ペリリュー島の戦跡巡り(1)

(ペリリュー島)


平成22年(2010年)9月12日
「北波止場」に入港・・・

正面に見えるのは定期船のフェリーらしい

午前11時、北波止場に到着。
戦時中は「ガラコル波止場」と呼んでいたらしい。
迎えのワゴン車に乗りホテルに向かう。

ホテル

右の建物が宿泊場所。
左端の建物は売店。

ホテルは平屋建ての質素なもの。
部屋は5部屋程度しかなく、10畳ほどある大きな部屋は団長が使用する。
昔、戦友会の慰霊団などは、この部屋にみんなで雑魚寝したのだという。
他の人はそれぞれ一部屋づつ。
私は副団長とツインの部屋に宿泊することにした。
部屋にはエアコンとベッドだけ・・・・
質素である。
ホテルというより・・・・合宿所?(笑)

取りあえず、チェックインをして一息つく。

昼食

時刻はまもなく12時・・・・さっそく、昼食をいただく。
食事の味付けはなかなかのものである。
美味しい!(笑)

食堂には写真資料が展示されていた。

【説明パネル】

太平洋戦争中のパラオ諸島ペリリュー島
(長サ南北9キロ 巾東西広い所で約3キロ)

祖国防衛の防波堤たらんと水戸2聯隊を基幹とする陸、海軍将兵1万余名は防備を固めた。
昭和19年9月米軍4万余の機動部隊艦船は島を包囲し、昼夜をとわず砲爆撃を10日間繰返し遂に9月15日早朝米海兵隊が上陸を開始した。
彼我の硝煙、空を覆い、激闘、死烈な砲撃と弾雨、地獄絵図の2ヶ月余この間米海兵隊は1ヶ師団死傷者続出により戦闘能力不能になる打撃をあたえ師団を交替させた孤立無援の守備隊は昭和19年11月24日夕暮れ守備隊長中川大佐の命令により「軍旗奉焼」組織的、戦闘が終る。
大本営は昭和19年12月31日ペリリュー島守備隊の全員戦死と認定された。
軍旗なきあとも依然、命ある限り戦う決意に燃える将兵、山口少尉以下34名(陸軍22名、海軍8名、軍属4名)は分散ゲリラ活動を行い、決して「玉砕攻撃をしてはならない」との命令を守り、終戦を信ずることなく持久に徹し遊撃戦を続行。
約2年6ヶ月湿地周辺の壕に潜伏していたが昭和20年8月15日、日本国の終戦を知り昭和22年4月21日、米軍に帰順、昭和22年5月15日横浜港に34名生還する。

ペリリュー島 生存者 三十四会ミトシカイ

(※ ちょっと文章におかしなところがありますが・・・)

「約2年6ヶ月西地区で潜伏していた壕から道路に整列」
「東地区に潜伏していた永井軍曹以下6名が帰順整列」
「米軍司令部前に山口少尉以下28名整列し帰順式」

当地はこの時期、雨季だそうで、いやはや暑いのなんのって・・・・
隣りの“コンビニ”(?)で、ミネラルウォーターを買い込みリュックに入れる。
“カゲヤマ団長”と“シラカタ副団長”はこの島の酋長さんのところへ挨拶に行きながら車を借りに行く。

作業服に着替えて、500mlのミネラルウォーターを4本入れたリュックを背負い、首から一眼デジカメをぶら下げて・・・・出発!(笑)
運転は団長・・・・車は酋長の日本製軽ワゴン車・・・

まず、最初に行ったのが墓地。
ここに水戸の歩兵第2連隊等の慰霊碑があるので、お線香をあげて簡単な慰霊祭を行なう。
茨城県人の私は、このために参加した様なもので・・・・
我が茨城県の将兵たちを慰霊してあげねば・・・

日本の慰霊碑
(墓地)
戦車隊の慰霊碑

戦車隊の英霊よ
安らかに

ペリリュー島戦車隊の会
建立 1986

【碑文】

部隊史

昭和19年
3月 5日 満州勃利に於て第14師団戦車隊として編成完結
3月28日 大連港より東山丸、能登丸に分乗し征途に就く
4月28日 コロール島に兵器、人員の揚陸完了、ガスパン村に移駐
5月16日 ペリリュー島に派遣、歩兵第2連隊長の指揮下に入る、中の台附近に陣地構築、出撃訓練に従事
9月15日 島南部より米軍上陸、反撃命令により出撃、飛行場附近に於て敵と遭遇、良く敢斗せるも戦車隊主力壊滅
9月21日 残存兵力は歩兵部隊に合流、水府山および中の台附近にて敵の前進を阻止、敢斗せるも全員玉砕
九五式戦車17両を基幹、通称、照4363部隊
天野国臣隊長以下128名戦死

砲兵隊慰霊碑

【碑文】

追悼

此処ペリリューの地に砲兵小林与平中佐以下660有余名並びに飯田大隊所属砲兵永遠に眠る
野砲20連隊明治38年創立
宇都宮の地より満洲818部隊としてチチハルに駐屯
昭和19年2月動員編成により第14師団各歩兵連隊砲兵隊として分割配属となる
同年4月24日パラオ島到着
歩兵2連隊砲兵大隊としてペリリュー島守備の任に就く
9月6日米軍来襲
15日上陸守備隊は連日激斗を展開
11月25日全員玉砕す
戦後48年我等老境に入るも憶は深く未だ亡き戦友の面影は消えず
この度ベラウ共和国ペリリュー島の皆様の理解と協力を得砲兵隊生還者並びに関係者有志相寄り供養の碑を建立亡き戦友の霊に捧ぐ

平成4年11月
照集団パラオ砲兵隊慰霊碑建立会

遺品
個人の墓碑群

お参りを済ませ、次の場所に移動・・・・
その途中に横穴陣地跡があったので入ってみる。
内部には遺品がゴロゴロ転がっていた。
が・・・ここパラオでは、遺骨を含め、こういうものに手を触れることは許されていない。
見つかれば懲役1年か、日本円で約150万円の罰金を科せられる。
「レインジャー」と呼ばれている私服の監視員が、どこで見ているかわからない。
見つかったら、大変なことになる。

さらに移動する途中で、米軍の水陸両用車の残骸を見かける。
観光用に展示されている・・・・

米軍の水陸両用トラック

続いて向かった洞窟は、入り口は狭いが、内部がかなり広い洞窟だった。
当然、内部は真っ暗・・・・
LEDのかなり輝度の高い懐中電灯が役にたったが、写真撮影の方は全然ダメ!!
三脚でカメラを固定して、露出を開放して撮影しないと駄目なようだ。
カメラ内蔵のストロボを使って撮影したのでは、凸凹がないノッペリした写真になってしまうので、私としてはストロボを使いたくないのである。
で・・・ストロボを使わないと真黒で何も写らない・・・・
肉眼では結構見えているのだが、写真に撮ると駄目・・・
洞窟内部の撮影の難しい所である。
撮影技術がないからなぁ〜
しかもじっくり構えて、カメラの撮影モードの設定を、どうしようかなどと考えながら撮影する時間はない。
とにかく忙しいのである。(笑)
ササッと見たら、「さぁ!次に行くよ!」・・・なのである。
参ったぁ〜・・・・
こちらとしては、キチッとした写真を撮影したいのだが、目的が違う人たちと一緒だと落ち着いて撮影が出来ない。

次に向かったのは、多分、「海軍無線方位測定所」・・・・だったかな?(苦笑)
日本軍が使用していた建物・・・
地図も何も持っていないし、資料も渡されていないので・・・
とにかく連れて行かれるままに、後を付いて歩くだけという情ない状態。
いったい、どこをどう走っているのか、北に向かっているのか南に向かっているのかもわからない。
簡単な略図は戦記からコピーして持参したが、リュックの中から取り出す余裕はない。
とにかく「一息」もつかないのである・・・(汗)
しかも、ジャングルの中は湿度が高く蒸している。
資料をポケットに入れていたら汗でビショビショになり半日でボロボロになりそうなのでポケットにも入れられない。
口頭で聞いてもメモをする余裕もなければメモ帳も汗でビショビショになるのでポケットに入れられない。
いちいちリュックから取り出すのも面倒・・・・
結局、わかったような、わからないような・・・で、事が進む。
もう少し時間的な余裕があれば、細かく記録も付けられるのだが・・・・そういう時間は・・・ない。
というわけで・・・多分、これが「海軍無線方位測定所」なんだろうということにする。(笑)

続いて向かったのは飛行場跡。
その昔、日本海軍の飛行場だった場所である。
当時は数字の「4」の字の形をした滑走路だったが、今は滑走路が1本残っているだけである。
凸凹の滑走路だが、今でも現役。
時々チャーター便のセスナ機などが着陸するのだとか・・・

日本軍の飛行場跡(滑走路)
これが・・・「ペリリュー空港ターミナル」!!(大笑)
嘘のような本当の話し・・・・
日本の田舎のバス停よりひどい・・・(笑)

続いて、この飛行場跡周辺のジャングル内を探索する。

水上機のフロートではないかと思われる

コンクリート製のトーチカのような建造物。
鉄の扉が今もしっかりとある。
銃眼らしきものが2ヶ所あるが・・・・形状から言って、トーチカにしては銃眼の数が少ないような気がする。
これに似たものは15年ほど前にサイパン島へ行った時に飛行場跡で見たことがある。
トーチかではなくて、防空壕か?
日本海軍独特のコンクリート製防空壕なのかもしれない。

ドラム缶の山
謎の遺跡(笑)

団長の話では、お風呂だという。
円筒形の窯でお湯を沸かして、隣りの四角い水槽が湯船なのだとか・・・
本当かどうかは・・・・わからない・・・(笑)
これも謎の遺跡(笑)

内部を覗いてみたら、なんとなく工場のような感じ・・・
何かの整備工場か?

ペリリュー島は隆起サンゴ礁の島である。
ということで、地面の至るところに自然に出来た洞窟がある。
これもその一つ。

陣地跡

地面に開いている「穴」で、入口は人間一人がやっと入り込める大きさである。
この穴の奥は、そこそこの広さになっているらしい。
こういう「穴」や「割れ目」を陣地として利用して、日本兵は、こういう場所に立て籠もって米軍と戦ったのである。
“カゲヤマ団長”と“ヨコハマさん”がヘルメットにヘッドライト姿で中に入り調査・・・
私は、敢えて入らなかった。
そうそう初日から張り切ったのでは体力が持たない。(大笑)
報告によれば、内部に遺骨があったとか・・・・
お線香をあげて慰霊する。

このジャングルを抜け出し、次の場所へ移動することにする。
が・・・どこへ行くのかは知らない。
すべて団長次第である。
事前に、細かいスケジュールを副団長の“シラカタさん”が作ってくれていたが、困ったことにその通りに行ってくれないのである。
すべて“カゲヤマ団長”の気の向くまま・・・・(苦笑)
おかげで、どこへ行くのか、どこへ行ったのかさっぱりわからない。(汗)

途中で日本陸軍の九五式軽戦車の残骸を見る。
観光用に道路脇の広場にポツンと置かれているようである。

次に向かったのは「日本海軍司令部」跡。
コンクリート製の建物が今も残っていて観光名所となっている。
が・・・説明板も何もない。

最後に、ペリリュー島の一番北・・・・
我々が上陸した「北波止場」より更に北の海岸に行く。
この辺りが、「三つ子島」を経由して援軍としてやってきた高崎の歩兵第15連隊第2大隊(飯田大隊)が上陸した場所ではないかと思われる。

行ってみたら・・・あらら・・・
ちょうど干潮で、浅瀬が広がっている。
どうも増援の飯田部隊もこういう時に到着したらしい。
舟艇がかなり手前で座礁してしまい、このような浅瀬を歩いて上陸したという。

時刻は午後4時を過ぎた・・・今日の探検はこれで終了。
下着も作業服も汗でビショビショ・・・気持ちが悪い。
持参したミネラルウォーター4本は飲み干した・・・
まさか半日で2リットルも飲むとは・・・
普段、全くと言っていいほどミネラルウォーターなどは飲まないのに・・・
我ながら驚く。(唖然)
ホテルに帰り、シャワーを浴びる。
トイレ、シャワーは共同である。

お湯と水の両方が出るようになっているが・・・・お湯は出ない!(笑)
水は雨水をタンクに貯めたものだそうである。
お湯はその雨水をボイラーで熱するのだと思うのだが・・・
結局、行水・・・となるが、どうせ暑いから水を浴びても寒いという感覚はない。

水道水は雨水・・・ということで・・・
歯磨きの時はミネラルウォーターを使う。(笑)
なんと贅沢なことか・・・
午後6時過ぎ・・・夕食!
これまた、美味しい!

  


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