戦艦 大和


大和 平成18年3月19日

呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)

10分1戦艦「大和」

旧制中学に通っていた昭和15年頃、
私は呉工廠周辺の夜空が紅々と照らされているのを見た。
それは熱い鉄の輝きそのものだった。
そして鋼を叩く機械の音は深夜まで続いた。

まもなくして巨艦「大和」は呉湾に姿を現した。
その堂々たる光景は、今なお私の瞼に焼き付いて離れない。

どうか忘れないでいてほしい。
世界一の戦艦「大和」が我々の郷土・呉の地で生まれたことを。
誇りに思ってほしい。この呉というまちを。

寄贈 大新グループ 新田 裕生
(大正13〔1924〕年11月1日 呉市三条生まれ)

(説明板より)

10分の1大和



10分の1 戦艦「大和」 (全長26.3m)







(平成18年3月19日)
大和



10分の1 戦艦「大和」 (全長26.3m)







(平成18年3月19日)
大和



10分の1 戦艦「大和」 (全長26.3m)







(平成18年3月19日)
砲弾


砲弾

手前白色の砲弾=46センチ九一式徹甲弾
2番目赤色の砲弾=46センチ三式弾




(平成18年3月19日)

九一式徹甲弾

昭和6(1931)年制式採用。
戦艦など装甲の厚い艦艇用の砲弾で、水面に落下すると、弾丸の先端にかぶせてある覆おおい(風帽ふうぼう)がはずれ、弾頭が平頭になります。
このため水中を直進して、従来ほとんど効果がなかった目標手前に落下した近弾きんだんの威力を著しく高めさせました。
また風帽の中に各艦ごとに異なる染料を入れ、水面に着弾すると、赤・青・黄などの水柱があがり、それで発射した艦を識別していました。

[要目]
全長 1.98メートル
重量 1.46トン
炸薬量 約34キログラム
最大射程 約42キロメートル

三式焼霰弾
「大和」型46センチ砲用三式焼霰弾しょうさんだん(元試製三式通常弾)

この三式弾は対空焼夷弾しょういだんともいうべきもので、飛行中の航空機や陸上の目標を広範囲に捕捉ほそくして焼夷効果(焼くこと)をあげることを目的に開発された砲弾です。
敵航空機編隊の前方に向けて発射された砲弾が、調定時間がくると爆発し、多数の焼夷性弾子が傘状かさじょうに広がって目標を捕捉するようになっていました。

[要目]
全長 1.6メートル
重量 1.36トン

(説明板より)

戦艦大和・主錨


戦艦「大和」主錨
(「大和ミュージアム」・屋外)

呉うるめライオンズクラブ
CN30周年記念 寄贈
2005年3月12日


(平成18年3月19日
大和ミュージアム



呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)

(広島県呉市)





(平成18年3月19日)
1階:「呉の歴史」展示
呉の歴史を、その背景となった世界・日本の動向とのかかわりのなかで紹介します。
写真や映像などに加え、10分の1戦艦「大和」や、零式艦上戦闘機、人間魚雷「回天」などの実物資料で戦争の悲惨さや平和の大切さを伝えます。
3階:「船をつくる技術」展示
船を中心とした科学技術の原理を体験・体感を通して分かりやすく紹介します。
操船シミュレータのほか、作った船を走らせることができる実験水槽、科学の不思議を体験するサイエンスショーや工作教室などで楽しく学べます。
「未来へ」展示
宇宙開発へと夢をはぐくみ広げてきた科学技術と、時空を超えた未来への希望を創造し続ける松本零士氏の世界などを紹介します。

開館時間 展示室 9:00〜17:00
休館日 火曜日(祝日の場合は翌日、7月21日〜8月31日は無休)
観覧料 一般 500円
アクセス JR呉駅から徒歩5分

(リーフレットより)


主砲砲弾



軍艦大和 主砲々弾

(広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校)





(平成18年3月20日)

本彈丸は旧日本海軍当時91式徹甲彈と称し戰艦大和、武蔵の主砲用として使用されていたものである
当時に於ては世界にその比を見ない最大のものであり 恐らく将来も かかる大きな彈丸は見ることが出来ないであらう
かかる大きな彈丸を発射し得る砲あり 遠距離に飛ばす火薬あり これを命中せしめる指揮装置あり 又この彈丸自体に装甲板を貫く形状と材質があるわけで この一発の彈丸に旧海軍が到達した用兵技術の極地が示されている
大東亜戰終了后 昭和22年6月倉橋島南方海面に投棄処分されたものを同32年3月海底より引揚げ本社の所有するところとなった
往時の日本海軍の威容をしのび又将来の我国防衛の重要性を想う時 本彈丸は由緒ある江田島の地にあって海上自衛隊要員教育の重責担ふ術科学校の為に聊かでも貢献する事を祈念しここに寄贈したものである

昭和32年9月 神津幸直

因に要目次のとおり
全重量 1,470kg.
全長 1,950mm
さく薬量 34kg.
装薬量 360kg.
最大射程 42,000m
初速 780m/sec
搭載艦 大和、武蔵

(碑文より)

旧海軍兵学校跡


海上自衛隊
第1術科学校・幹部候補生学校
(広島県江田島市)

旧・海軍兵学校跡



(平成18年3月20日)

学校の歴史

江田島は、風光明媚な広島湾に位置して、東は呉市に、北は広島市に、西は那沙美島を隔てて名勝安芸の宮島に相対し、南は佐伯郡能美島に連なり、また、早瀬大橋、倉橋島、音戸大橋を経て呉市に通じています。
海軍兵学校は明治21年(1888)8月東京築地からこの江田島に移転以来、アメリカのアナポリス、イギリスのダートマスとともに世界3大兵学校としてその名は広く世界が知るところとなりました。
終戦により昭和20年12月1日、約60年の幕を閉じました。
以後の10年間は連合軍が教育施設等に使用しました。
昭和31年(1956)1月返還され、当時横須賀にあった術科学校が当地江田島に移転、その後、昭和32年5月10日に幹部候補生学校が独立開校し、現在に至っています。

(パンフレットより)


【戦艦大和の建造】

海軍が7万トン級となる超弩級ちょうどきゅう戦艦の計画を検討し始めたのは、昭和8年(1933年)に入ってからだった。
この時にはまだ「大和」の名はなく、「A140」と呼ばれていた。

「大和」の建造順序は、一般の戦艦の場合とかなり違っていた。
一般の建造では、主機や汽缶は進水後に積み込む。
しかし、「大和」ではそれを進水の前に行うことにした。
主機や汽缶など「大和」の心臓部が、それこそ鎧のように分厚い甲鉄で囲まれていたため、あとから上部の甲板をめくって積み込むという従来のやり方ではひどく手間がかかるからである。
そのかわり、通常は進水前に積み込んでおくはずの砲塔を、進水後に搭載することにした。
重量のある主機と汽缶を進水前に搭載し、さらに巨大な砲塔まで積み込むと、両方の重みで船体の底がドックについたままとなり、浮かび上がらなくなってしまうからである。

甲鉄の防御面を一層構造とするか二層構造とするかも大きな問題である。
昭和10年(1935年)に建造された「陸奥」以前の大型戦艦のほとんどでは、二層式が採用されていた。
攻撃を受けたときには二層のほうが安全性は高いが、その分、船体が重くなり、機動力が損なわれる。
そこで、「大和」では一層式が採用された。
一層式とした「大和」の甲鉄の厚さについては、2〜3万メートルの距離を保った状態で交戦する場合を念頭に置き、砲弾が放物線を描いて垂直に近い角度で落下してくると想定して、まずバイタルパート上面の甲鉄の厚さを200ミリとした。
それほど厚くはないが、3万メートル先の46センチ砲から発射された砲弾にも耐えられるという設計である。
それに対し、側面の厚さは倍以上の410ミリにした。
側面に攻撃を受けるのは比較的近い距離からであり、それだけ破壊力も大きいからだ。

「大和」を計画していたころ、欧米では艦底起爆魚雷なるものが発明されたらしいとの噂が伝わってきた。
従来の魚雷は水中を走って船体に命中し、その衝撃力で爆発が起こる。
ところが、起爆魚雷は、命中しなくても、艦底を通過する時に磁気変化や音響などを感じて起爆する特殊な装置をもっているというのである。
そのため、「大和」では艦底を三重構造にし、弾火薬庫の下面にも厚さ80〜50ミリの甲鉄が張られていた。
このようなさまざまな措置が施されたため、「大和」の防御力のために費やした重量は艦全体の34.4%にも及んだ。
それまでの戦艦としては最も高い比率である。

1号艦(大和)は船底から最上甲板まで19.165メートルあり、船体は六層構造になっていた。
厚さ1.4メートルの二重構造の船底は、ビルでいえば基礎と床に相当する。
その上部の中央に高さ8メートルほどの缶室、主機械室があり、ここまでが、いわば地下室で、その天井が下甲板かかんぱんである。
1階は高さ4メートルほどで、煙路、倉庫、発電機室、無電室があり、その天井が中甲板で、それをすっぽりと甲鉄がボックス状に覆う。
その上には、2.5メートルほどの高さの兵員室や士官室が並び、天井が上甲板となる。
その上が長官室、将官室、兵員室、士官住居となり、天井がビルの屋上に当たる最上甲板である。
船体内には多くの小部屋があり、その数は1147にのぼった。
何度となく船体内入った人でも、目印がなければどこに出てくるのかわからないほどだった。

これら六層構造の建物の工事が済んだ後、ようやく屋上に大物の砲塔や艦橋、測距儀そっきょぎ、エレベーター、高角砲などの構造物が所狭しと設置される。
だから、船殻および艤装の工事順序、運び込む主機や装置の完成と、甲鉄の出来上がりとが、うまくかみ合うように日程を調整しなければならない。
出来上がりの順序が逆になれば、それだけ工事の待ち時間が多くなり、戦艦そのものの完成が遅れてしまう。

(参考:前間孝則 著 『戦艦大和誕生(上) 西島技術大佐の大仕事』 講談社 1997年9月 第1刷発行)

(令和2年9月4日 追記)


【甲鉄】

通常、金属は硬度が高くなるほど、割れやすく折れやすくなる性質を持っている。
しかし、甲鉄はその役割からして、硬く上に割れにくいものでなければならない。
そこで、浸炭しんたんと呼ばれる表面(深さ7〜10ミリ)だけを硬くする特殊な技術が使われていたが、1枚の甲鉄を作るのに1ヶ月もかかっていた。

そのため、これに代わる技術として考案された中の一つが、ニュー・ビッカース・ノン・セメント(NVNC鋼)と呼ばれる均質甲鉄だった。
これは、「大和」の甲鉄開発チームの責任者、佐々川清(のち海軍技術少将)が10年を費やして技術開発したもので、表面に浸炭をしなくても十分な硬さと強度をもたせることができ、「大和」の下部舷側の傾斜甲鉄用に適していた。

佐々川は、「大和」が起工した昭和12年(1937年)に、同じ均質甲鉄だが、NVNC鋼とは別にVH鋼も開発している。
これは「大和」の砲塔、砲楯ほうじゅん、舷側の甲鉄として最も多く使われ、これが開発されていたからこそ、艦政本部は「大和(A140)」の建造に自信を持つことが出来たとまでいわれている。
VH鋼は浸炭処理とは別の方法で表面を硬くしたものである。
ドイツのヒドロリック社から購入した1万5千トン水圧プレスで素材を何度も繰り返して叩いて鍛錬し、内部の強度を強くしていくという方法で、その後、焼き入れによって、浸炭の10倍近い硬化層が形成される均質甲鉄である。
これにより、生産に要する時間がそれまでの3分の2になり、生産は1.5倍にアップした。
佐々川はこの技術開発の業績によって、海軍部内では希有な旭日章および技術有功徽章を受けている。

さらに佐々川らの呉工廠製鋼部は、水平防御に使う網目状に穴の開いた蜂の巣甲鉄用として、モリブデンを含んだMNC鋼も開発し、「大和」の建造に貢献した。

(参考:前間孝則 著 『戦艦大和誕生(上) 西島技術大佐の大仕事』 講談社 1997年9月 第1刷発行)

(令和2年9月4日 追記)


映画ロケセット 平成18年3月21日

映画『男たちの大和/YAMATO』ロケセット

映画「男たちの大和/YAMATO」ロケセット一般公開 来場者の皆様へ

昭和16年12月、広島・呉の海軍工廠で極秘裏の内に完成した「世界最大の戦艦」大和は、世界最大の46cmの主砲9門など、その類を見ない破壊力によって日本を勝利に導くため、連合艦隊の旗艦艇に就任しました。
しかしガダルカナル島での敗戦、連合艦隊司令長官・山本五十六の戦死など、戦局は悪化の一途を辿り、初めて出撃したレイテ沖海戦では、姉妹艦・武蔵を失いました。
そして運命の昭和20年4月6日、沖縄に向け「水上特攻」の命を受けた大和は、召集後間もない10代半ばから20代の若者たちが大半の3,000余命の乗組員たちと共に出撃し、翌7日、アメリカ軍艦載機の激しい攻撃を受け、東シナ海で轟沈しました。
当時の生存者はわずか270余名、さらに戦後60年を経た現在、その内の20数名が、「大和の最後の真実」を知るのみです。
戦後60年を迎え、戦後の豊かさと平和の中で、現代の日本人は自分達を見失っているのではないでしょうか。
今でも東シナ海に眠る「大和」をスクリーンに浮上させ、あの時代を思い起こし、謙虚に語り継いでいくことは今こそ必要ではないでしょうか。
「大和」の4年余りの戦いと乗組員の記録を、兵士の目線からありのままの壮絶な記録で現した、辺見じゅん氏『男たちの大和』を原作として、『防人達への鎮魂』と『21世紀の羅針盤』となるような映画を製作するため、尾道市向島町の「日立造船向島西工場」内に全長190mにも及ぶ、原寸大の「戦艦大和」のロケセットを建設し、2005年3月26日から6月4日までの約2ヶ月余り、この地で撮影が行なわれました。
ご来場の皆様には、日本映画史上でも稀な巨大さを誇るロケセットを体感していただくとともに、戦後60年を経た今、映画「男たちの大和/YAMATO」を通じて戦争の真実に少しでも触れていただき、恒久平和への願いを一つにしていただければ幸いです。

大和ロケセット公開推進委員会
委員長 川崎育造

(説明板より)

ロケセット艦首部分



ロケセット艦首部分
(広島県尾道市・日立造船向島西工場)





(平成18年3月21日)
ロケセット




ロケセット





(平成18年3月21日)
ロケセット




ロケセット





(平成18年3月21日)
ロケセット




ロケセット





(平成18年3月21日)

日立造船向島西工場 平成18年3月21日

対岸の「千光寺公園」展望台から見たロケセット(日立造船向島西工場)


戦艦大和記念碑



「戦艦大和記念碑」
(愛知県名古屋市・愛知県護国神社




(平成15年11月28日)

碑文

戦艦大和は日本が建造した世界に誇る史上最大最強の戦艦であった
第二次世界大戦中海上作戦の中枢として活躍していたが昭和20年に入り戦況急迫しついに連合軍が大挙して沖縄に進攻して来たとき海上特別攻撃隊旗艦となり巡洋艦矢矧及び駆逐艦8隻とともに徳山沖を出撃してこの敵艦隊に対し特攻不帰の悲壮なる突入作戦を決行した
進撃の途上優勢なる敵機の連続猛攻を受け勇戦敢闘したがわれには一機の護衛機もなく被害は累積して遂に沈没す
この時伊藤司令長官有賀艦長以下乗組員弐千七百有余名は艦と運命を共にした
時に昭和20年4月7日沖縄の北480粁
想うにこの世紀の巨艦を造り得た国民の気魄と祖国の危急存亡のときにのぞみ甘んじて死地に投じた崇高なる精神とは永くわが民族の中に脈動するであろう
ここに大和主砲弾を安置して光栄ある海軍を記念するとともに大和をはじめ幾多殉国の英霊に感謝の誠を捧げあわせて祖国日本の繁栄と世界平和を祈念する

昭和42年4月7日
東海地区 戦艦大和会

戦艦大和要目(碑文)

全長 263米
幅 39米
吃水 10米
排水量 72,000頓
機関馬力 150,000馬力
速力 27節(時速50粁)
航続距離 7,200浬

主砲 46糎砲三連装3基
副砲 15.5糎砲三連装2基
高角砲 12.7糎砲二連装12基
機銃 25粍三連装その他合計150挺
飛行機 6機
乗組員 3,000名

主砲弾要目
直径 46糎
長さ 195糎
重さ 1,460瓩
射程 42粁

経歴
昭和12年12月4日起工(呉海軍工廠)
昭和15年8月8日進水
昭和16年12月16日竣工就役
昭和20年4月7日沈没(沖縄海上特攻隊)

沖縄海上特攻隊編制
戦艦 大和
巡洋艦 矢矧
駆逐隊
第41駆逐隊(冬月 涼月)
第17駆逐隊(磯風 浜風 雪風
第21駆逐隊(朝霜 霞 初霜


沖縄突入時の保有弾薬量

(平成16年6月24日記)


戦艦大和主砲砲弾



大東亜戦争 特攻将兵慰霊之塔

(愛媛県西条市・楢本神社)


戦艦大和主砲々弾


(平成19年11月11日)

青春の譜

戦艦大和は大東亜戦争末期残存せる大日本帝国海軍のもう艨艟を率い沖縄方面に特攻出撃の途次昭和20年4月7日鹿児島県徳之島西方海上に於て敵の潜水艦と航空軍グラマンと反復攻撃により世界最大を誇る不沈戦艦も乗員3千余名と共に運命を共にせり。
この台座に屹立の砲弾は大和の主砲々弾にして呉市の神津幸直氏から軍神関中佐の霊前に献備されたが此のたび源田実先生始め全国の方々の御尽力により境内に特攻記念館落成を記念し本弾を大東亜戦争特攻戦没慰霊弾塔とし弾中にこの方々の霊魂を安鎮して毎年8月15日終戦記念日を祭日と定めて慰霊祭を斎行することとなれり。
本企画は西条海軍会一同の総意に基きこれを機として昭和48年5月27日本会発足以来会員諸君が諸事業に協賛せしを記念し本碑落成に当り軍籍に在りし当時の青春の思い出に勤務の尤も印象に残る艦艇隊名を刻み国家悠久の大義に殉じられし戦没将兵を慰霊する行事が後世子孫に伝承される事を祈念するものである。

昭和55年8月15日
西条海軍会
楢本神社宮司 西条海軍会長 石川梅蔵

佐世保人事部附主計科 野々市 秋山昌美
第一南遣艦隊司令部機関科 船屋 浅木春雄
軍艦金剛乗組機関科 船屋 浅木貞男
航空母艦大鷹整備科 登道 青野行雄
海軍兵学校教官 常心 石川梅蔵
鹿屋航空基地主計科 朔日市 石川茂次郎
海軍省人事局派遣主計科 安知生 伊藤忍
上海特別陸戦隊兵科 神拝 一色良雄
巡洋艦阿武隈乗組通信科 中野 伊藤実
佐世保防備隊主計科 吉原 伊藤勝見
鎮海航空隊整備科 常心 伊藤定雄
31戦隊駆逐艦樺 朔日市 越智忠一
呉鎮特別工作派遣隊 蛭子 小野一男
伊号368潜水艦電測 古川 大本達也
戦艦霧島乗組機関科 飯岡 加藤義光
水雷艇友鶴機関科 禎瑞 川村清八
724空橘花特別攻撃隊 下町 菅廣信
香港部隊内田隊砲術科 御舟町 玉岡豊
旅順方面特別根拠地隊 駅西 高橋勉
第23根司令部附 吉原 高橋久雄
横須賀砲術学校教員 禎瑞 高木城助
人間魚雷回天菊水隊 禎瑞 高木唯夫
巡洋艦足柄乗組砲術科 禎瑞 高木博幸
鎮海防備隊電信長 四軒町 高橋清孝
甲飛13期徳島航空隊 大町 寺田幸男
駆逐艦時雨乗組信号科 大町 冨井満末男
特攻6期飛行科 古川 松本憲二
空母大鳳乗組601空 大町 長野留雄
第26魚雷艇隊乗組 禎瑞 中山輝三
伊号第61潜水艦 下島山 西原茂
第22水雷艇初雁機関科 清水 西原勝
第3航戦空母千歳司令部附 古川 西野忠良
早佐航空隊砲術科 禎瑞 福田松蔵
佐鎮司令部附機関科 鷹丸 藤田鉄夫
巡洋艦出雲砲術科 中之池 藤本常男
上海特別陸戦隊 上喜多川 安永栄
松山海軍航空隊甲飛 栄町 安永久雄
駆逐艦望月乗組 新居浜黒島 矢野昌
シンガポール気象隊 禎瑞 三崎秀雄
川棚水上特攻軍医 栄町上 米田正男
上海特別陸戦隊機関科 中野 渡辺親一
空母瑞鳳乗組測的科 下町 渡辺重雄

戦艦大和主砲々弾

型式 九四式45口径46糎砲九一式徹甲弾
全長 1.95メートル 重量 1,470キログラム
さく薬量 34キログラム 装薬量 330キログラム
初速 780メートル/秒 最大射程 42,000メートル

戦艦大和の要目

排水量 64,000トン
主機械 150,000馬力
速力   27ノット
全長   256メートル
巾     36.9メートル
吃水   10.4メートル

碑文

この砲弾は大東亜戦争の聯合艦隊旗艦戦艦大和の主砲用として使用されたものである。
当時においては世界にその比を見ない大きなもので、おそらく将来もかゝる大きな砲弾は生れないであろう。
この砲弾を発射し得る大砲、遠距離に飛ばす火薬、これを命中させる指揮装置、砲弾自体に装甲版を貫く形状と材質がある、従って旧海軍が到達した用兵技術の極地がこの一発の砲弾に示されている。
この砲弾は国家の至宝ともいうべきもので呉地方総監香取頴男海将の肝煎りにより中国火薬(株)社長神津幸直から往時の日本海軍の偉容をしのびつゝ日本国護持のため悠久の大義に殉じた軍神関中佐の偉功を顕彰し、その霊を慰めるため奉献されたものである。

砲弾及び銘板寄贈 呉市中央1丁目 神津幸直
(海軍兵学校第60期 海軍少佐)
台座寄贈 西条市朔日市 越智忠一

(銘板より)

楢本神社




楢本神社

(愛媛県西条市大町1,138番地)




(平成19年11月11日)

楢本神社のしるべ

一.鎮座地 西条市大町1,138番地
一.御祭神 大国魂神外三柱
一.祭日
春 4月7日 秋 10月15日
特攻の先陣神風特別攻撃隊敷島隊 追悼式典 10月25日
一.由緒と沿革
西条の名の発祥地、西条荘守護神として奈良朝以前創祀されたが詳細は天正の陣の兵火にかかり社殿と共に焼失し、つまびらかならず。
一.産子うぶこと崇敬者
産子 大町郷3500戸
崇敬者 北海道より沖縄までの全国各地に散在す。
一.社宝
神宝貝正則作 短刀一振
神宝蝮封じ石 二個
一.境内坪数 500余坪

境内主要建造物
一.関行男慰霊碑
大東亜戦争末期世界最初の公式の人間爆弾となりし神風特別攻撃隊敷島隊々長関行男中佐の慰霊碑を建立し昭和50年3月21日元航空幕僚長源田実参議院議員により除幕。
一.真鍋嘉一郎誕生の家
東大医学部に物理療法学の講座を開設し初代教授となった奇代の大英才、真鍋嘉一郎の生家を昭和53年8月に復元して記念館とす。
一.大東亜戦争特攻記念館
全国各地の同志の奉賛を得て昭和54年10月25日に建設を終り開館す。
一.神風特攻第一號敷島隊 五軍神祀碑建立
第1番機 海軍中佐      関行男   愛媛県西条市出身 行年23才
第2番機 海軍少尉      中野磐雄 福島県原町市出身 行年19才
第3番機 海軍少尉      谷暢夫   京都府舞鶴市出身 行年20才
第4番機 海軍飛行兵曹長 永峰肇   宮崎県宮崎市出身 行年19才
第5番機 海軍飛行兵曹長 大黒繁男 愛媛県新居浜市出身 行年20才
昭和56年10月25日全国の有志諸賢奉賛により五軍神達が各々搭乗の零戦に抱いて敵艦に突入の250キロ爆弾と同型の祀碑を戦闘隊形に建立し、19才、20才と云う若者達が国家の悠久繁栄を信じ大和民族の純血を守らんとせし心情を偲ぶ囚よすがとせり。

日本が世界に誇る神風の
   祀碑竝び建つ四国西条


(説明板より)


【巡検】

「大和」では艦が大きいので巡検は半舷ずつやるのだが、これが大変な難行苦行だった。
「大和」の艦体は、長さが263メートルもあり、最上甲板、上甲板、中甲板、下甲板、最下甲板、船艙甲板、艦底と七層にわかれ、その各層がまた300以上の区画にわかれているという代物だ。
そこで半舷だけの巡検といっても、防水壁で隔絶されている前部、中央部、後部の各層を降りて昇り、また降りては昇ると3回やらなければならない。
最上甲板から上甲板へはゆったりとした階段だし、中甲板までも階段だから問題はないが、中甲板から下はそうはいかない。
人間がひとりやっと通れるような丸いハッチをくぐり抜けて、文字通り垂直に下るモンキーラッタルを、するすると猿のように降りるのである。
ピカピカに磨かれたラッタルはつるつるしていて滑りそうだし、下を見れば下甲板にまた丸いハッチが見え、そこからまた真下に垂直にラッタルがはるか下までつづいている。
眼がくらむような光景であり、奈落の底とはこのことだ。
うっかり手を滑らせて落ちたら、それこそ一巻の終わりである。

(参考:小島精文 著 『栗田艦隊』 1979年4月・2版発行 図書出版社)

(平成27年7月26日・追記)


【電探】

リンガ泊地に到着後、毎日のように訓練がつづく中で一番苦労し、その反面一番重宝がられたのが電測士たちだった。
彼らが着任するまでは、新兵器の電探の扱い方もろくに知らない候補生たちがその職についていた。
帝国海軍にあっては航海、砲術などの華々しい部門がその主流を占め、がらっぱちは水雷屋になり、通信や電測などはどちらかといえば日蔭者扱いで、「戦時陸揚げ品」といわれた病弱な将校がその職に当てられるなどという噂も私たちの耳に入っていた。
その上、エリートをもって任ずる砲術科士官たちは、自分たちが教育を受けた測距儀による測定だけが正しいと信じこんでいたから、電探など相手にしない傾向が強かった。
事実、この頃の電探はそれほど精度が高いものではなかった。
電探の悩みは、波長が短いだけに装置が複雑で故障が頻発する。
故障すると、結線図にしたがって受信機をすみからすみまで調べなければならない。
各戦隊には技術士官が乗り組んでいたが、彼らでも故障の原因がわからないことが多かったのだから短期養成の予備学生出身の電測士たちにとっては、その修理は容易なことではなかった。
各艦の電測士たちは、砲術士官の偏見と故障続出の間にはさまれ、死物狂いでこの新兵器と取り組んでいた。
彼らの中には大学の理工学部や物理学部の出身者もおり、その基礎知識は兵学校出の若い候補生たちとはくらべものにならないほど高かった。
砲術屋に対抗意識を燃やしていた通信参謀や通信長たちが電測士を応援し、やがて艦長の彼らに対する期待も次第に深まっていった。

(参考:小島精文 著 『栗田艦隊』 1979年4月・2版発行 図書出版社)

(平成27年7月26日・追記)


【九一式徹甲弾】

「ある程度の距離に、一定の角度で落ちた砲弾は水中を突き進む」ということを知った日本海軍は、“水中砲弾”の研究に取り組んだ。
その結果、砲弾が着水すると、先端がポロリと落ち、残り8割の長さの砲弾が、水中弾となって直進するように工夫された。
日本海軍は、この水中砲弾を昭和6年に制式化。
「九一式徹甲弾」と命名し、戦艦と巡洋艦用に4種の大きさが生産された。
九一式徹甲弾は着水後、直径の約200倍、すなわち40センチ砲なら80メートルほど水中を直進するから、敵潜水艦に対しても効果があると信じられていた。
ちなみに太平洋戦争では、零式通常弾が主として使用され、九一式徹甲弾はあまり使用されていない。

(参考:木俣滋郎 著 『幻の秘密兵器』 光人社NF文庫 1998年8月発行)

(平成31年4月11日 追記)


【サマール沖海戦】 

この戦闘でもっとも期待された「大和」の46センチ主砲は、いかなる戦果を挙げ得たのだろうか。
実は、約100発発射して命中弾確認は皆無という結果であった。
この戦闘で最も活躍したといわれる重巡「利根」が、20センチ主砲408発を発射して命中は7発、命中率1.7パーセントに過ぎなかった。
日米開戦前に、「世界一の砲戦術能力」、「米艦隊の3倍の命中率」と自負した日本海軍の砲戦能力は幻影にすぎなかったのである。

第1戦隊の宇垣纒司令官(中将)は、レイテ湾へ出撃直前の戦隊砲撃訓練の結果に対して「まさに戦闘に赴かんとするに、この状況では寒心にたえず」と記しているが、まさにこの戦闘は、その日本海軍の術力の低さが現実に示された瞬間であった。

(参考:戸高一成 著 『海戦からみた太平洋戦争』 角川書店 2011年11月初版発行)

(平成29年7月30日 追記)


レイテ沖海戦

【防弾チョッキの長官】

昭和19年10月24日未明、栗田艦隊はいよいよシブヤン海に入った。
艦橋にはすでに栗田長官以下その幕僚たちが緊張したおももちで前方をにらんでいた。
しかしこの時、長官以下艦隊司令部の参謀たちが防弾チョッキに身を固めていたことが、通信士の都筑中尉にはひどく気に入らなかった。
このチョッキはどの艦隊でも司令部要員だけの員数が揃えてあり、乗組員たちにははじめからその支給はなかった。
都築中尉は暗号室に入ってくるなり、「艦隊司令部の奴らは、だらしがないったらない。長官以下みんな臆病風に吹かれて防弾チョッキなんかつけてやがる。うちの艦長だって宇垣司令官だって、そんなものつけているものはひとりもいない!」と、いいざま荒々しく椅子に坐ったかと思うと、握りこぶしを固めて机の上をドンと叩いた。
艦隊司令部の面々は昨朝、米潜水艦の魚雷攻撃を受けてその乗艦が沈没し、危うく海中に逃れて九死に一生を得た人たちばかりだ。
特に小柳参謀長は退艦の際に大腿部にかなりの怪我までしている。
生身に受けた恐ろしい衝撃を、人間はそんなに簡単に忘れることはできまい。
まして今日は敵の大空襲によりどんな被害をこうむるかわからない。
死のこわさを知れば知るほど人間はいっそう慎重になる。
彼らが防弾チョッキを身につけていても、それは決して責められることではなかったであろう。
しかし、一方純白の軍装のまま防弾チョッキも身につけず、端然として座席に坐っている宇垣戦隊司令官や森下艦長の落ちつきはらった姿が、将兵たちの眼にはいかにも心強く見え、頼り甲斐のある上官として彼らを勇気づけたこともまた事実であった。

艦橋は展望をよくするために横一線に幅30センチぐらいの空間があいており、空襲に際しては敵機の銃撃、爆撃による飛弾鉄片はそこから容赦なく艦橋に飛び込み、防弾チョッキをつけたものにも、つけないものにも差別なく突き刺さるのだ。
防弾チョッキを身にまとうのが是か非か。
兵学校出の若い少尉たちの反応も都築中尉と同じであった。
そして私もまた艦隊司令部の参謀たちの防弾チョッキ姿に、彼らの心のひだの中を見たような気がして、反射的に反発をおぼえた。
生死の関頭に立つこの期に及んで、全軍を率いる将にはそのような人間臭さは不要だと思ったからである。
22日からはじまりレイテ沖海戦で終ったこの一連の戦闘は、米軍との熾烈な戦いであったと同時に、艦隊司令部の人たちの深奥部でくりひろげられた心の葛藤であり、彼らが身につけた防弾チョッキはその象徴であったといえよう。

(参考:小島精文 著 『栗田艦隊』 1979年4月・2版発行 図書出版社)

(平成27年7月26日・追記)


【菊水作戦】 

連合艦隊は、沖縄の米軍に対して「菊水」作戦を発動、全力特攻作戦を準備した。
この「菊水」作戦について及川古志郎軍令部総長が天皇に奉上したところ、「航空部隊だけの攻撃なのか」とのお言葉があった。
これに関しては、「船の方はどうしているか」とのお言葉であったとの説もあるが、いずれにせよ天皇としては単に作戦の状況を尋ねたもののようであったが、これを及川軍令部総長は、軍艦も特攻に出さねばならないと受け取り、「海軍の全兵力を使用いたします」と奉答した。
この後、この水上特攻計画がどのような経過をたどって決定に至ったかは、なぜかあまり明瞭ではない。

第一に、このような重要な作戦にもかかわらず、連合艦隊の草鹿龍之介参謀長は、第5航空艦隊との作戦打ち合わせのために鹿屋に出張中で、この経過を全く知らなかった。
草鹿がこれを知ったのは、作戦決定後である。
電話で神重徳参謀から知らされ「参謀長の意見はどうですか」と聞かれた。
草鹿はさすがに腹を立て、「決まってから、参謀長の意見はどうですか、もないもんだ」と憤慨した。

大筋としては、及川軍令部総長から直接、豊田連合艦隊司令長官に話が行き、参謀長不在のまま、早くから水上艦艇による殴り込み作戦を主張していた神重徳参謀の案を採用したものだったらしい。
豊田連合艦隊司令長官は、「うまく行ったら奇跡だ」と判断していたにもかかわらず、この作戦の実施を認めて軍令部に戻した。
小沢治三郎軍令部次長は、「長官がそうしたいのなら良かろう」と、これを了承した。
もちろん及川軍令部総長に異存はない。
こうして天皇の何気ない質問は数日のうちに、戦艦「大和」以下の日本海軍最後の水上艦隊の特攻出撃という命令となったのである。

(参考:戸高一成 著 『海戦からみた太平洋戦争』 角川書店 2011年11月初版発行)

(平成29年7月30日 追記)


戦艦「大和」最後の艦長〜海上修羅の指揮官〜
生出 寿 著 光人社NF文庫 1996年12月発行 定価760円
(解説)
危機の中にあっても常に泰然自若、しかも臨機応変、戦さ強者にして巧者の評価をほしいままにした”修羅場の指揮官”の素顔を浮き彫りにした話題作。
沖縄海上特攻隊指揮官として砲煙弾雨の中、露天の戦艦「大和」防空指揮所で最後まで戦いつづけ、三千余の将兵とともに波間に消えた提督の生涯を描く海軍名将伝。
  

 (関連商品のご紹介) 

戦艦大和



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