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佐分利九之丞 父子の墓 (鳥取県鳥取市・景福寺) 左:佐分利九之丞の墓 中央(後):四男・成次の墓 右(手前):五男・成興の墓 (平成16年11月18日) |
島原の乱で奮戦した
鳥取藩士佐分利九之丞 父子の墓
寛永14〜15年(1637〜8)にかけて長崎県で天草四郎を総大将とするキリシタン宗徒による島原の乱が起りました。
徳川幕府は、乱の鎮圧のため全国各藩に出兵を命じ、鳥取藩からも佐分利九之丞を筆頭に総勢88名が参陣しました。
九之丞は四男成次なりつぐ、五男成興なりおきとともに原城に進軍し、勇猛果敢に戦いました。
この戦いで九之丞は、寛永15年2月27日戦死、享年61歳。
父戦死後、成次は佐分利家を継ぎ、元禄3年(1690年)8月20日73歳で亡くなりました。
又、成興は、後に隠居して曽路で名乗り、宝永3年(1706年)12月25日 83歳で亡くなりました。
島原の乱の古戦場原城跡の本丸付近に九之丞の墓標があります。
(説明板より)
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景福寺 (鳥取市新品治しんほんじ町) (平成16年11月18日) |
瑞松山景福寺(曹洞宗)
鳥取藩池田家家老「荒尾」家の菩提寺「景福寺」は、南北朝時代摂津国六ノ瀬村(兵庫県川辺郡)に通幻寂霊つうげんじゃくれい禅師を開山として創建されたのが始まりである。
慶長年間、姫路城主池田輝政の家老荒尾志摩守隆重は、景福寺11世大桂宗奕そうえき禅師に帰依し、同寺を姫路城下に移して再興し中興開基となり、以後、荒尾家代々の菩提寺として護持されてきたものである。
池田輝政の没後、備前岡山藩主となった忠雄に従い荒尾家と共に同寺も岡山へ移った。(元和2年)
寛永10年、景福寺14世角山宗虎禅師となり、忠雄の嫡男光仲の鳥取転封に伴って同寺も荒尾家と共に鳥取城下に移り、荒尾嵩就を開基とする鳥取景福寺が建立され今日に至っている。
このような経緯から摂津・姫路・岡山・鳥取と4箇所に景福寺がある。
鳥取景福寺には、鳥取藩関連の書画、墓跡等が残されている。
(※寺宝・境内墓に関する記述は略します=重兵衛)
平成6年2月
鳥取市教育委員会
景福寺
(説明板より)
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