(ブラウエン)
平成17年(2005年)5月7日 |
更に5分ほど走ると何軒かの建物が建っている集落に到着しました。
ブラウエンに向かって右側に慰霊碑がありました。
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進行方向(ブラウエン方向)の右側の茂みの中(車の脇)に慰霊碑があります。 |
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ブラウエン方向から見た景色。 左側の茂みの中に慰霊碑があります。 |
慰霊碑
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慰霊之碑 |
碑文 |
太平洋戦争において祖国の栄光と同胞の安泰を念じつつレイテ島に散華された大阪府出身2千有余柱の英霊をしのび平和への願いをこめて霊地ヴラウエンに慰霊碑を建立することは遺族の切なる願いであり、ここに37回忌を迎え遺族の心情に応えて「慰霊之碑」を建立し霊璽を納め斎祀奉る 英霊よ安らかに鎮まり給え その御遺徳を顕彰し 末永く語り伝えん この慰霊之碑が永遠に日比親善友好の絆とならんことを 昭和56年9月 (財)大阪府遺族連合会会長 東大阪市 加茂政次郎 建之 |
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高千穂空挺隊供養■ 以前に途中から折れたのか、折られたのか・・・・ 接着したのは良いが接着剤がベットリで文字が読めませんでした。 |
碑文 |
昭和19年12月6日降下■ 昭和60年秋空挺同志■ 世話人 林田 亀■ |
■は接着部分のため文字の判読不可
後日の情報によれば、これらの慰霊碑は平成17年12月に撤去処分される予定だというので、現在ではもう無くなっているかもしれません。
(平成18年1月8日追記)
高千穂空挺隊とは茨城県西筑波で編成された第2挺進団(1,000名)の挺進第3連隊(500名)のことです。
兵は台湾の高砂族の志願兵から成っていました。
第4航空軍の「天号作戦」は高千穂空挺隊を3波に分けて落下傘降下させ、ブラウエン飛行場を攻撃する計画。
第1波(香取隊)は指揮班25名、通信班7名、第1中隊100名、第2中隊97名、特別攻撃班1個小隊50名の合計279名。
昭和19年12月6日、第1波香取隊は39機の爆撃機と輸送機に分乗してルソン島のアンヘレス飛行場を出発。
降下前に18機が撃墜されましたが、指揮官・白井恒春少佐以下50名がブリ飛行場に、124名がサンパブロ飛行場に降下しました。
両飛行場で20機の米軍機を破壊しましたが、こちらの輸送機の損害が大きいので第2波、第3波の攻撃は中止されました。
ここから更に南下してすぐにブラウエンの町に入りました。
ところが、ここで道に迷ってしまったようです。
さすがの方向音痴の私でも町に入って左折して真っ直ぐ進めばブラウエン飛行場跡だろうと想像ができるというのに・・・・
何を考えているのか、町の中を右へ曲がったり左へ曲がったり・・・・
あのねぇ~そこじゃねぇだろ!そこを曲がったら駄目だろ!
と言いたい気持ちを押さえて・・・・・我慢、我慢。
しばらく、住宅街の中を走り回り、やっと広い道路に出ました。
そう、そう、この道路だ!
初めて来た場所ですが、私の勘によれば、この道が正しい!
まもなく真っ直ぐに一直線に伸びる道路となりました。
おお!間違いない!この直線。
飛行場跡に並行して走る道路に違いない。
「ねぇ、飛行場跡はどのあたり?」
「このあたり全部!」
「あのね、飛行場跡を見たいんだけど」
「だから・・・このあたり全部が飛行場跡!」とドミン。
周りはバナナの木(?)と椰子の木ばかりで何にも見えないぞ~
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道路脇の景色。 |
車は全くスピードを落とさず一直線に走り続けます。
待て!止めろ!車を止めろ!
「え?飛行場跡を見るの?」とドミン。
無理矢理車を止めさせて、私は飛行場探しのため、今来た道を走りながら戻りました。
道路脇には民家が数軒点在しています。
その一軒から子供たちが出てきて・・・・「日本人だぁ~!」と騒ぎ始めました。
ん?何で日本人だってわかっちゃったんだろう?
そのうち家の中から母親らしきオバチャンが出てきたので、飛行場跡の場所を英語で尋ねたら・・・
オバチャンが指さしながら現地語で説明し始めました。
俺は現地語はわからない~
「左へ曲がるのか?」
ウン、ウン、と頷きながらオバチャンは現地語でまた説明します。
ええい!面倒臭いな~
ついに私は日本語で・・・・
「なに?あの赤い傘をさしている人が立ってるところを左に曲がるのか?」
すると、オバチャンが頷きました。
おお!素晴らしい!会話が成立してしまいました!
よし!行くぞ!
車を呼び戻して椰子林の中に突入!
田んぼのあぜ道のような道をしばらく走ると、突き当たりに慰霊場がありました。
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ブラウエン飛行場の慰霊場 JAPANESE WORLD WAR Ⅱ MEMORIAL OF 26 DIV. (日本軍第26師団の記念碑) |
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第26師団戦没者慰霊碑 米第11空挺師団戦没者慰霊碑 工兵第26連隊戦没者慰霊碑 その他、卒塔婆多数 |
飛行場跡
ブラウエンには飛行場が3つありました。
ブラウエンから東海岸のドラグへ向かう道路脇にブラウエン南飛行場(米軍名:バユグ飛行場・サンパブロ飛行場)、バユグ飛行場の北にブラウエン北飛行場(米軍名:ブリ飛行場)。
私の想像では、ここはブラウエン南飛行場東端にあるサンパブロ飛行場跡ではなかろうか?
現在では椰子林と畑になっていました。
昭和19年11月26日、薫空挺隊(台湾の高砂族志願兵)が、これらの飛行場に胴体着陸して斬込みをしましたが、戦果は不明。(義号作戦)
続いて同時に行なわれるはずが、輸送機の都合でタイミングが遅れた高千穂空挺隊が12月6日に落下傘降下して攻撃しましたが戦果はわずか。(天号作戦)
この作戦に呼応して陸上部隊(主として第26師団)も攻撃を開始しますが、連繋が取れず苦戦。(和号作戦)
歩兵第9連隊、歩兵第20連隊を主力とする斬込隊はブラウエン北飛行場を奪還しましたが、後続がなく玉砕しました。
この後、ブラウエン飛行場奪還の作戦は中止となり、日本軍は北西の山地に移動しました。
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飛行場跡 |
ここは第26師団(泉兵団)独立歩兵第13連隊第3大隊855名が戦死した激戦地だそうです。
(平成17年7月HPを訪問してくださった重松様からの情報)
(平成18年1月8日追記)