丈島方面に回天を輸送した船で、戦後アメリカ・イギリス・中国が接収したが現存しているのは中国の一隻のみとなっている。

(説明板より)


回天特別攻撃隊・菊水隊(玄作戦)

昭和19年11月20日黎明、伊36・伊47でウルシー環礁泊地を、伊37でパラオのコッソル水道泊地を奇襲

指揮官 第15潜水隊司令 揚田清猪大佐
伊36 艦長 寺本巌少佐 回天1基のみ出撃
他の3基は断念
回天搭乗員 吉本健太郎中尉・豊住和寿中尉・今西太一少尉・工藤義彦少尉
伊37 艦長 神本信男中佐 奇襲前日に撃沈
回天搭乗員 上別府宣紀大尉・村上克巴中尉・宇都宮秀一少尉・近藤和彦少尉
伊47 艦長 折田善次少佐 回天4基出撃
回天搭乗員 仁科関夫中尉・福田斉中尉・佐藤章少尉・渡辺幸三少尉
伊号第36潜水艦模型



伊号第36潜水艦・模型

(東京・靖国神社遊就館)





(平成18年11月22日)

伊号第36潜水艦

伊号第36潜水艦は、昭和17年9月横須賀海軍工廠にて竣工。
この潜水艦の特徴は艦橋前の大型格納筒で、そこには小型水上偵察機がおさめられた。
そして前甲板ぜんかんぱんの殆どを占めるカタパルトに象徴される航空機搭載能力である。
しかし、大東亜戦争中期に後甲板こうかんぱんの備砲びほうを撤去し人間魚雷「回天」4基を搭載、第一次玄げん作戦ウルシー攻撃を成功させた。
後に前甲板の航空施設を撤去し回天2基を増備ぞうびし、数多くの回天作戦に従事した。
戦後、米軍によって長崎県五島列島沖にて爆破処分された。
同型艦は20隻が建造されたが本艦を除いて全て戦没した。

(説明板より)


【終戦】

終戦時、回天戦を遂行できる伊号潜水艦はわずかに4隻、輸送用の潜水艦を転用しても、総数7隻という惨状ではどうなるものでもなかった。
終戦までに回天戦に殉じた勇士は、98名に達しているが、彼らがそれだけを念じて散っていった戦局回天の願いは叶えられず、その死は無駄に終わった。

(参考:江崎誠致 著 『ルソンの挽歌』 光人社NF文庫 1996年発行)

(令和元年11月1日 追記)




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