愛媛県大洲市大洲903番地
平成19年11月8日
大洲城の歴史
大洲城の歴史は、鎌倉時代末期、伊予国守護宇都宮豊房とよふさの築いた地蔵ヶ岳城に始まると言われています。
しかし、現在私たちが目にすることのできる大洲城は、戦国時代を経て、近世初頭に大洲の地を治めた小早川隆景以降、戸田勝隆、藤堂高虎、脇坂安治、加藤貞泰ら各大名たちの造営になるものです。
大洲城のはじまり(1331〜) |
大洲はもと港を意味する「津」という文字を用い、大津と称していました。
大津における城の創建は、元治元年(1331)伊予国守護の宇都宮豊房に遡ります。
戦国末期の永禄11年(1568)までの237年の間宇都宮氏の居城でした。
永禄11年(1568)宇都宮は河野・毛利連合軍に敗れ、城は河野の武将大野直昌なおしげが預かるところとなりました。
小早川隆景・戸田勝隆の時代(1585〜) |
天正13年(1585)、羽柴秀吉は四国平定を果たします。
この戦いで、大野直昌の弟直之が秀吉方の小早川・吉川連合軍に敗れました。
戦後、小早川隆景は、伊予35万石を与えられ湯月城を居城とし、大津城を枝城としました。
隆景が九州に転封となった天正15年(1587)、戸田勝隆が宇和・喜多郡16万石を封ぜられ主城を大津とし、板島、松葉、黒瀬の各城には城代を置きました。
藤堂高虎の時代(1594〜) |
文禄3年(1594)に朝鮮で病死した勝隆の後を受け、文禄4年(1595)6月に藤堂高虎が宇和郡板島7万石の城主として封ぜられました。
併せて宇和、喜多、浮穴うけな各郡約6万6千石の蔵入り代官を命じられた高虎は、板島に城代を置き、大津城を居城としました。
慶長5年(1600)高虎は、今張国分いまばりこくぶ山城を追増され20万石となり、さらに、慶長7年(1602)には今治城の普請をを始め、大津には養子の高吉を城代に据えました。
慶長10年(1605)奉行田中林斎は、命を受けて城下に塩屋町を創設した商人に褒状を送っています。
このころから大津が城下町としての形態を整え始めたのです。
脇坂安治の時代(1609〜) |
慶長14年(1609)、淡路国洲本より高虎と同じ近江出身の脇坂安治が喜多・浮穴・風早かざはやの三郡において5万3500石を与えられ、大津城を居城としました。
これは、高虎の後、瀬戸内対岸の福島正則に対する備えであったと解する見方もあります。
脇坂は、給人所法度や庄屋体制を確立し、大津藩での近世的封権制度を形付けたと考えられています。
脇坂は、元和3年(1617)5万5000石で信濃飯田城主として移りました。
大洲城天守の基本設計を行った(故)宮上茂隆氏は、脇坂安治が当天守を州本から移築し、併せて地名を大津から大洲に変更したのではないかと推定しています。
加藤貞泰の時代(1617〜) |
同年、伯耆ほうき国米子から加藤貞泰が6万石で大津城に入城します。
以来、加藤氏の治世は版籍奉還まで続きました。
加藤氏入城の際には、すでに城郭の大枠はほぼ整備されていたものと考えられます。
(『復元 大洲城』冊子より)
大洲城の縄張り
大洲城は、肱川ひじかわのほとりの小高い丘(地蔵ヶ岳)を中心に造られています。
丘の北東斜面は急峻きゅうしゅんで直下を肱川が流れており、天然の要害を成しています。
丘の上を本丸とし、中腹から麓ふもとにかけて本丸を半ば囲うように城主の御殿のある二の丸があります。
二の丸の南と西側には重臣たちの屋敷が並んだ三の丸があります。
三の丸の東端には大手門を、南端には搦手からめて門を設け、これらが主な出入り口となっています。
それ以外は、二重の堀と山で縄張りを構成しています。
城下町は、城の東に造られました。
その南にも堀で囲われた武家屋敷があり、山の谷筋にいくつもの寺が並び、いざという時の防御拠点となるように考慮されています。
(『復元 大洲城』冊子より)
天守閣 (平成19年11月8日) |
天守閣 (平成19年11月8日) |
天守の特徴
大洲城天守の特徴のひとつは、その外観にあります。
天守1階の大きさは11.8m×13.8mで、規模からは3層の天守が一般的ですが、大洲城は例の少ない4層の天守です。
各層の屋根に配された千鳥破風ちどりはふや唐破風からはふの数も多く、5層の天守と似た外観です。
外部は土壁保護のため下見板張りとし、2階に連続してある火灯窓かとうまどとともに、天守の外観を特徴づけています。
高欄櫓やぐらと西多聞櫓も古絵図では下見板張りでしたが、復元では明治の古写真にならない白壁にしています。
内部の構造では、心柱しんばしらの存在があげられます。
また、天守1階の階段周りの吹き抜け空間なども、他の城郭の天守にはない特徴です。
(『復元 大洲城』冊子より)
復元天守の木組雛形 この雛形ひながたは、復元した天守の木組を10分の1に縮小して製作したものです。 天守の骨組みにあたる柱や梁はりの組合せが忠実に作られており、土壁や屋根に隠れて実物では見えない天守の構造がよく解ります。 寄贈:大洲ロータリークラブ 株式会社 三宿工房 製作協力:大洲建設業協同高等専門学校 (説明板より) |
大洲城築城ジオラマ このジオラマは大洲城創建当時の様子を想定したものです。 ジオラマの人形は、一般公募により選ばれた皆さんをモデルに製作しています。 ジオラマ作者:南條 亮 氏 (説明板より) |
吹き抜け 天守の内部構造を知る手がかりとなった「天守雛形ひながた」もこの部分には梁はりがないことから床板が張られてなかったことが明らかになりました。 床板がないため心柱しんばしらが良く見えます。 (説明板より) |
心柱
心柱しんばしらを有する天守は姫路城が有名ですが、他の天守ではあまり使われておらず、一般的な構造ではありません。
大洲城天守の場合、心柱の位置も建物の中心ではなく半間(約1m)北寄りにあり、他に例を見ない構造です。
心柱は3階床下で上下2本に分かれています。
(心柱は加藤家の菩提寺である如法寺から調達した。)
(説明板より)
天守閣から見た景色 |
屋根断面模型 (平成19年11月8日) |
屋根断面模型
この模型は天守の屋根と外壁の断面を実物大で組み立てたものです。
■屋根本瓦葺き
平瓦と丸瓦を主体に各種の役物瓦を用いて葺ふく日本の伝統的な工法で、城郭や社寺などに用いられる葺き方です。
瓦は岐阜県産の耐寒瓦で、1100度を超える高温で焼成されています。
吸水率が低く、凍害に強いという特徴があります。
軒丸のきまる瓦や軒平のきひら瓦の紋様は、発掘調査で出土した瓦を参考にしています。
屋根下地はサワラの薄板を竹釘で打ちつけたトントン葺きで、その上に瓦桟かわらざんを打ち、瓦を葺いています。
■土壁漆喰仕上げ
日本古来の壁の工法で、下地の竹小舞たけこまいの上に土壁を塗り、漆喰しっくいで仕上げます。
竹小舞とは、丸竹や割竹を縦横に藁わら縄で編んで組み立てたもので、土壁の骨組みになります。
土壁には、山土に水と藁すさを混ぜ半年以上寝かせて発酵させた荒土を使用します。
荒土の手打ち作業から始まり、目潰めつぶし、大直し、斑むら直し、中塗りと何度も土を塗り重ねて壁を厚くします。
漆喰は、銀杏草ぎんなんそうを煮込んだ上に麻すさ、石灰を混ぜて練り上げ、長期間寝かせたものを使用しています。
また、外部の漆喰には、なたね油を混ぜて水に強い仕上げにしています。
製作協力:井波社寺建築
株式会社 児島工務店
合資会社 坂井製瓦工場
有限会社 城ノ戸技建
(説明板より)
(平成19年11月8日)
大洲城の沿革
大洲城は、鎌倉時代末期、伊予国の守護宇都宮豊房うつのみやとよふさの築いた地蔵ヶ岳城じぞうがだけじょうが始まりといわれています。
激動の戦国時代を経て、小早川隆景こばやかわたかかげが伊予を平定した後、戸田勝隆とだかつたか、藤堂高虎とうどうたかとら、脇坂安治わきさかやすはるが相次いで城主となりますが、このころ4層4階の天守を中心とした本格的な近世城郭に整備されたのではないかと考えられています。
元和げんな3年(1617)米子から加藤貞泰かとうさだやすが入城しました。
以後、明治維新を迎えるまで加藤氏が6万石の城主としてこの地を治めました。
明治維新後、幕藩体制が崩壊し、明治21年(1888)には天守も取り壊されました。
しかし、4棟の櫓は解体をまぬがれ、いずれも国の重要文化財に指定されています。
城跡も県史跡に指定され今日も大切に保存されています。
4層4階の天守は、明治期の古写真や「天守雛形ひながた」と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料をもとに平成16年(2004)に木造で復元したものです。
(説明板より)
天守古写真 明治時代に撮影された古写真 (説明板より) |
元禄5年大洲城絵図 元禄5年(1692)に城内の建物を姿図として描いた絵図 (説明板より) |
台所櫓 (平成19年11月8日) |
台所櫓(国指定重要文化財)
大洲城の数多くの櫓の中でも最大級のこの櫓は、その名のとおり内部に台所を思わせる土間があり、煙出し用の格子こうし窓が開けられています。
現在の台所櫓は安政4年(1857)の大地震で大破し、安政6年(1859)に再建されたものです。
昭和45年(1970)に解体修理を行いました。
指定日:昭和32年6月18日
(『復元 大洲城』冊子より)
高欄櫓(左)と西多聞櫓(右) (平成19年11月8日) |
高欄櫓(国指定重要文化財)
高欄櫓は大洲城の中で唯一、2階に縁と高欄のある櫓で、ここからは城内が一望のもとに眺められます。
現在の高欄櫓は、台所櫓同様、安政あんせい4年(1857)の地震で大破し、万延まんえん元年(1860)に再建されたものです。
昭和45年(1970)に台所櫓とともに解体修理を行いました。
指定日:昭和32年6月18日
(『復元 大洲城』冊子より)
苧綿櫓 (大洲市民会館そば) (平成19年11月8日) |
国指定重要文化財建造物
大洲城苧綿櫓おわたやぐら
苧綿櫓は城山の東南山麓肱川左岸石垣上に建てられている。
昭和32年6月18日、二重二階の櫓と棟札二枚が重要文化財の指定を受けた。
大洲城の創建については諸説もあるが、1596年から1617年(慶長元〜元和3)にかけての造営と推定される。
綿櫓がその頃からあったかどうか明らかでないが、加藤家所蔵の1692年(元禄5)の古地図に記載されているのを見ても、元禄以前に存在していたことは明白である。
現存の苧綿櫓は棟札にあるとおり大破したので、1843年(天保3)に改築されており、実践的と言うよりもむしろ装飾性が強く、袴腰形はかまごしかた石落し、北側の出窓等に表われている。
石垣は安山岩を使用した割石乱石積、法勾配のりこうばい及び反り付きで、鯱しゃちは大洲藩お抱え瓦師原八兵衛の作である。
その後の改築は、大洲市が国庫の補助を得て、1958年(昭和33)8月1日着工、1959年(昭和34)7月31日に竣工、現在に至っている。
昭和32年6月18日指定
大洲市教育委員会
(説明板より)
※ 1843年(天保3)は誤記。正しくは1843年(天保14)です。
櫓下御門(二の丸大手門)跡 (大洲市市民会館) (平成19年11月8日) |
櫓下御門(二の丸大手門)跡
この門は二の丸の表門にあたる櫓門で、門前の石垣で囲まれた部分だけでなく掘に架かかる土橋の先まで塀で囲った桝形を持つ点が特徴です。
東向きの門の上には渡櫓がのり、門の南側と北側の石垣上にもそれぞれ櫓が建っていました。
現在でも石垣の一部が残っており、当時の面影を偲しのぶことができます。
(説明板より)
元禄5年大洲城絵図(説明板より) |
(説明板より)
下台所 (大洲市民会館脇) (平成19年11月8日) |
下台所 (大洲市民会館脇) (平成19年11月8日) |
下台所しもだいどころ
県指定有形文化財(建造物)
大洲城に残る当時の建造物は、重要文化財の4つの櫓やぐらとこの下台所のみです。
城内の食料庫としての機能を果たしていたと言われています。
建物の内部は一部2階建て、切妻造きりづまづくり、本瓦葺ほんがわらぶき、桁行けたゆき19.82m、梁間はりま7.90mの大きさで、外部は軒裏をふくめ漆喰塗込めの建物です。
所有:大洲市
指定年月日:昭和43年3月8日
(説明板より)
元禄5年大洲城絵図(説明板より) |
二の丸御殿跡 御殿は、城主が政治を執り行う表御殿と城主の住まいにあたる奥御殿に分かれていました。 下の曲輪は表御殿が、上の曲輪には奥御殿が建ち並んでいました。 (説明板より) (平成19年11月8日) |
大洲城天守閣の礎石 (二の丸御殿跡) (平成19年11月8日) |
大洲城天守閣の礎石
平成16年に完成した大洲城天守閣の復元に伴って、平成11年から天守閣跡の発掘調査が実施され、その調査により礎石と呼ばれる石が6個発見されました。
礎石とは建物の柱の下に置かれた石のことで、建物を支える土台になります。
発見された礎石の位置は天守閣復元図の柱の位置とほぼ一致し、大洲城天守閣の礎石であることが明らかになりました。
大洲城天守閣の礎石は全部で16個あったと想定されますが、発見された6個以外はすべて抜き取られていました。
礎石に使われた石はすべて緑泥片岩りょくでいへんがんと呼ばれる石材で、フジツボが付着したものがあることから、肱川河口の長浜周辺の海から運ばれてきたものと思われます。
こちらには復元された大洲城天守閣の平面図を原寸大で再現し、6個の礎石を移築して展示しています。
正方形に表現した部分が天守閣の柱の位置になり、礎石は発見された位置に置いています。
天守閣の大きさは、南北11.82m、東西13.79m
(説明板より)
礎石が発見された状況 | 天守復元図と礎石位置図 |
(説明板より) |
基礎石 (二の丸御殿跡) (平成19年11月8日) |
天守閣の下にあった大型建物
天守閣跡の発掘調査によって、天守閣が建てられる以前の古い地層から、天守台のやや南寄りの位置に巨大な石列が発見されました。
天守閣が建築された際に一部は壊されたようですが、天守台の中に埋め込まれた状態で比較的よく保存されていました。
この石列は建物を支えた基礎石と考えられています。
天守台のさらに外側にも石列は続くことから、現在の天守閣よりも一回り大きな建物の基礎石であろうと思われ、その大型の建物とは大きさからみて天守級の建物ではないかと考えられています。
現在の天守閣が建てられる前に、一時期古い天守級の建物が存在したと考えられるのです。
現在、石列は復原された天守閣の床下にそのままの状態で保存されていますが、復原工事の際にやむを得ず3箇所は取り除く必要があったため、取り除いた3個の石をこちらに移築し展示しています。
石列は、発見された部分で長さ東西15m、高さ1.5m。
(説明板より)
二の丸御殿跡 (平成19年11月8日) |
玉櫓跡 二の丸西隅にあるこの櫓は、付櫓をともなう二層の櫓です。 この付近は肱川越しの攻撃に備え、特に強固な防備が敷かれていました。 (説明板より) (平成19年11月8日) |
元禄5年大洲城絵図(説明板より) |
鉄炮櫓跡 二の丸北東隅にあるこの櫓は、付櫓をともなう二層の櫓です。 肱川越しの攻撃に備えた櫓で、櫓の名称から鉄炮などの武器を納めていたと思われます。 (平成19年11月8日) |
元禄5年大洲城絵図(説明板より) |
井戸 (井戸丸) (平成19年11月8日) |
元禄5年大洲城絵図(説明板より) |
井戸丸と石垣の修復
大洲城の本丸は、上段と下段に分かれ、井戸のある下段の曲輪を井戸丸と称しています。
井戸丸の西側には本丸下段の門とそれに付属する多聞櫓が建っていました。
さらに南側には独立した二層の櫓が一棟ありました。
この井戸は、本丸にある唯一の井戸で、直径約3.8mあり、国内でも最大級の本丸井戸として知られています。
天守台の石垣は、過去の地震で何度か修理した記録が残っています。
工事着手前の発掘調査では石垣の内側にさらにもう一列石垣が検出されており、現存する天守台の複雑な築造過程の一端が明らかになりました。
天守解体後に天守台上部の石が取り除かれており、今回の復元工事に合わせて石垣を部分的に修復し、もとの高さまで積み直しています。
(説明板より)
かま櫓跡 (井戸丸) 本丸南にあるこの櫓は、井戸丸にある唯一の二層の櫓です。 (平成19年11月8日) |
元禄5年大洲城絵図(説明板より) |
暗り門跡 (平成19年11月8日) |
元禄5年大洲城絵図(説明板より) |
暗くらがり門跡
この門は、天守に至る最後の城門で城内でも最も大きい櫓門です。
現在と異なり、かつては門の正面に石垣が立ちはだかり、左に折れて石段を登ると台所櫓の前に出るようになっていました。
通常の櫓門と異なり、折れ曲がり部分の上に渡櫓が覆いかぶさり、文字通り内部は「暗り」になっていました。
仮に門を破られても、突き進んできた敵兵の勢いをそぎ、暗りの中で混乱しているところを攻撃する仕掛けになっていたと思われます。
発掘調査では、正面の石垣の一部と石段およびその側溝が確認されました。
(説明板より)
北菱ひし御門(二の丸搦手からめて門)跡 (二の丸) この門は二の丸の裏門にあたる櫓門です。 ここからは帯曲輪を通じて表御門や城山の北側を巡る曲輪へ至ることが可能で、大洲城の防衛上重要な門のひとつです。 (平成19年11月8日) |
元禄5年大洲城絵図(説明板より) |
三の丸南隅櫓 (愛媛県立大洲高等学校脇) (平成19年11月8日) |
三の丸南隅櫓 (愛媛県立大洲高等学校脇) (平成19年11月8日) |
国指定重要文化財建造物
大洲城三の丸南隅櫓
大洲城は、地蔵嶽じぞうがだけ・亀ヶ岡城・大津おおつ城などと呼ばれ元弘年間以後は、宇都宮氏8代の拠点であったが、その後、戸田・池田・藤堂・脇坂・加藤の諸氏が城主となった。
現在に連なる近世城郭として建造整備されたのは、藤堂・脇坂両氏が城主であった慶長年間とみられている。
元和げんな3年(1617)加藤貞泰が領主として米子より入部し、以後、廃藩まで加藤氏13代の居城となった。
城は、丘陵の上部を本丸として、東に肱川、北に久米川、西と南は堀をめぐらしているが、その外側南部の守りの要として南隅櫓を明和3年(1766)に築造した。
櫓は、二重二階櫓、本瓦葺となっており、内部は一室である。
出窓はなく、外部両端に袴腰形はかまごしがた石落としがあり、内部は総壁である。
窓格子は化粧とし、軒のきたるきは忠実に塗籠ぬりごめにしている。
昭和32年6月18日指定
大洲市教育委員会
(説明板より)
三の丸南隅櫓
元弘元年 | 1331 | 宇都宮豊房が地蔵ヶ岳に城を築く |
天正13年 | 1585 | 羽柴秀吉の四国平定後、道後湯月城を本拠とする小早川隆景の枝城となる |
天正15年 | 1587 | 戸田勝隆16万石で大洲に入城 宇和郡、喜多郡が領地となる |
文禄 4年 | 1595 | 藤堂高虎7万石で板島に入城 大洲は蔵入り地となり高虎が代官になるが、すぐに大洲を居城とする |
慶長14年 | 1609 | 脇坂安治が洲本より大洲に入城 喜多、浮穴うけな、風早かざはや三郡において5万石余を領する |
元和 3年 | 1617 | 加藤貞泰が米子より大洲に入城 喜多郡、浮穴郡、風早郡、桑村郡などの内6万石を領する |
享保 7年 | 1722 | 三の丸南隅櫓焼失 |
明和 3年 | 1766 | 三の丸南隅櫓再建される |
天保14年 | 1843 | 苧綿おわた櫓再建される |
安政 4年 | 1857 | 地震により、台所櫓、高欄こうらん櫓が大破する |
安政 6年 | 1859 | 台所櫓再建される |
万延元年 | 1860 | 高欄櫓再建される |
明治21年 | 1888 | 海南新聞10月23日付けに、天守の取り壊し作業が始まる記事が掲載される |
昭和28年 | 1953 | 大洲城跡が県指定史跡に指定される |
昭和32年 | 1957 | 台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓及び三の丸南隅櫓が重要文化財に指定される |
昭和34年 | 1959 | 苧綿櫓の解体修理を完了、土台の石積みを2.6メートルかさ上げする |
昭和40年 | 1965 | 三の丸南隅櫓の解体修理が完了 |
昭和45年 | 1970 | 台所櫓、高欄櫓の解体修理が完了 |
平成14年 | 2002 | 天守復元工事起工 |
平成16年 | 2004 | 天守復元工事完成 |
(参考:『復元 大洲城』冊子より)
観覧時間 |
午前9:00〜午後5:00
休日=12月29日〜31日
観覧料 |
普通観覧料=大人 500円
(関連商品のご紹介)
SEO | [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送 | ||