吉川経家像 平成16年11月18日

吉川経家 きっかわ・つねいえ

天文16年(1547年)〜天正9年10月25日(1581年11月21日)

鳥取県鳥取市・武道館脇でお会いしました。


石見国邇摩にま郡福光城主。
永禄4年(1561年)毛利氏麾下として福屋隆兼と戦う。
天正2年(1574年)家督相続。
天正9年(1581年)3月、豊臣秀吉と戦う山名氏旧臣の因幡国鳥取城に城将として派遣され、兵糧攻めにあい、城内の人々の命と引き換えに開城、秀吉の助命提案を断って自刃した。


吉川経家公像


吉川経家公像


平成5年10月25日 建立
吉川経家公像建立実行委員会
銅像制作 奥谷俊治


(平成16年11月18日)

吉川経家の鳥取籠城と自刃のこと

天正9年、天下制覇目指す織田信長の先鋒として、羽柴秀吉の山陰侵攻が必至となりました。
この情勢に対応して、鳥取城を守る軍勢は、吉川の一門につながる有力な武将の派遣を毛利方に懇請しました。
山陰方面の総大将・吉川元春はこれにこたえて、石見国福光城主・吉川経安の嫡男経家を鳥取城の城将に任命し、経家はこの年の3月、部下4百余人を率いて鳥取城に入城しました。
羽柴秀吉はこの年の7月、2万の大軍を率いて鳥取城に押し寄せ、帝釋山(太閤ヶ平)に本陣を置き、日本海から鳥取平野、久松山の東側にかけ、約20キロメートルに及ぶ大包囲陣を敷いて、徹底した兵糧攻めをしました。
鳥取城に籠った2千の兵と民は、毛利方からの救援と食糧の補給を期待し、吉川元春も数回にわたり食糧の送り込みを行いましたが、秀吉方の厳重な遮断により一粒の米も搬入できず、8月以降、次第に飢えてきました。
そして、9月、10月になると、すべての食糧を食いつくし、遂には人肉を食するという地獄さながらの状態になりました。
世に言う「鳥取城の渇殺」であります。
経家は遂に意を決して、秀吉の開城の求めに応じました。
この時秀吉は、「経家公は、連れて来た兵と共に芸州に帰られたい」とすすめましたが、経家は、「全ての責は城将たる自分にある」として、兵と民の生命を救って10月25日未明、城中広間において、見事な自刃をいたしました。
時に年35歳。
その潔い最期は、武人の鑑として歴史に高く評価されています。
経家が死に臨み、4人の子に遺した次の手紙は、その清々しい心事を物語るものとして、いつまでも人の心を打つものがあります。
「とつとりのこと よるひる二ひやく日 こらえ候 ひようろうつきはて候まま 我ら一人御ようにたち おのおのをたすけ申し 一門の名をあげ候 そのしあわせものがたり おきゝあるべく候  かしこ
天正9年10月25日 つね家
あちやこ かめしゆ かめ五 とく五
まいる 申し給へ」

平成5年10月

鳥取市
吉川経家公銅像建立委員会

(説明板より)







旧岩国藩家老 吉川氏屋敷跡
 
(山口県岩国市横山2丁目)




(平成24年4月17日)

旧岩国藩家老 吉川氏屋敷跡

駿河するが(静岡)を拠点として活動していた吉川きっかわ氏は、正和2年(1313)、吉川経高つねたかの代に弟たちとともに安芸あき(広島)に拠点を移した。
これが安芸吉川氏であり、後の初代岩国藩主吉川広家ひろいえはその直系にあたる。
それに対し、吉川経高とともに安芸に移った弟の一人、吉川経茂つねしげは、後に石見いわみ(島根)に領土を得て移り住んだため、石見吉川氏と呼ばれている。

天正9年(1581)、織田信長の命により中国地方に進出した羽柴秀吉は、鳥取城へ軍を進めた。
このとき、鳥取城主であった山名豊国やまなとよくには、羽柴秀吉に降伏しようとしたが、降伏を望まない家臣の中村春続はるつぐ・森下道誉どうよが、山名豊国を城外へ追い出し、安芸の吉川元春もとはるに城将の派遣を願った。
それをうけた吉川元春は、石見吉川氏10代目にあたる吉川経家を鳥取城へ派遣することとした。
部下とともに入城し、決死の覚悟で守る吉川経家に対し、羽柴秀吉は、2万の大軍を率い、三里四方にわたる大規模な包囲網をしき、また、織田軍による外部からの輸送の遮断によって、鳥取城を兵糧攻めすることとした。
悪条件の中、吉川経家は抵抗を続けよく守ったが、時とともに鳥取城内には餓死者も増え、これ以上の抵抗は死者を増やすだけであると判断し、責任者以外の城兵の助命を条件に開城条約を結ぶことを決意した。
羽柴秀吉側の提示した条件は、主君山名豊国を追い出して今回の戦いの原因を作った中村春続・森下道誉ほか数名の切腹を求める一方、吉川経家をはじめ、安芸から派遣された城兵の命は助けるというものであった。
これに対し吉川経家は、主君山名豊国に対しては不忠であったが、毛利氏や吉川氏に対し功績のあった中村春続・森下道誉の2名の助命と、派遣されたとはいえ、城将となった責任として吉川経家自身の切腹を願い出た。
双方の意見が分かれ、羽柴秀吉としても、吉川経家のような義にあつい人物を殺すにしのびず説得を続けたが、合意には至らず、結局、吉川経家の切腹を認め、吉川経家も中村春続らの切腹を受け入れることとした。
天正9年10月25日、経家は自刃し、35歳の若さでこの世を去った。
そして、鳥取城は開城し、条約を守った羽柴秀吉によって多くの城兵はその命を救われることとなった。

吉川経家の子吉川経実つねざねは、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、吉川広家に従って岩国に入り、その後は代々岩国藩の家老を務めた。
この地は家老として仕えた石見吉川氏の屋敷地であった場所であり、江戸中期頃建築された長屋が遺構として残っていたが、老朽化により平成23年に解体された。

平成23年3月
岩国市教育委員会

(説明板より)






吉川経家弔魂碑 
(山口県岩国市横山2−4−40)

子爵 吉川元光 題



(平成24年4月17日)

吉川経家弔魂碑

天下統一を目指す織田信長は、天正8年(1580)6月、羽柴秀吉をつかわして鳥取城攻めを開始した。
鳥取城主山名豊国は、城内の多数の意見を無視して秀吉に降伏し、城外に脱出した。
豊国の家臣達は吉川元春に城将の派遣を要請し、元春は石見国温泉津福光城主吉川経家に命じて城督とした。
天正9年3月、経家が入城し城内を調査したところ、貯蔵された食料がわずか3ヵ月分位しかなく、食料の補給を図ったが、城内に搬入しようとする輸送船は、すべて秀吉軍に捕獲された。
時日が経過するに従って餓死する者が続出し、その惨状は言語に絶した。
開城の条件として、城兵全員の救助を誓約し10月25日「天下を争う織田、毛利両家の二つの御弓矢の場で切腹する自分を名誉に思う」という遺書をしたため、城内広間において35才の命を断った。
その子孫は岩国藩に仕え、藩政に貢献した。
その英魂を弔うため、昭和14年弔魂碑が建立され、礎石に鳥取城の石12個が使用されている。
なお、この場所は、江戸時代にその吉川氏の屋敷のあった場所である。

(説明板より)




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