空母 千歳


軍艦千歳の碑



『軍艦千歳』の碑

(福岡県久留米市・水天宮境内)




(平成16年6月12日)

軍艦千歳郷土会に就いて

軍艦千歳が呉海軍工廠で竣工、就役間もない昭和13年10月久留米を中心とした筑後地方一帯より、一千九百余名の有志の方々で軍艦千歳会を発足させ(会長 石橋徳次郎氏 当時久留米市長)その頃珍しかった蓄音機、レコード、絵葉書及び軍艦旗など多数献納されております。
この度の千歳慰霊碑建設に当っては生存者及び遺族の方々は申す迄もなく、軍艦千歳の事を全く知らない多くの方から、又筑後川遥か上流の方々からも暖い御協力を賜り見事な慰霊碑が出来ました。
軍艦千歳は6ヶ年の短い生涯でありましたが、他の艦に見られない一般の方々の祝福を受けた幸せの艦であったと思います。
艦長、副長機関長など幹部の方々は殆んど戦死いたしました。
もし艦長存命ならば皆様に対し、どんなに御礼の言葉を述べた事でありましょう。

昭和53年10月25日 軍艦千歳慰霊碑建設委員会

三百年前は筑後川を千歳川と呼んでいたそうであります
いつよりの千歳かわかぬ千歳川始めも果てもなき名なりけり

(説明板より)

碑文

昭和13年就役以来日支事変太平洋戦争と幾多の戦闘海戦に出撃赫々たる戦果を挙げた軍艦千歳はフィリッピン沖海戦に於いて勇戦奮闘するも衆寡敵せず 遂にフィリッピン エンガの岬東方二百哩の太平洋に艦長以下幾百の将兵と共にその勇姿を没した
時に昭和19年10月25日午前9時37分

軍艦千歳は筑後川(別名千歳川)の名を取って命名されたものであり艦内神社に水天宮を奉祀してありました

レリーフ像 慰霊碑のレリーフ像

説明銘板

1.航空母艦千歳略歴
昭和13年呉海軍工廠に於て、水上機母艦として進水、竣工、就役
昭和17年11月佐世保海軍工廠に於て航空母艦に改装着工
昭和18年9月18日、完成、公試運転及諸訓練
昭和19年1月、護衛艦隊に編入
昭和19年2月機動部隊に編入、第3艦隊、第3航空戦隊(千歳、千代田、瑞鳳)旗艦となる
昭和19年6月13日、タウイタウイ環礁を出撃、サイパン沖へ、6月18日マリアナ沖海戦
昭和19年10月20日、豊後水道を出撃、ルソン島東方海域へ、10月25日、フィリッピン沖海戦
1、航空母艦千歳要目
基準排水量11,190トン、公試状態13,600トン
水線の長さ185.91メートル最大幅208メートル飛行甲板の長さ280メートル巾23メートル
主機械 蒸気タービン56,800馬力、デーゼルエンジン1,8000馬力
最大速力29.9浬(毎時) タービン・デーゼル併用
飛行機搭載数30機
備砲 高角砲4基(12.7センチ2連装) 噴進砲4基(12センチ砲28連装) 機関銃10基(25ミリ3連装) 機関銃(25ミリ単装) 機関銃2基(13ミリ単装)
1、航空母艦千歳レリーフ像について
敗戦の色濃い、戦局を一挙に挽回せんと捷1号作戦が発令され、栗田、西村、志摩の3艦隊のレイテ湾、突入を容易にするため、陽動作戦部隊となって昭和19年10月20日午後、小沢治三郎中将指揮のもと僚艦17隻と共に、豊後水道を出撃、10月25日、早朝よりアメリカ機動艦隊、艦載機の集中攻撃を受け、岸良幸艦長以下、乗組員一丸となっての奮戦も空しく、25日午前9時37分フィリッピンルソン島東方200浬の太平洋上から歴戦の栄光に輝いた、航空母艦千歳は永久にその姿を没してしまいました。
年々、歳々時は移り、世情も変わり、千歳沈没から、46年経過いたしました。
幸か不幸か、辛うじて生き残った生存者も一人減り、二人減り、千歳の面影も年と共に次第に薄れてまいりました。
まして千歳の勇姿を見た事もない遺族の方や、参拝者に対し、更に、8千5百メートルの深い海底に眠る艦長以下、千名近くの先輩戦友の鎮魂供養に、レリーフ像の建立の話が生存者の間で起こり、全国各地に居住する乗組生存者の浄財により、千歳の勇姿を再現する事が出来ました。

平成2年10月

軍艦千歳の慰霊碑 水天宮境内の『軍艦千歳』慰霊碑

昭和53年10月25日千歳会建之

軍艦千歳(航空母艦)略歴

昭和9年11月26日 水上機母艦として呉海軍工廠にて起工
昭和11年11月29日 呉海軍工廠にて進水
昭和12年7月23日 軍艦千歳祭神決定(水天宮)
昭和13年7月1日 艦内神社に祭神鎮座
昭和13年7月25日 竣工・就役
昭和13年10月〜11月 廣東攻略戦
昭和14年12月 南洋群島巡航警備
昭和16年11月 11月23日、呉軍港出港(太平洋戦争突入)
昭和16年12月 レガスピ・ダバオ・ホロ攻略戦
昭和17年1月〜4月 メナド・ケンダリ・アンボン・マカッサル・スラバヤ・ニューギニヤ攻略戦
昭和17年5月〜6月 ミッドウェー作戦
昭和17年8月〜11月 トラック島進出、ソロモン沖海戦、ラバウル・ショートランド輸送作戦
ガダルカナル作戦
昭和17年11月 航空母艦に改装(佐世保海軍工廠)
昭和18年9月 完成・就役
昭和18年9月〜昭和19年4月 シンガポール・トラック島・サイパン島輸送作戦
昭和19年5月 機動部隊編入(第3艦隊第3航空戦隊)
昭和19年6月 マリヤナ沖海戦
昭和19年7月〜10月 内海西部にて訓練待機
昭和19年10月20日 フィリッピンに向け出撃
昭和19年10月25日 フィリッピン沖海戦

(碑文より)


水上機母艦改装空母

日本海軍はワシントン条約で戦艦と空母の保有量を制限され、続く昭和5年のロンドン会議では制限外となっていた巡洋艦、駆逐艦、潜水艦などの補助艦までも制限を受けるに至った。
しかし、特設艦は、排水量1万トン以内、速力20ノット以下であれば平時訓練用として無制限に建造できることになっていた。
そこで、平時は特設艦、有事には直ちに改造して小型空母として海上航空兵力を増強しようという計画をたて、第1状態を水上機母艦、第2状態を空母として「千歳」が建造された。
しかし、「千歳」は水上機母艦にとどまらず、秘密兵器・甲標的(特殊潜航艇)の母艦として、開戦時には敵の軍港へ接近し甲標的を海中に放ち敵主力艦を攻撃するという任務も持っていた。
これに、第2状態の空母に急速改造できるように設計されていただけではなく、場合によっては高速給油艦にもなれるという4つの目的をもっていた。
このため、その設計は複雑となり、結局中途半端な空母となってしまったという。

竣工した昭和13年7月は、既に無条約時代に入っていたため、当初の予定の速力20ノットを大幅に引き上げ29ノットとした。
水上機母艦として4基のカタパルトと水上偵察機24機を搭載。
艦内格納庫に12隻の甲標的を搭載するときには、水上偵察機を12機に半減することになっていた。
しかし、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると、甲標的を活用する機会が起こらず、特殊艦としての能力を発揮する機会は訪れなかった。

その後、ミッドウェー海戦での大敗により、空母へ急速改造された。

参考:佐藤和正著『空母入門』

(平成17年12月27日記)


【ロサ弾】

米空母機に悩まされていた日本海軍は、ロケット弾を対空用に使用した。
日本海軍のものは、直径12.2センチ、長さ43.5センチの「ロサ弾」であった。
この名は、ロケット式散弾の頭文字をとったものである。
長さ3.5センチ、幅0.5センチの小鋼管60個が内部にギッシリとつまっており、この鋼管の中には焼夷薬が入っている。
このロサ弾は発射後0.92秒たつと電気的に時限信管が働き、炸裂して、あたりに弾片をまき散らす。
無数の弾片のうちの一部が敵機に命中すれば致命傷となるのだ。
射程は350〜500メートルとされ、敵機との距離のタイミングをとらえて発射する。

ロサ弾は昭和19年7月頃から、内地で空母に装備された。
栗田艦隊(第2艦隊)は、スマトラのリンガ泊地へ南下していたので、装備する暇もなくフィリピン海域に臨んでいる。
「ロサ弾」は28連装のものと30連装のものとがあり、「噴進砲」と称せられた。
28連装のものは、空母「瑞鶴」「千歳」「龍鳳」「雲龍」「隼鷹」「瑞鳳」に各6基、合計168門を積み、30連装のものは航空戦艦「日向」「伊勢」、空母「海鷹」に付けられた。

噴進砲のデビューは昭和19年10月25日のレイテ沖海戦である。

空母「瑞鶴」は反省すべき戦訓として、次の3点をあげた。
@噴進砲はあまり早く撃たぬこと。白煙のため25ミリ機銃発射の邪魔になるためである。
A1基あたり士官1名、兵3名の計4名がつくが、彼等には防火服、または飛行服が必要である。
Bカーチス・ヘルダイバーSB2C艦上爆撃機は、いつも高度500メートルから降下に移るから、炸裂距離が500〜600メートルとなるよう、あらかじめ信管秒時をセットしておくとよい。

(参考:木俣滋郎 著 『幻の秘密兵器』 光人社NF文庫 1998年8月発行)

(平成31年4月18日 追記)


レイテ沖海戦

【小沢艦隊】

小沢艦隊(司令長官・小沢治三郎中将率いる第3艦隊)は、長官旗を第3航空戦隊旗艦「瑞鶴」に掲げた。
そして同戦隊には改装空母の「瑞鳳」「千歳」「千代田」の3空母が属していた。
また第4航空戦隊には戦艦の後半分を飛行機発着甲板に改装した「日向」と「伊勢」そして軽巡の「大淀」と「多摩」が属し、護衛艦として第31水雷戦隊の旗艦・軽巡「五十鈴」以下駆逐艦8隻がしたがっていた。
機動部隊の任務は、連合艦隊司令部から次のように定められていた。
「機動部隊は第1遊撃部隊のレイテ突入に策応し、ルソン東方海面を機宜行動、敵を北方に牽制するとともに好機敵を攻撃撃滅すべし」
要するにおとりとなって、第1遊撃部隊(栗田艦隊)のレイテ突入を容易にさせてやれ、というものである。

第3、第4航空戦隊の主力は台湾沖海戦の折りに第2航空艦隊に配置替えになっていたので、わずか100機そこそこの残存兵力は、錬度が低く、飛行甲板での発着も危ぶまれるものが多く、敵を攻撃してその戦果を期待し得るようなものではなかった。

昭和19年10月20日夕、豊後水道を出撃した小沢艦隊は南下をつづけ、24日朝、予定地点に達すると索敵飛行を開始した。
味方索敵機からの情報はなかなか届かない。
しびれを切らしていた小沢長官の下に索敵機からの電報が届いたのは正午前、11時を過ぎていた。
小沢長官は直ちに航空攻撃の開始を連合艦隊司令部と第1遊撃部隊に打電した。(この電報は「大和」には届かなかったという)
「瑞鶴」から零戦、天山などの29機、「瑞鳳」から11機、「千歳」から9機、「千代田」から9機の合計58機がそれぞれ発艦した。

「日向」の艦橋で味方機の母艦からの発進ぶりを見ていた藤沢豊彦少尉(福岡高商出身)は、「あっ!」と息をのんだ。
「千歳」から2番目に発進した零戦がブルンブルンと異様な音を立てたかと思うと、そのまま海中に落ちて水煙をあげるのを見たからである。
一瞬、彼の胸を何か艦隊の運命を暗示するような不吉な想いがよぎっていった。
彼の不吉な予感はやがて事実となってあらわれた。
攻撃機は米グラマン群と遭遇し、空母に帰還したものはわずか3機、他は米艦隊を発見せぬまま北部ルソンのアパリ、ツゲガラオに帰投し、十数機が未帰還だった。

(参考:小島精文 著 『栗田艦隊』 1979年4月・2版発行 図書出版社)

(平成27年7月29日・追記)


捷1号作戦・搭載機数

零戦8機、爆装零戦4機、天山6機、合計18機(正規搭載30機)
空母の発着艦可能な技量を持っている搭乗員不足のため正規の搭載数を満たせませんでした。

千歳の最期

昭和19年10月25日

8時27分 敵機10機、急降下投弾 左舷高角砲射撃指揮装置に1発命中 射撃指揮官他多数戦死
左舷後方噴進砲群に1発命中 大火災
右舷後方から約10機
急降下投弾
飛行甲板後部エレベーターに1発命中 艦内で炸裂、浸水及び火災
至近弾多数 艦橋操舵不能・人力操舵
8時30分 右から艦爆10機
左から艦爆10機
左舷噴進砲群に直撃弾1発 砲側の弾薬爆発
左舷前部に直撃弾3発 左舷缶室満水
艦は左に7度傾斜
タービン運転不可能・ディーゼル運転可能・速力14ノット
9時10分 傾斜26度・右舷後部主機械停止
9時15分 左舷後部主機械停止・航行不能となる
9時30分 艦の傾斜30度・総員退去
9時37分 横転しながら沈没・艦長以下468名戦死・494名救助

(平成16年7月10日記)


レイテ沖海戦




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