7.再び戦跡巡り

(バクリ・大柿大隊の戦跡・パリットスロン・シンパンキリ河橋梁・ペランドック峠麓)


平成26年(2014年)6月10日・第4日目

午後12時半、食事を終えて、「ジョホールバル」に向けて出発する。

「マラッカ」は海岸に沿って南下していた近衛師団によって占領されたが、さほどの戦闘はなかったのか、これといった戦跡は見当たらなかった。
もしかしたら、マラッカ占領時の日本軍に関する資料の展示などが博物館にはあったのではなかろうか・・・という気もするが・・・・
博物館を見学できなかったのは、やっぱり残念・・・・(涙)

「マラッカ」を出発して約1時間後、「バクリ」地区に到着。
さっそく“イズミ教官”から戦史の説明を受ける。

昭和17年1月、近衛師団は、マラッカを経由してシンガポールに向って進撃することとなり、第5師団を超越して敵を追撃・・・・
この「バクリ」には、近衛歩兵第5連隊基幹の“岩畔追撃隊”と近衛歩兵第4連隊基幹の“国司追撃隊”が併進して進撃した。

日本軍は写真の向うからこちらに向って進撃した。

1月18日早朝、近衛歩兵第4連隊第2大隊(伊藤大隊)は「バクリ」西方から南側高地にわたって陣地を展開していた約1,000名の敵と衝突、これらに対して攻撃をかけたが戦況は進展しなかった。
夕方に近衛歩兵第5連隊第2大隊(児島大隊)が到着し、伊藤大隊の左に展開して(写真では道路の右側)戦闘に参加した。
さらに、“岩畔追撃隊”の岩畔連隊長は、第3大隊(大柿大隊)を敵の退路遮断のため「バクリ」の東方に迂回進出させた。
1月20日午前10時頃、大柿大隊は「バクリ」から「パリットスロン」へ向かう道路の両側の高地を占領し、完全に敵の退路を遮断した。
児島大隊、伊藤大隊などの正面攻撃部隊による夜通しの攻撃で、英軍は、19日から逐次陣地を放棄して後退し、「バクリ三叉路」付近に圧迫されたとのこと。
ちょうど我々がいるあたりが、その三叉路だろうか?
ここでの戦闘も熾烈を極めたようである。
わが軍では戦車第14連隊第2中隊(五反田中隊)の九五式軽戦車9両が、この戦闘に参加していたが、19日の夜半に独力で一気に突進しようとしたところ、障害物に阻まれた挙句、敵の対戦車砲の餌食となり、9両のうち8両が撃破されたという。
ここでの戦闘では、この地に展開していた印度歩兵第45旅団の旅団長、ダンカン准将が戦死している。
英軍は1月20日夜、北方の湿地密林地帯と東方の「パリットスロン」に向けて、二手に分かれて退却した。

「バクリ」から10分弱程度走った場所だったと思うが・・・・「大柿大隊」の戦跡に到着。
大柿大隊(近衛歩兵第5連隊第3大隊)が迂回して敵の退路を断った場所である。

退路を遮断された英軍は必死になって退路の奪還を図る。
7回にわたり逆襲をかける英軍に対し、大柿大隊は逐次戦線を縮小しながら半円形に陣地を占領する。
大柿大隊は圧倒的な敵の集中砲火に加え、空からの攻撃も受け死傷者が続出したが一歩も退かず、2日間にわたって退路を完全に遮断した。
しかし、陣頭指揮をしていた大柿大隊長は、1月20日、道路北側の陣地で壮烈な戦死を遂げた。
この戦闘での大柿大隊の損害は、戦死226名、負傷106名の合計332名で、大隊戦力の6割を失った。
6割も失いながら一歩も退かず・・・とは・・・・(大汗)
この大柿大隊の頑張りがなかったら、マレー作戦も、ここにきてかなり苦戦したことだろう。
よくぞ耐えてくれたものだ・・・・
道路から少し入った場所で、ささやかな慰霊祭を執り行い、全員で『海ゆかば』を斉唱・・・黙祷を捧げる。

大柿大隊は、この戦闘で、軍司令官から「感状」を授与されている。
で・・・・思い出した!
この間、オーストラリアへ行った時に、博物館に、この「感状」の看板(?)を見た記憶がある。
確か、キャンベラの「オーストラリア戦争記念館」だったと思うが・・・
江戸時代の高札のような形の木製の看板で、墨で書かれてあった。
「大柿部隊」とだけしか書かれていなかったので、どこの部隊のものだろう・・・程度にチラリと見ただけ・・・・
見学時間がなく、走り回って見ていたので、内容を読んでいない・・・当然、写真も撮っていない。(涙)
ここに来て、遂にわかった!(驚)
「大柿部隊」は、近衛歩兵第5連隊第3大隊のことだったのか・・・・
で・・・・あの「高札」(?)は、このあたりに掲示されていたものだったのかもしれないなぁ・・・
それを戦後、オーストラリア軍が手に入れて博物館のショーケースの中に展示したのかも・・・・
説明文を読む余裕がなかったのが残念である。(涙)
やっぱり、もう一度、オーストラリアに行くべきか?(大汗)
博物館は、やっぱり、じっくりと時間をかけて見学すべきだよなぁ~(汗)
あの展示品に関連した場所に、今、自分が立っているとは・・・・感無量である。

この道を向うに向かって真っ直ぐ進むと、「パリットスロン」である。
時刻は午後2時半・・・・

20分ぐらい走ると「パリットスロン」に到着・・・・
橋を渡ったところにバスを停車させ、外に出る。
近くにある建物の看板を見てみたら、ここは間違いなく「パリットスロン」のようである。

この建物の看板・・・・
「DEWAN ORANG RAMAI PARIT SULONG」と書いてある。
辞書で調べてみると・・・
DEWAN=家・建物
ORANG=人々
RAMAI=公共
PARIT SULONG=パリットスロン
ということであるから・・・この建物は「パリットスロン公民館」?(笑)

1月17日、海岸道を急進していた近衛歩兵第4連隊第3大隊(吉田大隊)は、バクリ付近で戦闘が盛んに行なわれているのを知り、急遽、独断でパリットスロンの東側に転進・・・・
1月20日、午後4時に、ここを流れる「シンパンキリ河」の橋梁を占領・確保した。

シンパンキリ河

この河が「シンパンキリ河」のようである。
橋のたもとの標識に『SIMPANG KIRI』と書いてあったから間違いないだろう。
で・・・その橋梁とは、この橋のことだろう。

 シンパンキリ河の橋梁

当時の橋が、こんなに立派なはずはなかろうから、この橋は当然、戦後に架け替えられたものだと思うが・・・(笑)
架かっていた場所は、同じこの場所ではなかろうか?

「バクリ」からいち早く退却をした英軍の機械化部隊は、1月21日に、この橋梁まで退いてきたが、間一髪、前日にこの橋を占領していた吉田大隊と遭遇・・・・
まさか日本軍が先回りしていたとは・・・(笑)
英軍は混乱に陥りながらも、死に物狂いでこの橋の突破を図ったが、ことごとく吉田大隊に撃退された。

後ろからは、「バクリ」から近衛歩兵第5連隊第2大隊(児島大隊)が迫り、「パリットスロン」西方約3キロ付近で英軍を捕捉・・・・
英軍は前には退路を断つ吉田大隊、後ろからは追撃してきた児島大隊という挟み撃ちに遭い、パリットスロンの西方地区に陣地を構えて必死の抵抗を開始した。
『窮鼠猫を噛む』・・・・という感じか?(笑)

 橋の上から西方を見る

この橋の向うの方(西方)で、激戦があったのだろう。
この戦闘には日本の第3飛行団も空から協力・・・
地上戦のほか、空爆も加わり、翌22日に、遂に英軍(印度歩兵第45旅団)は壊滅した。

この戦闘による戦果は・・・
捕虜が398名、野砲8門、速射砲(対戦車砲)9門、機関銃10挺、軽機関銃62丁、自動貨車(トラック)178台・・・・等々
対してわが損害は・・・・
戦闘参加人員、5千694名に対して、戦死348名、戦傷253名の合計601名だったそうである。

「パリットスロン」から東進すること約10分で「ペランドック峠」に差し掛かる・・・・

写真の左奥に見える山が「ぺラー山」である。

近衛歩兵第5連隊は、「バクリ」の戦闘に先だち、第1大隊(山本大隊)を、この峠を占領するため、迂回前進させていた。
1月20日未明に、この峠西方の山腹に陣地を構えていた約800名の英軍を攻撃・・・・
敵陣を奪取して、この一帯を制圧・占領し、敵の退路をさらに遮断した。
「バクリ」の戦闘では本道を真正面から攻撃しながら、一部の部隊が迂回して後方に回りこみ、次々と敵陣を奪取したので、結局、三重に退路を遮断したことになる。
お見事といえばお見事である。(笑)

この一帯・・・・近衛師団が戦った「戦跡」を見学し終え、一路「ジョホールバル」に向かう。

マレーシアを移動中、「ゴム園」の見学を計画していたが・・・・
これが、なかなか見つからないのである。(苦笑)
昔は、どこにでも「ゴム園」が見られたが、今では皆無に近い。
34年前、初めてマレーシアに来たときは、結構「ゴム園」があったんだけどなぁ~
ゴムの木から、その樹液を採って、それが「ゴム」となるわけだが、このゴムの樹液の採取が、なかなかたいへんなのだそうだ。
1日おきに、日が昇る前の早朝に採取しなくてはならないそうで・・・雨が降ったらダメ・・・・すべてがパーになる。(汗)
採取したゴムの樹液は保存が効かないので、すぐに加工に回さねばならない。
こちらの都合は聞いてくれないから(大笑)、この作業はなかなか大変である。
近年は、合成ゴムが幅を利かし、天然ゴムの需要は減少、手間をかけて採取する割には採算が取れなくなった。
結局、「ゴム園」は次々と「油椰子(オイルパーム)園」に姿を変えてしまったのである。
油椰子のほうが、簡単で、採算が取れるからだろう・・・やむを得ないとは思うが・・・・
マレーシアと言えばゴムのプランテーションというイメージは、もう無くなってしまった。
まぁ、少々寂しい気もするが・・・・
日本だって、田んぼが広がる田園風景が、休耕田と駐車場とアパートが目立つ風景に変っているのだから、他国のことを何だかんだとは言えないか・・・(大笑)

ようやく道路わきにゴムの木の林を見つけたので、バスを止め見学する。

 ゴムの木

「ゴム園」というよりは・・・・
絶滅を逃れたゴムの木が、ひっそりとジャングルの中に隠れて生き残っているという感じである。(苦笑)
34年前に見学に行った「ゴム園」のことは、かすかに記憶に残っている。
下草は綺麗に刈られていて・・・・
ゴムの木には螺旋状に傷が付けられていて、人間の腰の高さに空き缶が括りつけられていた。
その空き缶に、樹液がポタリポタリと落ちて溜まる・・・・
作業者は、螺旋状の傷に溜まっている樹液をへらのようなもので削り取るようなことをしていたと思う。
かなり大規模なプランテーションだったが・・・・
ようやく見つけた“ゴム園”(ただのゴムの木の林?)は、昔日の面影をわずかに残している程度・・・という感じである。(汗)

ここ・・・・結構、蚊が多くて、皆さん、蚊に刺されたようである。(大笑)
ちょっと大変な見学だった・・・・(汗)
時刻は午後4時半を過ぎた・・・・


   


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