ここが士官宿舎か?

(マバラカット)


平成16年5月7日(第2日目)

バンバンの大西瀧治郎中将が率いる第1航空艦隊司令部跡を出て、またマバラカットに戻ることになる。

今回の旅の目的の一つは、実は、戦車第2師団(撃兵団)の機動歩兵第2連隊の戦跡を訪ねることだったのですが・・・・
どの辺で戦っていたのか分からない。
バンバン丘陵は高山連隊長が率いる約2,800名の”高山支隊”が戦った場所のはずなんですが・・・・どの山を見てもみんな陣地跡に見えてしまう。
正確な部隊の展開場所がわからない。
・・・・というわけで写真を撮るのは諦めました。
事前の調査不足もあるが、略図だけを頼りじゃ無理もないか。
いずれにせよ、あっちの方角かなぁ〜という程度しか分からず、無念の涙をのんで移動することとなりました。

この”建武集団”が防戦したクラーク地区はさっぱり分からないのですよ。
バンバン、マバラカット、クラーク、ストッチェンバーグなどと色々な地名が戦史には出てきますが、どこからどこまでがクラークで、どこからどこまでがストッチェンバーグなのか、さっぱり分からない。
クラークフィールドの特別経済区の中にあった『クラーク博物館』はストッチェンバーグ病院の跡地に建っているのです。
ということは、ここはストッチェンバーグなのか?クラークなのか?
とにかくこの周辺一帯を”クラーク地区”と呼んでいたのでしょう。
陸軍部隊約3,000名、航空関係約12,000名、海軍の地上勤務部隊関係15,400名、その他マニラから北上してきた在留邦人を含め約35,000名が塚田理喜智少将が率いる”建武集団”の掌握下に置かれ戦った場所です。
この狭い地域に3万名もいたのですが、この中で地上戦のプロは機動歩兵第2連隊と滑空歩兵第2連隊の3,000名ぐらいしかなく、あとは地上戦では素人の航空部隊や後方勤務部隊ばかりでしたからさぞかし苦労をされたことでしょう。

マバラカットの住宅街の中を走り、1軒の家の前まで来ました。

事前に現地旅行社に日本海軍航空隊の士官宿舎がマバラカットに残っているはずだから調べておいてくれと頼んでおいたのです。
神風特別攻撃隊の士官達が過ごした宿舎がマバラカットの町のどこかに残っているはずなのです。
それで捜してくれと頼んだのですが・・・・

謎の洋館 この建物が教えてもらった建物なんですけどね。
なんとなくイメージと違うんですよね。
とても洒落た洋館なんですよ。
外装は塗装をし直したらしく綺麗なので仕方ないのですが・・・
なんか違うような気がするんだよねぇ〜

ドミンが近くの人たちに何か尋ねています。
多分、「この家は旧日本軍と関係がある建物なのか?」と聞いているのでしょう。
その人達は別な方角を指差して何か言っています。
ん?違う場所なのか?

「本当にこれは日本軍が使っていた建物なのか?」とドミンに疑問をぶつけてみました。
「ボスのステラさんがここだと言っていたんだけど・・・・証拠はない。」とのこと。

なんか納得できないなぁ〜
でも、とりあえず写真を撮っておきました。

 


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