特殊潜航艇・甲標的


特殊潜航艇・甲標的 平成18年3月20日

特殊潜航艇

要目
排水量 46トン
全長 23.9メートル
内殻直径 1.85メートル
電動機馬力 600馬力
速力 水中19ノット
航続力 6ノット80マイル 19ノット16マイル
兵装 魚雷発射管2門 魚雷2本
乗員 2名

本艇は、太平洋戦争の開始直前それぞれ伊号第16.18.20.22.24.潜水艦に搭載され 昭和16年11月20日呉軍港を出航し、同年12月8日未明特別攻撃隊としてハワイ真珠湾に在泊中の米国太平洋艦隊の攻撃に参加した5隻の特殊潜航艇の1隻である。
昭和35年6月13日真珠湾港外約1マイルの地点で米海軍により発見引揚げられ昭和36年6月20日真珠湾に寄港した揚陸艦しれとこ に搭載されて 7月10日約20年振りに横須賀に持ち帰られ 7月28日本校に到着した。
艇体頭部は受領当時切断されていたが昭和37年2月株式会社呉造船所により新製され ここに艇体の原型が復元された。

(説明板より)

特殊潜航艇・甲標的


特殊潜航艇・甲標的

(広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校)



(平成18年3月20日)
特殊潜航艇・甲標的


特殊潜航艇・甲標的

(広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校)



(平成18年3月20日)

特殊潜航艇

特殊潜航艇が公表されたのは昭和16年12月8日太平洋に戦端が開かれるや長駆してハワイ真珠湾に潜入、航空部隊の攻撃と呼応して米国主力艦隊を強襲し緒戦を飾ったときであり、この特殊潜航艇の攻撃が太平洋戦争の特別攻撃隊の始めである。
その後、特殊潜航艇は逐次改良され「甲標的」と呼称されていたものは乙型、丙型、丁型と変移し、この段階で「甲標的」に代えて「蛟龍」という名称が用いられるようになった。
これらの特殊潜航艇は南方はるか豪州シドニー軍港に米豪艦隊を、インド洋はマダガスカル島デイエゴスワレス港に英国艦隊をそれぞれ急襲して連合軍を震撼させた。
また「特型運貨筒」「特型運砲筒」と呼ばれた艇はソロモン海域に物資や砲銃の輸送に従事し活躍した。
さらに戦場が、わが周辺に迫るに及び「海龍」が量産され「蛟龍」「回天」ともども本土決戦に満を持したのである。
まさに、特殊潜航艇をもって始まった太平洋戦争は特殊潜航艇によって終りを告げようとした。
特殊潜航艇の関係戦没者は370余柱に及んでいる。
戦後これら特殊潜航艇乗組員の功績と栄誉を敬慕し、その御霊をおまつりするため各地に慰霊碑が建立されているが、近在に建てられている碑は次のとおりである。

香川県小豆郡内海町馬木八幡神社境内「忠魂碑」
広島県安芸郡音戸町波多見八幡神社境内「嗚呼特殊潜航艇碑」
山口県徳山市大津島「回天」
愛媛県西宇和郡瀬戸町三机須賀の浜「大東亜戦争九軍神慰霊碑」
山口県熊毛郡平生町松倉工業内「回天碑」
山口県光市正門町武田薬品KK前「慰霊碑」

(説明板より)

旧海軍兵学校跡
海上自衛隊
第1術科学校・幹部候補生学校
(広島県江田島市)

旧・海軍兵学校跡


(平成18年3月20日)

学校の歴史

江田島は、風光明媚な広島湾に位置して、東は呉市に、北は広島市に、西は那沙美島を隔てて名勝安芸の宮島に相対し、南は佐伯郡能美島に連なり、また、早瀬大橋、倉橋島、音戸大橋を経て呉市に通じています。
海軍兵学校は明治21年(1888)8月東京築地からこの江田島に移転以来、アメリカのアナポリス、イギリスのダートマスとともに世界3大兵学校としてその名は広く世界が知るところとなりました。
終戦により昭和20年12月1日、約60年の幕を閉じました。
以後の10年間は連合軍が教育施設等に使用しました。
昭和31年(1956)1月返還され、当時横須賀にあった術科学校が当地江田島に移転、その後、昭和32年5月10日に幹部候補生学校が独立開校し、現在に至っています。

(パンフレットより)


海自第1術科学校の特殊潜航艇

昭和16年12月7日午前6時33分、哨戒から戻る途中のPBY偵察機が国籍不明の“小型潜航艇”を発見、発煙筒を2個投下した。
その艇は、工作艦「アンタレス」が鉄製平底船を曳航して湾内に入ろうとしている後ろをぴったりとつけて、開かれた防潜網を突破しようとしていた。
駆逐艦「ウォード」は、ただちに現場に急行し、午前6時45分、90mの至近距離にせまり、発砲を開始。
第2弾目を司令塔に命中させ、ついで爆雷攻撃を行った結果、同艇は急速に速力を落とし、左に傾斜して沈没、そのあとに多量の油が浮いた。
状況から察すると、「広尾艇」(広尾彰少尉・片山義雄二曹)か「古野艇」(古野繁実中尉・横山薫範一曹)であろう。

この特殊潜航艇は、昭和35年(1960年)6月13日に、真珠湾の湾口からダイヤモンドヘッドへ向かって、1.8km、深さ23mの海底から引き揚げられた。
翌年の7月10日、ハワイから横須賀に入港する海上自衛隊の上陸用舟艇「おおすみ」に積まれて日本に返還された。
返還された艇は原形に復元されて海上自衛隊第1術科学校に安置されている。

引き揚げ時、牡蠣かきが艇全体に付着して艇番号もわからず、司令塔に砲弾痕、電池室付近に爆雷攻撃を受けた痕跡があるほか、艇体の破損は少なかった。
2本の魚雷は装填されたままで未発射。
その火薬は、約19年間も海底にありながら有効だった。
衝撃的なことは、艇内に、2名の乗組員の遺骨、遺歯がなかったことだ。
遺留されたものは、作業着1着、靴1足、一升瓶1本のみで、艇内は整理されていた。
乗組員の姿が消えていることに関し、米海軍当局は、「搭乗員は沈没と同時に艇外に脱出、逃亡したものと推測される」とした。
その根拠として、@司令塔のハッチの掛金が内側からはずされている。A遺骨も遺歯もない。B艇の自爆装置に点火した証跡がない点を上げた。
搭乗員は、艇に万が一の事態が生じたときは、浮上し、敵陣に斬り込むために、各自が日本刀と拳銃を携行していたが、それも艇内にはなかった。
駆逐艦「ウォード」が午前6時45分に、この特潜の司令塔を砲撃しているということは、そのとき特潜は完全に浮上状態にあったわけである。
つまり、故障、予定の攻撃不可能と判断した2人の搭乗員は、上陸・斬り込みの覚悟で急ぎ艇内を整理し、拳銃と日本刀を身につけて、浮上と同時に司令塔かのハッチを開き、海中に身を躍らせたのではないか。
とすれば、「ウォード」が接近、砲撃し、爆雷攻撃を加えて沈没せしめた艇は、無人だったということになる。

(参考:牛島秀彦著 『九軍神は語らず』 講談社 1976年第1刷)

(平成23年9月28日追記)





特殊潜航艇関係の展示コーナー
(アメリカ合衆国・ハワイ・ボウフィン博物館)



(平成21年12月8日)

Five class A Japanese midget submarines are known
to have taken part in the attack on Pearl Harbor on 7
December 1941. Nearly 80 feet in length, the midget
submarines were armed with two torpedoes and
carried two−man crews. Twin−hulled and vulnerable
to depth charges, they relied on their small size and
high speed to escape detection.

One of the five midget submarines, Ha−19, under the
command of Ensign Kazuo Sakamaki, ran aground
off Bellows Air Field. Ensign Sakamaki swam to
shore, was captured by American soldiers, and
subsequently became the United States’ first
prisoner of war of World War U.

(説明板より) 



真珠湾攻撃時の写真
(ハワイ・ボウフィン博物館)

潜航艇の魚雷発射時の波か?


(平成21年12月8日)

Although Ensign Sakamaki was not successful in his
attempt to penetrate Pearl Harbor’s defenses on 7
december, two other Japanese midget submarines
did enter the harbor. The above photograph, taken
several minutes after the attack began, shows what
is believed to be a midget submarine launching its
torpedoes at the battleships OKLAHOMA and WEST
VIRGINIA.

(説明板より)

酒巻艇座礁の展示写真 ベローズ・フィールドの海岸
(ハワイ・オアフ島)
(平成21年12月6日・旅日記参照)

展示写真説明文(英文)

Ensign Sakamaki’s midget submarine, Ha−19, 
aground off Bellows Air Field, Windwward Oahu.
After considerable effort, the midget submarine was freed
from the reef and brought to Naval Submarine Base,
Pearl Harbor, Where it was Closely examined by Navy
investigators.

ベローズ陸軍航空基地跡
(ハワイ・オアフ島)
(平成21年12月9日・旅日記参照)



酒巻和男少尉の捕虜記録
(ハワイ・ボウフィン博物館)



(平成21年12月8日)

説明文(英文)

After Ensign Sakamaki was taken prisoner, an
immgration Interned Enemy Alien form was used to
record his vital statistics.(reproduction)



ハワイで捕獲された特殊潜航艇
(ハワイ・ボウフィン博物館)

米軍は特殊潜航艇を「Ha−19」と呼称。


(平成21年12月8日)

展示写真説明文(英文)

Ha−19 was displayed across the United States
mainland from 1942 through 1945 to help raise funds
during war bond drives. Here the midget submarine
is on exhibit at Hunter College in New York.




特殊潜航艇のスクリュー
(ハワイ・ボウフィン博物館)



(平成21年12月8日)

Ha−19 Propeller

One of two contra−rotating
propellers teken from the
Japanese midget submarine
Ha−19. Damage to the blades
was susutained when Ha−19
ran aground on a reef near
Bellows Air Field, on the
Windward side of Oahu,
8 December1941.

(説明板より)  





特殊潜航艇の魚雷発射管
(ハワイ・ボウフィン博物館)





(平成21年12月8日)

展示写真説明文(英文)

Sailors examine two torpedoes protruding from the
bow of Ha−19. The metal rings around the
torpedoes’heads are guards which were designed to
protect the weapons from accidental impact, which
could cause them to detonate.


特殊潜航艇の開発

「決死的特殊潜航艇」は、二次にわたる世界軍縮会議の結果、国防上はなはだ不安を感じていた帝国海軍が、満州事変勃発後の国際情勢悪化により、ますます軍備充実に迫られた上の苦心の所産物である。

昭和7年(1932年)の初め、当時艦政本部第1部第2課(水雷兵器担当)長だった岸本鹿子治かねじ大佐(酸素魚雷考案者)が、人間魚雷的潜航艇で敵艦を襲撃し、必殺必中を期す兵器を着想した。
これは、日露戦役で、佐賀県出身の横尾敬義少尉が、魚雷を抱いて、敵艦襲撃を企図したのにヒントを得たものである。

岸本大佐の特殊潜航艇(当初)の構想。
1、人間が乗り込むこと。
2、艦隊戦闘の場合に使用するものとして、米艦隊の1.5倍の水中速力30ノットとすること。
3、魚雷発射管を2門とすること。
4、航続距離は彼我砲戦距離を基に、魚雷発射後は戦場に留まり、後でこれを収容することとし、60キロとすること。
この兵器は、機密保持の上から、初めは「対戦爆撃標的」または「甲標的」と呼ばれ、後には「TB模型」、「H金物」という呼称が付けられた。

その後、改良を重ね、昭和14年(1939年)7月、第一次試作では、八九式53センチ魚雷を使用していたのを九七式45センチ酸素魚雷に換え、短波無線装置を設け、名称も「甲標的」に統一し、2基の製造を呉海軍工廠に発令した。
翌昭和15年4月末に第1基が、6月末に第2基が完成した。

(第二次試作艇の概要)
全長=23.9m(第一次試作艇より60cm増し)
直径=1.85m(第一次試作艇より26cm増し)
排水量=43.75トン(第一次試作艇より2.5トン増し)
電動機=600馬力
計画速力=25ノット
航続力=21.5ノットで50分、7ノットで16時間
蓄電池=224ボルト(224個)
安全潜航深度=100m
無線装置=短波1組(新設)
発射管=45センチ口径2基(第一次試作艇は53センチ口径2基)
魚雷=九七式酸素魚雷(第一次試作艇は八九式酸素魚雷)
     駆走距離5500m(第一次試作艇は5000m)
     炸薬300kg
乗員=2名

(参考:牛島秀彦著 『九軍神は語らず』 講談社 1976年第1刷)

(平成23年9月28日追記)


【甲標的の生産】

甲標的は数度にわたって改良がなされ、甲標的甲型が2隻建造された。
その後、第3号から12号までの建造命令が出された。
日米開戦を前に15隻が完成し、このうちの5隻が丙型潜水艦に搭載されて真珠湾に向かった。

軍機の甲標的は、当然ながら人目を避けて量産されることになった。
呉工廠から約10キロほど南にある倉橋くらはし島波多見の大浦崎の先端に、約5千平方メートルの大浦崎工場が建設され、昭和17年(1942年)夏から建造が開始された。
所管は呉工廠水雷部だった。
工場には水雷部、電気部、造船部の各作業場と部品庫、完成した艇の格納場があった。
工場の岸壁に突き出した60トンクレーンで完成した艇を吊り上げて海に降ろし、トリム調整を行なって性能を確認する。
部隊の訓練も大浦崎で人目を避けて行われた。
量産は順調に進んだ。
53号艇からの乙型には40馬力のエンジンを搭載し、これを改良した丙型は航続距離が300マイル(約480キロメートル)まで延びて、60から76号艇がつくられた。

(参考:前間孝則 著 『戦艦大和誕生(下) 「生産大国日本」の幕開け』 講談社 1997年9月 第1刷発行)

(令和2年9月4日 追記)


【甲標的 甲型・乙型・丙型】

昭和6年、電池を用いる直径53センチの潜水艦用魚雷が完成した。
のちの九二式魚雷である。
艦政本部では、この魚雷を大きくして、二人乗りの小型潜水艦を建造することを考えた。
来たるべき日米の戦艦同士の砲撃戦の直前、敵艦隊の進路に散開して敵戦艦を撃滅するために、小型潜水艦を大型母艦から出撃させるアイディアが生まれたのだ。
これが特殊潜航艇である。

呉工廠の魚雷実験部が小型潜水艦を試作、昭和9年、高知県の南、宿毛湾内で外洋実験をおこなった。
特殊潜航艇は、機密保持のため“対潜爆撃の標的”だと偽ることにして、軍部内では「甲標的」と称された。

甲型と称する第1号型が完成したのは昭和14年のことで、42トンという小粒で、長さ23.9メートル、胴体の直径は1.8メートルだった。
二人乗りで、600馬力のモーター1基を動かすのに、特D型と称する電池を232個使用する。
この電池でゆっくり走れば8時間、19ノットの全速を出すと50分しか走れない。

電池を長く使うと化学変化が起こり、硫化水素という猛毒ガスが発生する。
他国の海軍が、手軽な電池で走る豆潜水艦をいくら設計しても、すぐに生きづまってしまうのは、この猛毒発生のためである。
さらに、電池を長時間使用すると、水素ガスが発生し、これがある程度以上艇内に充満すると、火花などのちょっとした刺激で爆発を起こす心配があった。
水素ガス爆発の危険性という点でも、特殊潜航艇の建造は危ぶまれた。
しかし、わが技術陣は、パラジウムを触媒として、水素ガスや硫化水素を吸収させることに成功した。

特殊潜航艇の艇尾のスクリュー・プロペラは、同じ軸に2個つけられ、前のものと後ろのものとは逆に反転する方式だった。
艇首の魚雷発射管は、普通の潜水艦のように左右に並べるほど十分な船幅がないため、上下2本並んでいる。
この2本の魚雷は直径45センチの小型九七式魚雷である。
これが採用されたのは昭和12年、呉工廠でマスプロに入ったのは昭和15年である。

特殊潜航艇は自分の持っている電池を使ってしまったら、もう動けないのが欠点だった。
そこで、後部電池の一部を撤去し、その跡に25キロワットという小さい発電機を置いた。
これならある程度、自分で発電して電力を供給することができる。
この発電機付きのものを乙型、そのマスプロ型を丙型と称する。
これらは、母艦や親潜水艦からではなく、前進基地で使用するように、やや大型化されていた。

(参考:木俣滋郎 著 『幻の秘密兵器』 光人社NF文庫 1998年8月発行)

(平成31年4月18日 追記)


【丁型】

昭和19年(1944年)末に試作が完了した丁型は、作戦上の必要から基地防御用に設計が改められ、それまでの甲標的とは用途が異なっていた。
用兵側から、「敵の進攻を防ぐためには、甲標的にもっと機動力をもたせたものが欲しい」との強い要求が出されたためである。
充電能力と機動性をアップし、母艦から発進するだけでなく、単独でも行動できるようになった。

外形はやや大きくなり、乗員は2人から5人に増えた。
そのため、主機は150馬力のディーゼルエンジンとし、500馬力の電動機、特Hと呼ばれる電池を100個搭載して、航続距離は水上で8ノット(時速約15キロメートル)で1000カイリ以上と飛躍的に延びた。
水中で16ノット(時速約30キロメートル)のとき0.9時間、2.5ノットのときは50時間、安全深度は100メートル、連続行動日数は5日間だった。
魚雷発射管は2門。

丁型は基地から出動して付近の海域を警戒して迎え撃つもので、充電もでき、水上での性能も改善されていた。
このように、敵の上陸作戦を水際で迎え撃つ主兵力とすることから、名は「蛟龍」と改められた。
乙型と丙型が潜航艇であるのに対し、丁型は小型潜水艦ともいえた。
丁型は量産を前提にしているため、船殻の構造はこれまでと違ってデリケートな設計はできるだけ避けて簡易化した。
「蛟龍」の船体は7つのブロックからなっていた。
それらは呉工廠造船部の船殻工場で溶接によってつくられ、シャラン船で大浦崎工場まで運ばれて個々に艤装を行ない、そのあと、ボルトでブロックを連結して完成させる。

以後、月産10隻を目標に邁進したが、このころになると、B29などによる工業地帯への空襲も激しくなり、材料や部品の輸送、納入が遅れがちになって、「蛟龍」の生産も予定通りには進まなくなった。
「蛟龍」は決戦兵器として位置づけられ、昭和20年(1945年)9月までに480隻を建造する計画だったので、呉工廠だけでなく、三菱、三井、川崎、播磨などの民間の造船所でも量産されることになった。

「蛟龍」は終戦までに呉工廠(大浦崎工場、大麗女島おおうるめじまで60隻、三井玉野造船所が30隻を完成し、建造中だった数は前者が約100隻、後者は50隻だった。
そのほか、三菱や川崎など9ヵ所の造船所を合せると、完成が150隻、建造中が約500隻だった。
艇そのものが小さいとはいえ、11ヵ所の量産工場が出現し、短期間にこれほどの量産が行われたのは、日本の造船史上に例のないことだった。

(参考:前間孝則 著 『戦艦大和誕生(下) 「生産大国日本」の幕開け』 講談社 1997年9月 第1刷発行)

(令和2年9月4日 追記)


 平成21年3月19日

グアム島・太平洋戦争国立歴史公園ビジターセンター

日本軍の2人乗りの潜水艦

1944年8月半ば、沖合のアメリカ軍の施設を攻撃する目的で日本軍は2人乗りの潜水艦をタグチャ海岸付近で任務につけた。
しかし戦闘の結果1週間後に日本軍は敗退した。

日本軍は1934年から45年までの間約2,000隻の小型潜水艦を建造したが、すべて太平洋戦で沈没した。
これら潜水艦の戦果は、太平洋戦争を通じわずか1隻の敵艦を沈没させたに過ぎなかった。

1941年12月の真珠湾攻撃では5隻の日本軍の2人乗り潜水艦が沈没または行方不明となっている。
写真(右)の潜水艦はオアフ島東部で撮影された。

日本軍の潜水艦は全長80フィート。
乗組員2人が乗船するだけが精一杯で、乗り心地などは考慮されていない。
後に製造されたモデルは弾頭が搭載でき、敵艦への体当りの任務を負っていた。

(現地説明板)




太平洋戦争国立歴史公園
T.STELL NEWMAN VISITOR CENTER




(平成21年3月19日)

シドニー湾攻撃(昭和17年5月31日)

 松尾艇の司令塔部分

オーストラリア海事博物館(オーストラリア・シドニー)

SUBMARINE CONNING TOWER M22
‘Battle of Sydney’

M22 (Lieutenant Keiu Masuo and Petty Officer Masao Tsuzuku)first attempted
to enter the harbour at the southern end of the Boom at 2254 but was sighted
and depth charged six times by the patrol boat YANDRA,M22 was probably
damaged and withdrew.After M24’s attack on USS CHICAGO at 0005 and the
sinking of KUTTABUL,M22 re-entered the harbour .At 0350 KANIMBLA open fired
on a surface d M22 in Neutral Bay and probably caused more damaged.M22
entered Taylor’s Bay to take refuge but at 0500 she was discovered by the patrol
boats SEA MIST,YARROMA and STEADY HOURE who proceeded to depth charge
M22 for the next two hours.An oil slick was observed at 0721 ending the Battle
of Sydny.When M22 was salvaged it was found that Matsuo and Tsuzuku has
committed suicide rather than be taken prisoners.Navy cremated all the Japanese
submariners with full military honours and retured their ashes to Japam.

(説明板より)

平成26年(2014年)4月27日訪問

The Battle of Sydney

The Japanese midget submarine attack on
Sydney Harbour occurred on the night of
31 May/1 June 1942.In a direct line from
this point,look towards the mast of HMAS
SYDNEY 1 on Bradley’s Head.Approximately
halfway between the two was the position
where the Japanese midget submarine
M24 (SBLT Katsuhisa Ban) fired two
21" torpedos at USS CHICAGO that was
moored at the large buoy to your right.
Both missed,one beaching itself near the
Gun Wharf,the other struck the Garden
Island seawall under the depot ship
KUTTABUL,killing 21 sailors.All three
midget submarines and their two-man
crews involved in the attack where lost.
The sailorsfrom both sides who died that
night were given full military honours.
The KUTTABUL sailors were buried at
Rookwood Cemetery while the lost
submariners were cremated and their
ashes returned to Japan during the war.

(説明板より)

 シドニー湾

写真の左のほうから延びる陸地が「ブラッドレー岬(ブラッドリーヘッド)」で、あの岬の向こう側で「松尾艇」が沈没しているのが発見された。

 平成26年4月27日

オーストラリア海軍博物館
(ROYAL AUSTRALIAN NAVY HERITAGE CENTRE)



2隻の残骸を結合して復元された特殊潜航艇


オーストラリア戦争記念館(オーストラリア・キャンベラ)

前部は松尾艇の残骸、司令塔を含む操縦席より後方は中馬艇の残骸らしい

(平成26年4月30日)

下から見る


展示パネル
オーストラリア戦争記念館(オーストラリア・キャンベラ)

伊22潜水艦から特殊潜航艇に乗り込む直前の様子らしい。

右:松尾敬宇

(平成26年4月30日)

 平成26年4月30日

オーストラリア戦争記念館(オーストラリア・キャンベラ)


札幌護国神社・遺品館展示資料】

キスカ島の潜水艦基地写真


キスカ島に残された日本軍の潜水艦基地の爆撃跡。
1943年11月 キスカ島(アラスカ)

(写真説明文より)




(平成22年5月26日)



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