毛利元就 もうり・もとなり

明応6年3月14日(1497年4月16日)〜元亀2年6月14日(1571年7月6日)


安芸国郡山城(現・広島県吉田町)城主。
大永3年(1523年)家督となり、2年後から大内氏に属した。
天文19年(1550年)までに子の元春・隆景をそれぞれ安芸吉川きっかわ氏・備後小早川氏の継嗣とするなど、両国における勢力の拡大に努めた。
同年、不服従の目立つ家臣・井上元兼らを討ち、主君としての勢威を見せつけた。
天文20年(1551年)陶晴賢すえ・はるかたが大内氏の実権を握ると、まもなくこれと敵対。
天文24年(1555年)厳島の戦で大勝し、晴賢を敗死させる。
以後両国拡大を進め、大内義長を倒して周防・長門・石見を掌握。
永禄5年(1562年)からは尼子氏を攻め、4年後にこれを滅ぼして出雲も制圧した。
内政面では五人奉行制とよばれる官僚機構を整備。
元春・隆景に嫡子隆元・嫡孫輝元を補佐させた「毛利両川体制」は有名。


厳島合戦跡



厳島合戦跡
(広島県廿日市市宮島町・宮島)

フェリー乗り場前の広場



(平成18年3月20日)

説明板 説明板より

毛利元就ゆかりの地
厳島合戦跡

1551年(天文20年)中国・九州地方に権勢を誇っていた大内義隆は、その家臣陶晴賢の突然の謀反により滅亡した。
義隆と盟友関係にあった、毛利元就は1553年(天文22年)晴賢に対し挙兵したが 戦力的に陶軍の方がはるかに優勢だったため、奇襲の一計を案じた。
平地での戦いを不利と見た元就は、厳島に戦場を求め1555年(弘治元年)5月、島の宮尾に城を築き、陶の2万余の大軍をおびき寄せた。
同年9月30日、元就は3千5百兵とともに、折からの暴風雨と夜陰に乗じ、厳島神社の背後にある包ヶ浦に上陸、翌10月1日早朝、山を越え塔の岡にある陶軍の本陣を急襲した。
これに加え大鳥居側の海から元就の三男、小早川隆景の軍と宮尾城の兵が呼応し、厳島神社周辺で大激戦となり、不意をつかれた陶軍は壊滅した。
晴賢はわずかな兵とともに島の西部へ敗走するが、なすすべもなく山中で自刃した。
これが世に言う厳島合戦である。
この合戦に勝利した元就は、戦いで荒れた厳島神社の再建・修復に務め、中国地方統一の第一歩を踏み出したのである。

(説明板より)

厳島神社



厳島神社

(広島県廿日市市宮島町・宮島)





(平成18年3月20日)

世界遺産
厳島神社

平成8年(1996)12月登録

厳島神社は霊峰弥山を背景に、前面を海に望む入り江に建つ神社建築で弥山などを御神体として祀り、遥拝所をその麓に配置した日本における社殿建築発展の形式の一つです。
社殿構成は12世紀に平清盛の造営により、当時の寝殿造りの様式を取り入れて整備されましたが、その後焼失し、鎌倉時代に再建されました。
海に建つ木造建物として過酷な環境下にありながら、大内氏や毛利氏、豊臣氏などの庇護に支えられて、古い様式を今日に伝えています。
また、神社建築に加えて五重塔・多宝塔などの寺院建築も加えられ、神道と仏教との混交を示す文化遺産として、世界に類を見ない景観を造りだしています。
世界遺産の範囲は厳島神社境内地と弥山北斜面の431.2ヘクタールが登録され、それ以外の島内が緩衝保護区域として設定されています。

廿日市市
廿日市市教育委員会

(説明板より)


厳島神社



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