防護巡洋艦 松島 まつしま


軍艦松島殉難者の碑



軍艦松島殉難者之碑
(長崎県佐世保市・佐世保東山海軍墓地

明治41年4月30日於馬公港



(平成20年11月23日)

軍艦松島殉難者之碑

一等海防艦
明治25年4月5日仏国で竣工

松島は日清戦争時の連合艦隊旗艦であった。
戦役後は「橋立」「厳島」と三景艦揃って遠洋練習航海に参加。
明治41年1月25日に横須賀を出港し、東南アジア、インド洋方面を廻っての帰途、台湾馬公要港に寄港し停泊。
4月30日午前4時8分頃、火薬庫が爆発し、瞬時に沈没。
殉難者は艦長・副長以下221名(乗員の約半数)。
士官で助かったのは砲術長のみ。
少尉候補生は57名中33名が殉職した。

(参考:社団法人 佐世保東山海軍墓地保存会発行 『佐世保東山海軍墓地 墓碑誌』 平成20年第3刷)


三景艦・主砲砲弾



三景艦 主砲々弾

(広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校)

旧・海軍兵学校



(平成18年3月20日)

三景艦 主砲々弾

これは日清戦争(明治27.28年(1894・1895年))黄海々戦において日本艦隊の主力として活躍した三景艦松島・橋立・厳島の主砲の砲弾である。
当時の清国海軍の主力艦定遠は、主砲としてドイツ製クルップ式20口径30.5cm連装砲2門を搭載し、舷側は356mm装甲板で防禦されていた。
一方当時の日本海軍最大の砲はクルップ式26cm砲で巡洋艦浪速・高千穂に2門づつを搭載しているに過ぎなかった。
日清間に風雲急を告げるとき、これに対抗するため松島・橋立・厳島を建造し、フランス海軍に依頼して製作した主砲38口径32cm単装砲1門づつを搭載した。

要目
全長 975mm
全重量 450kg
装薬量 220kg
さく薬量 10kg
最大射程 8000m
初速 650m/s

寄贈 愛知県豊田市 豊田海友会

(碑文より)


【松島型】

日清戦争前の明治20年代前半は、ヨーロッパの情勢も混とんとしており、日本はどの列強と結ぶべきか結論が出せずにいた。
そこで日本海軍としても建艦をイギリスだけに頼るわけにはいかず、フランスにも防護巡洋艦「畝傍うねび」を発注するなど、他国とのつながりを保とうとしたのである。
このような中で、清国海軍の「鎮遠」「定遠」に対抗できる艦艇の設計のため、フランス人のエミール・ベルタンが招聘された。
ベルタンは強固な装甲艦「鎮遠」などに対抗するため、4000トン余りの中型艦に32cmの巨砲1基を据え付け、前部主砲艦2隻、後部主砲艦2隻の合計4隻で戦隊を組み、「定遠」型1隻に対抗するものとした。
「厳島」と「松島」は「畝傍」を建造したフランスのシャンティエ社で建造。
「橋立」が横須賀造船部で建造された。
「厳島」と「橋立」が前部主砲艦。
「松島」は後部主砲艦である。
ベルタンは更にもう1隻の後部主砲艦を建造する計画だったが、佐雙左仲造船官の猛烈な反対に遭い、「松島」型4番艦の建造は見送られ、怒ったベルタンは契約期間満了を待たず帰仏してしまった。
また、従来の砲熕兵器はドイツのクルップ式が多用されていたが、英安式の速射砲の威力がわかると、日清開戦前に同砲が60門購入され、各艦に積まれて黄海海戦などで威力を示した。
その黄海海戦では、3艦の主砲は12発しか発射されず、副砲の12cm砲が大きな威力を示した。
日露戦争では第3艦隊第5戦隊を編成。
旅順封鎖作戦、黄海海戦、日本海海戦など主要な海戦に参加。

【要目】(松島・新造時)
常備排水量:4278トン
主機:レシプロ機関2基・2軸
主缶:石炭専用円缶×6 (5400馬力)
最大速力:16ノット
兵装:32cm38口径砲・単装×1
    12cm40口径砲・単装×12
    4.7cm砲・単装×6
    37mm機関砲・5連装×2
    36cm魚雷発射管・単装×4
装甲:甲板40mm

【同型艦】
厳島 明治24年9月3日 仏国で竣工
    明治31年3月21日 二等巡洋艦に類別変更
    大正元年8月28日 二等海防艦に類別変更
    大正8年4月1日 除籍
松島 明治25年4月5日 仏国で竣工
    明治31年3月21日 二等巡洋艦に類別変更
    明治41年4月30日 火薬庫の爆発により沈没
    明治41年7月31日 除籍

橋立 明治27年6月26日 横須賀造船部で竣工
    明治31年3月21日 二等巡洋艦に類別変更
    大正元年8月28日 二等海防艦に類別変更
    大正11年4月1日 除籍

(参考:『歴史群像2007年10月号別冊付録 帝国海軍艦艇総覧 明治・大正編』)




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