旧宇和島警察署

(現:宇和島市立歴史資料館)

愛媛県宇和島市住吉町2−4−36


旧宇和島警察署 平成19年11月7日

国・登録有形文化財
市立歴史資料館(旧宇和島警察署)

所在 住吉町
規模及び構造 延床面積423平方米 木造2階建 日本瓦葺

この建物は、明治17年(1884年)宇和島広小路の角屋敷に宇和島警察署として建築された。
当時宇和島の生んだ薄命の漢詩人中野逍遙をして「丹楹白壁日華に輝く、市人訝りてという、何の治る所と」とうたった堂々たる洋館は県下は勿論、四国にも例がなく、県議会で金の使い過ぎではないかと、理事者攻撃の的にされたという。
明治17年(1884年)といえば、日本近代建築史上、全く異質の文化と文明に接触、邂逅かいこうする時期で、明治20年代後半から、やっと全国的に日本の建築家の活躍する時代となる。
その明治20年代以前に洋風建築の先駆としてこの建物が宇和島に建てられた。
従って工事に携わった工匠達の苦労が偲ばれる。
全く新しい建築技法への挑戦、それに伴う用材の調達。
当時は未だ動力による製材技術は無論ない。
杜師そましと呼ばれる人達が丹念に大きなハツリで松丸太を一面一面はつって仕上げ、その杣角そまかくで部材が組み上げられていった。
工匠達の一人一人の洋風建築への憧れがこの建物をみごとに完成させた。
時は移り、昭和27年、西海町が町制発足の記念事業として、宇和島警察署の改築の際にこの建物を買い取り西海町役場として移築した。
その後この建物も明治、大正、昭和と経て老朽化もすすみ取毀こわしの話が出るようになると、俄にわかに市内は勿論、県外からも保存の声が起こった。
宇和島といえば幕末から維新にかけて、ひときわ開明の輝きを放ったところ、さしずめこの建物は文明開化の宇和島を代表するモニュメントの一つといわれ、保存運動が展開された。
幸い文化行政の一環として復元工事が始まり平成4年に完成をみたのである。
当時の擬洋風と呼ばれる建物の小屋組こやぐみ(軒から上の屋根部分の構造部)は日本建築古来の技法である丸太の原木を巧みに利用して外観のみ洋風に擬せて建てられているものが多い。
その中でこの建物は直線的な角材でトラス(合掌がっしょう)を組み、水平面にも水平トラスを配し、寄せ棟の平ひら合掌、隅すみ合掌、妻つま合掌の取合とりあいも蕪束かぶらつかで修めている。
このように、当時としては画期的な工法を採用した。
そのため仕口しぐち面に於いても大変な苦労の跡をうかがうことが出来る。
外壁は木摺下地きずりしたぢ、漆喰しっくい塗り仕上げで窓は左右の枠の中に分銅を設けた「バランスウェイト」の上げ下げ窓を採用しており当時としては珍しい建物である。
我が国に現存する木造建築として数少ない貴重な存在といえる。

(引用:宇和島文化協会発行『宇和島の自然と文化』)

旧日本海軍魚雷酸素式機関部



旧日本海軍魚雷酸素式機関部

宇和島海軍航空隊
甲種飛行予科練習生実習用教材



(平成19年11月7日)
最後の小型焼玉エンジン




最後の小型焼玉エンジン


寄贈 宇和島市 河野工作所



(平成19年11月7日)

樺崎砲台跡
記念碑




記念碑






(平成19年11月7日)

市指定 史跡
樺崎砲台跡

江戸末期には、当時、黒船と呼ばれた外国軍艦が日本近海にしばしば出没するようになり、幕府は沿海諸藩にその防備を命じた。
宇和島藩では、嘉永3年(1850)高野長英の設計による久良ひさよし砲台(南宇和郡)を築造したが、のち、宇和島湾にも砲台を設けようとして、宇都宮綱教うつのみやつなのり、松田常愛まつだつねちかの二人を奉行として、安政2年(1855)3月、樺崎砲台築造に着手、同年12月完成、5門の砲をすえた。
ここはその砲台の跡で、当時お台場だいばといった。
この砲台は、宇和島藩が西洋の築造法をとりいれて作ったものの一つとして意義がある。
ここにある碑石は、この砲台竣工の記念碑で、碑文は漢学者金子孝太郎の撰である。

昭和38年2月11日 指定
宇和島市教育委員会

(説明板より)

大砲(復元)




大砲(復元)






(平成19年11月7日)

樺崎砲台大砲復元について

この36ポンドカノン砲は、この地に5門設置されていたうち1門の模造砲でクラブ員のロマンに賛同下さる方々のご協力を得て復元させたものである。
宇和島築城四百年記念事業に協賛すると共に、宇和島ライオンズクラブ結成45周年記念事業として、この砲を設置する。

平成12年11月吉日
宇和島ライオンズクラブ

(説明板より)


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