(和歌山市西高松1−10−23)
平成19年4月13日
和歌山県平和会館(和歌山県忠霊塔境域内)
【施設】
1階:平和祈念資料館
2階:会議室
【利用時間】
9:00〜16:00
休館日:毎週月曜日及び12月26日〜1月5日
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郷土兄弟部隊名一覧表
第4師団歩兵第61連隊(淀4074)・同留守隊・同補充隊(中部第24部隊)に於て新らたに編成された部隊及び要員の補充を担当した部隊の一覧表
部隊名 | 通称名 | 編成補充年月日 | 主なる警備駐屯地又は作戦地域等 |
第104師団 歩兵第161連隊 |
鳳8963 | 昭.13.6.16. | 満洲〜バイアス湾〜広東附近〜南支方面 |
第34師団 歩兵第218連隊 |
椿6844 | 昭.14.3.20. | 中支方面 湖北省、湖南省、江西省〜南昌、九江附近 |
第17師団 歩兵第53連隊 |
月7384 | 明.38.4.17. 大14.5.1.解 昭13.4.18.再 |
中支方面〜湖北省、湖南省、安徽省、江蘇省〜 ニューブリテン島、ブーゲンビル島、ラバウル |
第20師団 歩兵第78連隊 |
朝2053 | 大.5.12.24. (4.18.出発) |
朝鮮平壌〜ニューギニア島 |
第20師団 歩兵第80連隊 |
朝2055 | 昭.16.8. | 朝鮮大邱、ニューギニア島で全滅 (ウエワク、マダン、フィンシハーフェン、アイタペ) |
第25師団 歩兵第70連隊 |
国4905 | 昭.15.7.29. | 東部満洲〜林口.宮崎県小林附近 |
第44師団 歩兵第94連隊 |
椿14155 | 昭.19.7.6. | 茨城県鉾田附近 |
第38師団 歩兵第230連隊 |
沼8926 | 昭.14.8.7. 歩161より 17.1.3.補充 |
南支方面〜広東附近よりスマトラ島 ガダルカナル島、ビスマーク島、ニュージョージャ島 |
第144師団 歩兵第415連隊 |
護阪22305 | 昭.20.2.28. | 紀ノ川以北の和歌山市、海草郡、那賀郡、 淡路島の由良附近、泉南郡等 |
第144師団 歩兵第416連隊 |
護阪22306 | 同上 | 紀ノ川以南の和歌山市、海草郡、那賀郡、有田郡等 |
独立混成第2旅団 独立歩兵第5大隊 |
響5336 | 昭.13.2. | 北支方面〜山東省、張家口附近 |
独立歩兵第67大隊 | 波8114 香8114 |
昭.14.2.1. | 南支方面〜バイヤス湾、広東、上海、九江、香港 広九鉄道沿線 |
第68師団 独立歩兵第117大隊 |
檜6097 | 昭.17.4.7. | 中支方面 江西省、湖北省、湖南省 |
独立混成第37旅団 独立歩兵第267大隊 |
鍛15845 | 昭.18.9.3. | 印度洋方面〜ニコバル諸島・・・・・カモルタ島 リオ諸島・・・・・・・・レンバン島 |
独立混成第72旅団 独立歩兵第542大隊 |
森12213 | 昭.19.12.17. | ビルマ方面 エナンジョン〜モールメン |
独立混成第72旅団 独立歩兵第543大隊 |
森12214 | ||
独立混成第72旅団 砲兵隊 |
森12215 | ||
独立混成第72旅団 通信隊 |
森12217 | ||
野戦補充隊 水上勤務第42中隊 |
満洲第4012 | 昭.16.8. | 満ソ国境〜虎頭、牡丹江、鏡泊湖、シベリヤ抑留 |
第53兵站地区隊 | 森6020 | 昭.18.7.18. | ビルマ方面 |
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和歌山県忠霊塔 (平成19年4月13日) |
和歌山県忠霊塔のあらまし
昭和半世紀の歴史を激動させたのは忌わしい戦争であった。
幾多の尊い人命が失われ、太平洋戦争を通じて県出身の戦死者は2万5千を超える。
戦後60余年、戦争体験は風化しつつあり、戦後はおわったといわれるが、悲惨な戦争は決して二度と繰り返してはならない。
太平洋戦争は日本の敗戦に終わり、日本の歴史を大きく塗りかえることになった。
長い戦争であっただけに、その犠牲者も多かった。
当時、和歌山市今福に陸軍墓地(現、忠霊塔敷地)があった。
明治42年、歩兵第61聯隊が和歌山市を衛戍地と定めて以来、在営中に死亡した将兵を葬っていたが、昭和12年、支那事変が始まり、戦線は次第に拡大するにともなって相当数の犠牲を予想した軍部(第4師団)では、これら犠牲者の遺骨を収容し顕彰するため、同墓地内に忠霊塔の建設を企図し、資金の調達などを県当局に対して依頼がなされた。
県は和歌山県仏教会に、その業務を委任することとなった。
爾来3年全仏教会会員が一丸となって、自らの拠金はもとより、寒暑をいとわず托鉢に精進した。
また、一般県民からの拠金も相次ぎ、ついに建設資金を超えるまでになった。
昭和15年9月、忠霊塔建設の工を起した。
まず、陸軍墓地に埋葬されている英霊を万性寺に改葬した。
さらに外苑広場の建設を計画し、県知事を委員長とする「忠霊塔外苑建設期成会」を結成した。
これら二つの工事が並行して施工されたが、その整地作業は中部第24部隊、県仏教会、附近の小中学生、その他各種団体の勤労奉仕によるものであった。
建設工事は順調に進み、翌16年1月、その工を完了し、西本願寺鷺の森別院、万性寺安置の英霊を塔内に納めたうえ献納式が行なわれた。
式は忠霊塔及び拡張敷地を県仏教会より陸軍大臣に献納する形をとり、ここに忠霊塔の完成をみた。
一方、外苑広場建設工事も由良浅次郎氏をはじめ県下有志の浄財により、敷地の買収、整地、樹木の植栽などの諸施設も整備されて、同年5月、竣工式が盛大に挙行された。
その後、和歌山市当局は国道42号線から忠霊塔外苑入口まで延長250mの参道を開設、名実ともに全国に誇りうる忠霊塔の出現をみることとなった。
忠霊塔の完成後は、塔及びその敷地は陸軍省の所管、外苑敷地は県の所管とし、維持管理については忠霊塔奉仕委員会が、招魂祭と日常の祭事は県仏教会がそれぞれ担当することとした。
昭和20年8月、戦争終結により情勢は一変し、委員会は解散して事実上の建設者であり、経営者である県仏教会が維持管理にあたることになった。
同22年4月、県有であった外苑敷地も県仏教会へ移管された。
また、軍国主義復活の恐れありとの批判もあったから、平和塔と改称することにより撤去という最悪の事態は免れた。
同24年、外苑敷地の一部を大蔵省に譲渡し、それによって得た資金を財団資金として財団法人和歌山県平和塔護持会を設立。
塔及び附属施設の維持管理と弔祭を行なうこととした。
同54年10月、戦争遺品、資料などを保存展示するための資料館や祭典実施、遺族の集会などの用に供するため平和会館建設奉賛会を結成して、広く浄財を募り、56年6月、平和会館が完成、一階を平和祈念資料館として一般公開し、二階には会議室大小3室を設け、一般の利用に供している。
忠霊塔内に37,500余の英霊を合祀
1月1日 年始慰霊祭法要。
5月5日 県仏教会員の奉仕による追悼法要。
8月17日 みたま祭。
10月5日 秋季追悼法要。
敷地総面積 5,763u(1,746坪)
(和歌山県忠霊塔護持会のチラシより)
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弥陀三尊像(ビルマ慰霊碑) (平成19年4月13日) |
碑文
茲に第二次世界大戦ビルマ戦線で散華された戦歿者並びに同じ運命を辿られし連合軍戦歿者のために生き長らえたる我等発願して今日の平和の礎となられし諸士を偲び感謝し弥陀三尊を建立す
願はくはかかる悲惨なる戦争の無きことを祈願しつつ大慈大悲の大願力に救はれ永遠の幸を得んことを
ビルマ派遣
歩兵第61連隊
貫徹兵団
日赤第490救護班
其他関係諸部隊
昭和55年6月吉日建立(1980)
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合葬碑 昭和16年11月30日建之 (平成19年4月13日) |
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母子像 (平成19年4月13日) |
母子像(幼児を抱いた母親の像)
戦後幼児を抱いた戦争未亡人が生きる為に筆舌に尽くしがたい、苦労をされ懸命にいきたあかしとして、此の母子像が建立された。
建立のことば 昭和45年5月16日
全結成20周年を迎えるにあたり、幼児を抱え強く生きぬいた、母の姿を刻み今もなお社会の一隅に苦斗する、父なき家の母と子に無言の励ましを、おくると共に永遠不滅の母の愛を讃え母なればこその感謝の心をあつめて、この像をつくる。
社団法人 和歌山県連合未亡人会
母子像賛歌 保田 勢以
母子像彫刻 柳野 節雄
母子像移築 平成10年12月
(平和会館のチラシより)
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紀州藩家老三浦家下屋敷 茶室「夜雨荘やうそう」庭園の石 寄贈者 和歌山市小松原通り5丁目 辰見 健一 氏 (平成19年4月13日) |
MK25型米海軍機雷 (平成19年4月13日) |
MK25型米海軍使用の機雷
この機雷は終戦前我が国沿岸航路を封鎖するため米海軍が空中投下した約6000個の中の1個で、昭和40年に大阪湾で引揚げたものである。
特に紀伊水道、大阪湾、関門海峡にはMK25が大量に投下され船舶に多くの被害を受けた。
@使用法
沈底機雷(海底に沈んでいる)
A感応手段
磁気音響機雷
機雷の上を鉄鋼船が通過すると磁気を感知し爆発、又は船舶のエンヂン、スクリューの音響を感知して爆発する。
B重量約1屯・爆薬TNH約500s
(説明板より)
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