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海竜 (広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校) (平成18年3月20日) |
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海竜 (広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校) (平成18年3月20日) |
特殊潜航艇(海竜)
本艇は、昭和18年海軍中佐浅野卯一郎の着想により、同20年4月量産発令と同時に官民多数の建造所で全力をあげ急造本土決戦に備えられた特攻武器である。
終戦までには230隻が完成し、なお、多数建造中であったが一度も使用されていない。
魚雷2発を下部両側に装着発射することになっているが、一部の艇は魚雷にかわり艇首に炸薬を装備することとし、自動車用機関により量産された前例のない有翼潜水艦であり、軽快に潜航浮上ができた。
要目
排水量 19.30トン
全長 17.28m
直径 13m
安全潜航深度 250m
速力 水上7.5ノット 水中10.0ノット
航続距離 水上5ノット450マイル 水中3ノット36マイル
乗員2名
兵器 45糎魚雷2本又は炸薬600キロ
(説明板より)
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海上自衛隊 第1術科学校・幹部候補生学校 (広島県江田島市) 旧・海軍兵学校跡 (平成18年3月20日) |
学校の歴史
江田島は、風光明媚な広島湾に位置して、東は呉市に、北は広島市に、西は那沙美島を隔てて名勝安芸の宮島に相対し、南は佐伯郡能美島に連なり、また、早瀬大橋、倉橋島、音戸大橋を経て呉市に通じています。
海軍兵学校は明治21年(1888)8月東京築地からこの江田島に移転以来、アメリカのアナポリス、イギリスのダートマスとともに世界3大兵学校としてその名は広く世界が知るところとなりました。
終戦により昭和20年12月1日、約60年の幕を閉じました。
以後の10年間は連合軍が教育施設等に使用しました。
昭和31年(1956)1月返還され、当時横須賀にあった術科学校が当地江田島に移転、その後、昭和32年5月10日に幹部候補生学校が独立開校し、現在に至っています。
(パンフレットより)
【海龍】
海軍では秘密保持のため、水中兵器を「金物」という名にした。
昭和19年2月、「SS金物」の図面が横浜工業専門学校(現在の横浜国立大学)でひかれ、同年7月に試作艇が完成した。
昭和20年4月に入って、量産の命が下った。
「SS金物」は「海龍」と名付けられた。
2人乗りの19トンで、長さは17メートル、特徴は200メートルまで潜れることであった。
潜航深度が潜水艦や特殊潜航艇が100メートル、人間魚雷「回天」が80メートルであるのに比べると、それだけ敵のソーナー(水中音波探知機)に捕まる危険性が少ない。
「海龍」は水上用、水中用の二種のエンジンを備えていた。
水上用は100統制型の小型ディーゼル、これは6トン牽引車用100馬力のもので、通称「ロケ・エンジン」と呼ばれる。
特攻艇「震洋」と同じに、トラックのエンジンをそのまま利用したわけである。
水中用は電池とモーターだが、昭和7年に採用された九二式53センチ潜水艦用電池魚雷を利用した。
この魚雷は重くてスピードが出ないので、九五式酸素魚雷の方が喜ばれた。
つまり、電池魚雷のストックが沢山あったのである。
モーターは直流M型を2個連結(特M改型)したものを使った。
電池は特K型100個である。
「海龍」は水上7.5ノット、水中10ノット。
航続力は5ノットで450浬と、「回天」よりはるかに長く、まる1日の行動が可能である。
また浮上から潜航まで、わずか15秒間である。
操縦装置は「銀河」の廃品を利用したが、機敏な運動性は期待したより悪かった。
昭和19年11月、訓練所が油壺に設立された。
横須賀工廠では、400隻の大量生産を目標にピッチを上げた。
しかし、「海龍」は魚雷を2本ずつ艦外に抱くのだが、その直径45センチの小型魚雷の生産が追いつかなかった。
そこで末期には、炸薬60キロを艦首に詰めて体当たりする戦法に変わった。
かくして「海龍」は本土決戦のホープとなったが、速力が遅くて、洋上襲撃はとても無理なので、泊地攻撃を専門とした。
昭和20年7月、「海龍」は和歌山に24隻、瀬戸内海や四国に24隻、九州に24隻、関東南岸に156隻が配備されたが、特攻出撃のチャンスはなかった。
それでいて、弁の開閉の欠陥から、訓練中の事故で絶えず数名の犠牲者を出した。
(参考:木俣滋郎 著 『幻の秘密兵器』 光人社NF文庫 1998年8月発行)
(平成31年4月21日 追記)
平成18年3月19日
特殊潜航艇「海龍」後期量産型
「海龍かいりゅう」は世界初の有翼潜水艇です。
水中を飛行機のように自由に潜航・浮上することをめざして開発されたもので、操縦装置も飛行機と同じものを使用していました。
呉海軍工廠こうしょうなどでは潜航実験や研究・開発が行われ、横須賀海軍工廠と海軍工作学校を中心に建造されました。
後期量産型では艇首に600キログラムの炸薬さくやくを装備し、両脇に抱えた魚雷発射後、目標の艦艇に突入する「水中特攻兵器」となっていました。
当館展示の「海龍」は、昭和20年(1945)年、静岡県網代あじろ湾で艇尾部にアメリカ海軍航空機のロケット弾(不発弾)の直撃をうけて沈没し、昭和53年(1978)年5月27日に引揚げられたものです。
[要目]
全長 17.28メートル
直径 1.3メートル
水上速力 7.5ノット(時速約14キロメートル)
水中速力 9.8ノット(時速約18キロメートル)
装備 45センチ魚雷2本 頭部爆薬600キログラム
乗員 2名
(説明板より)
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海龍・後期量産型 (広島県呉市・「大和ミュージアム」) (平成18年3月19日) |
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呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム) (広島県呉市) (平成18年3月19日) |
開館時間 展示室 9:00〜17:00
休館日 火曜日(祝日の場合は翌日、7月21日〜8月31日は無休)
観覧料 一般 500円
アクセス JR呉駅から徒歩5分
(リーフレットより)
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33年ぶりに引揚げられた海龍 (日時) 昭和53年5月27日 13:00 (場所) 静岡県網代港沖800メートル 水深25メートルの海底より引き上げられた。 (和歌山県平和祈念資料館展示写真) (平成19年4月13日) |
平成18年11月22日
海龍の模型(東京・靖国神社遊就館)
特殊潜航艇「海龍」
2人乗りの有翼潜航艇「海龍」は艇首に600sの炸薬を装着し、艇外の可動式発射筒に収納された2本の魚雷を持ち、局地防禦のため本土決戦用に開発された特攻兵器である。
この有翼艇は昭和18年3月頃、海軍中佐浅野卯一郎らが飛行機にヒントを得て考案し、その後昭和19年9月頃から右記の兵装をはじめ内部に大改造を加え兵器として採用されるに至った。
艇は初め久里浜の工作学校で、さらに昭和20年4月頃から横須賀海軍工廠を中心に全力を挙げて製造され、終戦までの完成艇数は236隻に達した。
一方搭乗員・整備員の教育は、横須賀航海学校及び機関学校の施設を使い、また前線基地を油壺、江ノ浦、下田、小名浜などに設営し、100隻近くの艇を展開したところで終戦を迎えた。
平成15年10月18日
海龍奉納会
【要目】
排水量 19.30トン
全長 17.28m
直径 1.30m
最大巾(翼を含む) 3.45m
安全潜航深度 100m
急速潜航速度 8秒
速力 水上7.5ノット 水中10.0ノット
航続距離 水上5ノット450マイル 水中3ノット37マイル
兵装 (特攻用)頭部炸薬600s 二式魚雷2本
乗員 2名
(説明板より)
(説明板より)
【量産】
量産は横須賀工廠を中心として民間造船所など12ヵ所で行なわれ、終戦までに224隻が完成、建造中は207隻であった。
(参考:前間孝則 著 『戦艦大和誕生(下) 「生産大国日本」の幕開け』 講談社 1997年9月 第1刷発行)
(令和2年9月4日 追記)
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