於大の方 おだいのかた

享禄元年(1528年)〜慶長7年8月28日(1602年10月13日)


徳川家康の生母。
三河国刈谷城主・水野忠政の娘。
法号は伝通院。
天文10年(1541年)岡崎城主・松平広忠と結婚。
3年後に、兄・水野信元と松平氏の対立により離別。
その後、尾張国阿古居城主・久松俊勝と再婚。
慶長7年(1602年)家康の勧めで上洛し、後陽成ごようぜい天皇に謁した後、病にかかり伏見城で没す。


於大の方の墓



於大の方の墓
(伝通院)





(平成18年3月11日)

於大おだいの墓(区指定史跡)

享禄元年―慶長7年(1528―1602)。
徳川家康の生母。
三河(愛知県)刈屋の城主・水野忠政の娘。
天文10年(1541)岡崎城主・松平広忠と結婚、翌年に家康を生む。
のちに離婚して阿古屋あこや城主・久松俊勝ひさまつとしかつに再婚するも人質として織田方や今川方を転々とするわが子家康を慰め、音信を断たなかったという。
法名、伝通院殿でん蓉誉ようよ光岳こうがく智香ちこう大禅だいぜん定尼じょうににちなみ、この寺の通り名を「伝通院」とした。

東京都文京区教育委員会
昭和62年3月

(説明板より)

伝通院



浄土宗 無量山伝通院むりょうざんでんつういん
(東京都文京区小石川3−14−6)





(平成18年3月11日)

傅通院のあゆみ

当山は今から約600年程前の応永22年(1415)浄土宗第七祖誉聖冏上人が開山したお寺。
当時は小石川極楽水の小さな草庵で無量山寿経寺という名で開創された。
それから二百年後慶長7年(1602)8月29日、家康公の生母お大の方が逝去され、この寿経寺を菩提寺と定めた。
お大の方の法名「傅通院殿」から「傅通院」と呼ばれるようになり、徳川家の庇護のもと、大伽藍が整えられた。
また、当山は関東十八檀林の一つとして学僧の修業勉学の場となり僧侶養成の重責を担っていた。
更に明治以後には淑徳女学校を設立。
広く社会に向けて女子教育にも力を注いでいる。
しかし、このような歴史の中にも、享保6年(1721)・同10年(1725)・明治43年(1910)の三度の大火にあい、更には第二次世界大戦では境内建物、宝物等全て灰燼に帰してしまった。
戦後は復興にはげみ、昭和63年(1988)新世紀の宗教活動に対応できる新本堂を建立。
平成9年(1997)繊月会館を建立。
平成11年(1999)には観音堂(休憩所)を建立し現在に至っている。

(説明板より)




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