軽巡 矢矧 やはぎ


軍艦矢矧 戦没者慰霊碑


軍艦矢矧 戦歿者慰霊碑
(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地

海上幕僚長 板谷隆一 書

昭和44年4月7日建之


(平成20年11月23日)

いしぶみ

みたまら いま ここにねむる
おんみら 軍艦矢矧 のつわものとして
マリアナ海戦 フィリピン沖海戦に散じ
はたまた国家の存亡をかけし沖縄特攻作戦に
戦艦大和 らとともに徳之島西方に没す
この日 昭和20年4月7日なりき
戦敗れ 苦難の道をあるくこと二十有五年
いま 世は太平
このたび ようやく機熟して
戦没者の霊をなぐさめ かつは
再び戦争の悲劇をくりかえさざることをね希い
母なる港をのぞむ東山の聖地に
慰霊の碑をつくりたり
みたまらよ
とわに 安らかに眠れかし
  ゆきしふね
    かえらぬおかに
         はなふぶき

昭和44年4月7日
矢矧会有志一同

(碑文より)

軍艦 矢矧

昭和18年12月末佐世保海軍工廠において最新鋭巡洋艦として完工しマリアナ海戦フィリピン沖海戦など数次の海戦に参加す
昭和20年4月6日片道燃料をつんで徳山沖を抜錨し翌4月7日鹿児島西方海上において米空母艦隊の艦上機群と遭遇しその連続攻撃をうけ勇戦奮闘もむなしく徳之島西方海上において大和その他とともに爆沈す

併記
海上自衛隊の御援助により
沖縄および徳之島より石各々1個を運び
つわもののみたまやすらかれと念じつつ安置す

(碑文より)

 レリーフ

軍艦矢矧戦没者慰霊碑

阿賀野型軽巡4隻中の3番艦として、昭和18年12月29日佐世保工廠で竣工。
佐世保本籍指定は進水日の昭和17年9月25日。

就役後の矢矧は昭和19年早々佐世保でレーダーを装備し、2月6日内地を発ってシンガポールに向かった。
以後、マリアナ沖海戦、比島沖海戦で奮闘。
11月15日付で第2艦隊第2水雷戦隊旗艦となる。
昭和20年3月26日天号作戦が下命。
第1遊撃部隊(大和、2水戦、31戦隊)は佐世保回航のため3月28日呉を出港。
4月1日米軍が沖縄に上陸。
第1遊撃部隊をもって海上特攻隊を編成。
海上特攻隊の編成は以下の通り
第2艦隊  大和
第2水雷戦隊  矢矧
  第41駆逐隊 冬月 涼月
  第17駆逐隊 磯風 浜風 雪風
  第21駆逐隊 朝霜 霞 初霜
以上10隻
このうち佐世保在籍艦は矢矧、涼月、初霜の3艦である。

第2艦隊は4月6日午後3時20分、徳山沖を出撃。
陣形は大和を中心に半径1500mの円周上に矢矧及び駆逐艦8隻を等間隔に配置したもの。
翌7日12時21分、機関故障のため後落した朝霜が敵機との交戦を報じたまま消息を絶った。
12時28分以降、大和からは続々と押し寄せてくる敵機群が認められた。
敵機第1波約200機が大和と矢矧を目標に攻撃。
大和は奮戦の甲斐なく午後2時23分誘爆沈没。
矢矧は第1波空襲中の午後0時46分、魚雷1本が左舷機械室に命中、また爆弾も命中し左に傾斜し航行不能となる。
そのため矢矧は大和から20kmも離れ2水戦旗艦としての任務が果たせなくなった。
旗艦を変更すべく磯風が矢矧に横付けを試みるが空襲が激しく断念。
午後1時45分、雷撃機約50機が矢矧に来襲。
魚雷7本、爆弾12発が命中。
その空襲中に艦の傾斜復原のため左舷の錨鎖を捨て、艦載水上機を投棄した。
また被害局限のため12本の魚雷も投棄。
艦体は右に傾斜して浸水沈下を始める。
1番火薬庫は爆発寸前で注水し轟沈を免れた。
まもなく右舷に30度傾斜し、後部から急激に沈むと、二つに折れるようにして沈没した。
時に昭和20年4月7日午後2時5分。
碑は昭和44年4月13日建立された。
艦と運命をともにした内野副長以下446名及び比島沖海戦などの戦死者を合わせて486柱の英霊を祀る。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


【阿賀野型】

軽巡夕張の建造以来、軽巡は20年間近く新造されたものがなかったが、それまで水雷戦隊旗艦として就役中だった5500トン軽巡の老朽化に伴い、これにかわる新造艦の必要が起こった。
昭和14年の軍備補充計画(マル四計画)で建造が決まった新巡洋艦6隻のうちの4隻が水雷戦隊旗艦に予定された本型である。
水雷戦隊旗艦の巡洋艦乙には、駆逐艦と行動可能な速力、偵察機の搭載、旗艦としての通信設備と司令部施設が要求された。
偵察能力の向上には力が入れられ、従来は1機しか搭載できなかった水偵を2機運用可能とした。
主砲には15.2センチ連装砲3基を搭載し、重量軽減のために砲塔形式ではない人力装填を採用したため、発射速度の維持に難点があった。
高角砲は重巡と同じく連装4基8門と強化されているように見えるが、長砲身化したものの口径が7.6センチのため、その能力は限られたものであった。
駆逐隊の先頭に立って敵陣に突入する必要上から、魚雷兵装も重視された。
魚雷は巡洋艦として初めての形式である中心線上に4連装2基を搭載し、次発装填装置付きで駆逐艦と同じ戦力であった。

【要目】(阿賀野・昭和17年)
公試排水量:7710トン
機関出力:10万馬力
速力:35.0ノット
航続力:18ノットで6000海里
乗員数:726名
兵装:15.2cm連装砲×3
    7.6cm連装高角砲×2
    25mm連装機銃×2
    61cm4連装魚雷発射管×2
飛行機:射出機×1、偵察機×2

【同型艦】
阿賀野(昭和17年10月31日竣工〜昭和19年2月16日戦没)
能代(昭和18年6月30日竣工〜昭和19年10月26日戦没)
矢矧(昭和18年12月29日竣工〜昭和20年4月7日戦没)
酒匂(昭和19年11月30日竣工〜終戦時残存・米軍に引き渡し原爆実験に使用)

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)
(参考:『歴史群像2006年2月号別冊付録 帝国海軍艦艇ガイド』)


矢矧

レイテ湾海戦には、栗田部隊に属して、サマール沖海戦に参加。
大和隊の1艦(水雷戦隊旗艦)として、沖縄に向かう途中、米空母機動部隊13隻の攻撃(魚雷7本、爆弾20発命中)を受け、昭和20年4月7日、東シナ海坊ノ岬の西方約18kmにおいて、乗員446名と共に艦尾より沈んでいった。

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)


大日本帝国海軍 軍艦超精密模型展
宮城県護国神社(平成21年11月9日訪問)
阿賀野型軽巡洋艦 矢矧

基準排水量 6,652トン
乗員 730名
全長 174.5m
全幅 15.2m
出力 100,000馬力
最大速力 35.0ノット
主要兵装 15.2cm連装砲 3基6門
       65口径7.6cm連装高角砲 2基4門
       61cm4連装魚雷発射管 2基8門
       他 機銃等
搭載航空機 水上機2機

二等巡洋艦 『矢矧』 1/100 (最終時の状態)

排水量 6,652トン
水線長 174.6m
全巾 15.2m
平均吃水 5.6m
出力 100,000Hp
速力 35.0ノット
航続力 18ノットで6,000浬
兵装 15cm(連)3基
    8cm高角砲(連) 2基
    25mm(連) 8基 単装21基
    61cm4連発射管 2基
飛行機 2機
乗員 726名(新造時)
昭和18年12月28日 佐世保海軍工廠

日本海軍が最後に完成させた軽巡である。
長らく水雷戦隊の旗艦の任にあった5,500トン型の後継として建造された艦で性能、デザイン共にはるかに洗練されており画期的な艦だった。
「矢矧」は第2水雷戦隊の旗艦として日本海軍最後の出撃となった沖縄特攻作戦に駆逐艦8隻を率いて「大和」を護衛・・・
輪形陣の先頭となって出撃、勇戦奮闘したが空爆雷撃の集中攻撃を受けて戦没した。

(説明プレートより)




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