3.セブの観光地巡り

(セブ観音・道教寺院・南方第14陸軍病院跡・「マゼラン・クロス」・「サント・ニーニョ教会」・サンペドロ要塞・カルメン)


平成26年(2014年)1月26日(第3日目)

朝6時前に起床・・・
丘の中腹にあるホテルなので、さぞかし海のほうが見えて景色が良かろうと思ったら・・・
あらら・・・私の部屋は反対の山側の部屋だった・・・(大笑)

部屋の窓からみた景色

しかし・・・
米軍がこのセブ島に上陸したのは、昭和20年3月26日。
セブ島の日本軍は陸海軍合わせて1万5千名弱である。
この山の方へ退避して戦ったに違いないから、山側の部屋でちょうど良かったかな?
住宅が立ち並んでいるが、もしかしたら日本軍の陣地跡かもしれない・・・

ちなみに、エレベーターホールから見た海側の景色は・・・こんな感じ。
我々が宿泊した「マルコポーロ・プラザ・セブ」ホテル

最初の訪問は・・・このホテル敷地内にある『セブ観音』。
以前から名前だけは聞いていたが、このホテルの敷地内に建立されていたのか・・・
だからこのホテルに宿泊することにしたのかも・・・

セブ観音

セブ海軍部隊
遺族戦友一同
陸軍落下傘三四会
他 有志一同

昭和58年5月21日建立
 セブ観音

さきの第二次大戦に於てセブ島及び
その周辺地域で戦死されたすべての
方々の御冥福と永遠の平和を祈って
ここにセブ観音を建立する

(銘板碑文より)

『セブ観音』を参拝、みんなで『海行かば」を歌う。

セブ島の戦史については、あまりよく勉強してこなかった。(汗)
これといった良い資料が見つからなかったのだ。
一応、戦記に掲載されていたセブの海軍航空基地の略図だけはコピーしてきたが・・・
略図だから、距離的なものは正確ではなさそうである。

『セブ観音』から見た丘の下の町並み・・・
現在ビルが建ち並んでいるあたりに「セブ航空基地」の滑走路があったのではあるまいか?
と・・・すると・・・
向うから、こちらの丘のほう(緑の茂っているあたり)に掩体壕(飛行機を保護・格納する壕)があったはず・・・
確認のため、そのあたりをウロウロして見たい気持ちがムクムクと湧き上がってくるが・・・
残念ながら、ツアーである・・・(涙)
我慢、我慢・・・・

ワゴン車に乗り・・・次に向かったのは・・・
ん????
「道教の寺院」!(苦笑)
なんでお寺に行ったのか・・・私には全くわからない。
ガイドの“スズキさん”が説明をしてくれていたようだが、全く聞いていなかった。(大笑)

道教寺院

PHILIPPINE TAOIST TEMPLE,INC.

このお寺がある場所は、丘の中腹にある。
この丘は高級住宅街となっていて、その中にお寺があるようである。
が・・・この丘・・・
日本軍の抵抗陣地が設けられた丘のようである。
ガイドの“スズキさん”の話では、戦跡は何も残っていないとのこと。
う~ん・・・どこか、まだ開発されていない斜面とかに何か残っているんじゃないかぁ~?(苦笑)

道教寺院からみた景色

お寺から見た景色・・・・
右の方に見える林の中なんか怪しんだけどなぁ~(笑)
何か残っていないかなぁ~

ツアーの最後尾に付き、長い階段を降りて「道教のお寺」から出たところ、10人ほどのフィリピン人の女子学生とバッタリ!
女子大生か女子高校生か、知らないが・・・(苦笑)
キャー!キャー!と大騒ぎ!
何事???
一人の女子学生が、写真を撮ってもらえないかとカメラを差し出された。
はぁ?
他の女の子が全員、私の所に集まった・・・
あれ?・・・私がみんなの集合写真を撮ってあげるんじゃなかったの?(汗)
なんで私を中心に集まっちゃったんだ?
あのぉ~・・・私は芸能人じゃないんですけど・・・(大汗)
彼女たちは私を取り囲んでキャーキャーと大騒ぎ。(唖然)
ピチピチギャルたちにピタッと挟まれて・・・・嫌でも鼻の下が伸びる・・・(大笑)
余りにも照れくさいので、近くにいた“コウノさん”にも加わってもらい、なんだかわからない記念撮影に応じる。(大笑)
しかも・・・別のカメラでも・・・2回も・・・(大笑)
なんだろうなぁ~・・・これ・・・・
何をそんなに喜んでいるのか・・・
彼女たちはキャーキャーワーワー騒ぎながら「サンキュー!」と言って去って行った・・・(唖然)

駐車場に戻ったら、すでに皆さんはバスの中で待っていて、心なしか冷たい視線・・・(大汗)
いや・・・あれ?・・・私はナンパなんかしてませんよ・・・(汗)
ガイドの“スズキさん”によれば、彼女たちは日本人と一緒に写真に収まりたいだけだったのだろうと言う。
が・・・なんで日本人と一緒に写真を撮りたがるんだ?
わからん・・・
絶滅危惧種の珍しい動物に会っちゃった!・・・というようなあの騒ぎはなんだったんだ????(笑)

丘を下って、今度は町の中を走る。

「このあたりが昔の飛行場跡です」とガイドさんが言っていたが・・・
どこ?
反対側の座席に座っていたので見えない!写真が撮れない!(涙)
どうも、町の中の大通りが昔の滑走路跡のようなのだが・・・
「今は当時の面影は全くありません。戦跡は何も残っていません」とのこと。
あっという間に通り過ぎたので、どこがそこなのか、結局わからず仕舞い・・・

次に向かったのは町の中・・・
陸軍病院跡である。
ここには『南方第14陸軍病院』があったらしい.
慰霊碑が建立されている。
慰霊碑
南方第14陸軍病院関係者

1977年3月10日
全国セブ会一同

ルソン島のマニラには『南方第12陸軍病院』があったのは知っていたが、ここセブにも陸軍病院があったとは知らなかった。
「病院」にはいくつかのランクがある。
最前線で負傷したら、まず向かうのが「包帯所」・・・・
たぶん、包帯しか巻いてくれない場所なのだろう。(苦笑)
そこでダメなら、「野戦病院」ということになる。
さらにその上が「兵站病院」・・・そしてその上が「陸軍病院」となる。
今で言えば、「野戦病院」が村の診療所なら、「陸軍病院」は設備の整った大学病院ということになるかな?(笑)
それなりの設備の整った病院が、このセブ島にもあったということである。

それにしても、これといった説明が何も書かれていないというのは何とも面白くない・・・
英語と日本語で、病院の規模や職員数や、陸軍病院の役割、慰霊碑について、などが書かれた説明板でも設置してくれたらなぁ~
地元の「史跡」になると思うんだけどなぁ~
戦争は戦争として・・・それはこっちに置いておいて・・・(苦笑)
歴史的な場所・・・史跡は史跡として、後世の歴史の勉強のため、また観光資源として有効活用したらいいと思うんだけどねぇ~

慰霊碑の隣りに垣兵団(第16師団)の有志が建立した地蔵の“慰霊碑”の台座部分だけが残っていた。
この垣兵団の有志はフィリピン各地に地蔵を建てているのだが、そのほとんどは地蔵が破壊され、台座部分だけとなっているものが多い。
ここも同じ・・・・(涙)

比・日・米の戦没諸英霊の菩提を弔い、世界平和と比・日親善を祈る。

1983.10.22. 元垣兵団(京都)日比地蔵尊保存会有志

(銘板より)

敷地には「リージョン・ブラッド・センター」の建物が建っている。
日本で言えば・・・「献血センター」というところか?

Department of Health
National Voluntary Blood Services Program
REGION Ⅶ BLOOD CENTER
これに接して、ちょっと洒落た建物が同じ敷地内に建っていた。
戦時中からあったものだろうか?
外に「ナース・ホーム」というアーチが架かっていたから、「看護婦寮」かな?

この敷地の裏のほうを散策してみたいが・・・ツアーなので断念・・・(涙)

時刻は10時20分・・・
15分程度、ここをお参りして・・・・次に向かうこととなる。

『南方第14陸病院跡』の前の道。
門柱や塀は当時のものなのだろうか?
バスの中からみた街の景色

到着したのは、『マゼラン・クロス』と呼ばれる場所。
話によると、ここに上陸したマゼランが十字架を建てたのだとか・・・
「それが何だ?」という気がしない気もないが・・・(大笑)
観光名所なのだそうだ。

マゼラン・クロス

マゼランが1521年にこの地に来た時に、ここに十字架を建てたそうで、そのときは、ここは砂浜だったとか。
現在は、この十字架を保護するため、屋根付きの建物で覆われている。
ちなみに、1521年は室町時代である。
この年に、あの武田信玄が生まれている。(だから何だ?・・・と言われればそれまでだが・・・)(笑)

天井の絵 マゼラン・クロス

Magellan's Cross

This Cross of Tindaro Wood
Encases the Original Cross Planted
By Ferdinand Magellan On This Very Site
April 21, 1521

なんだかよくわからないけど、みんながお参りをしている。
ふ~ん・・・・申し訳ないが私は全く興味なし・・・(苦笑)

ここに若い日本人男女のグループも来ていた。
「あ・・日本人・・・日本人よ・・・あの人たち、日本人・・・」と我々を見てヒソヒソ話・・・
20代の若い女の子たちだが・・・何をヒソヒソと日本語で話をしているのやら・・・
バカじゃあるまいか・・・ヒソヒソ話が筒抜けである。(苦笑)
嫌味も悪口も、あざ笑う表情と合わせて、みんな筒抜け・・・
なぜならば、私は日本語が理解できるのである。(大笑)
どういうわけか、海外で同じ日本人に会うと、日本人というのは、警戒したり毛嫌いしたりするのである。(苦笑)
あれは何だろうねぇ~
特に若い連中・・・
で・・・相手が外国人だと、なぜか警戒心を持たないのである。
こういうバカがレイプされるという事件が2年前の2012年にセブ島で起こっている。
20代の日本人女性2名が、韓国人男性達に“集団レイプ”された事件。
旅先で知り合い、一緒に酒を飲んだ挙句、襲われたらしい。
なにもフィリピンへ来て韓国人旅行者と飲みに行く事もあるまいに・・・
日本の女も・・・バカである・・・・
その後に、このセブで同様の事件が起こっているかどうかは知らないけど・・・
この若いオネエちゃんたちも気をつけたほうがいいと思うけど・・・(苦笑)
こういう、どこかしら“軽くてチャラい”“ノー天気”な若い日本人女性観光客を見かけるたびに、そう思うのである。(苦笑)

ここから徒歩で直ぐのところに『サント・ニーニョ教会』がある。
そこも有名な観光名所だそうで、そこへ案内された。

教会の周辺は、すごい混雑である!(驚)
ツアーの殿(しんがり)を引き受けた私としては一番気を使うところである。
途中ではぐれる人がでないか、スリに遭うのではあるまいか・・・と・・・
ツアー仲間の中には全く“ノー天気”な人もいるので・・・緊張の連続である。(大汗)
まぁ、何かあっても私の責任というわけではないのだが・・・(苦笑)

『サント・ニーニョ教会』の入口・・・

ここから先は撮影禁止とのこと。
すごい人だかりで長蛇の列・・・
何でも、幼いイエス・キリストの像があるとか・・・
そこにお参りするフィリピン人に外国人観光客が混じって更に大混雑を起こしているようである。
いやぁ~なんと信心深いのだろうか・・・フィリピン人というのは・・・
その昔のスペイン統治の影響はかなりのものである。
正規のルートで行列に並んだのでは、いつになったら辿り着くかわからない・・・
というわけで、回廊の隙間から内部を覗くことが出来るということで、そちらに向かうが、こちらも大混雑・・・
人混みを掻き分けてまで見る気はないので、私は少し離れたところでツアー仲間の動向を“監視”する。(笑)

時刻は11時・・・・

次に向かったのは『サンペドロ要塞』。
スペイン統治時代に造られた要塞で、観光名所だそうである。
この要塞の前に『プラザ・インデペンデンス』という公園がある。
たぶん日本語に訳せば『独立記念公園』ということになると思うが、ここに日本軍のどこかの部隊(部隊名を忘れた!)の慰霊碑が建立されていたが、いつの間にか無くなったとガイドの“スズキさん”が言う。

へぇ~・・と、ワゴン車の窓から公園を眺めていたら・・・あれ?慰霊碑!
「慰霊碑がありますけど!」
「いや、そんなはずはないよ。無くなっているから・・・」とガイドさん。
「いや、確かに公園の隅に慰霊碑がありますよ!」と私・・・
じゃぁ、確認に行ってみようということで、要塞を見学する前に公園に向った。

で・・・見つけ!(喜)
「ほら、あったでしょ?」
「へぇ~これは知らなかった。よく車の中から見つけましたねぇ~」とガイドさんが半分呆れ顔・・・
「このツアーは、かなり目のいい人の集まりですか?」と冗談まで言われてしまった。(大笑)
こういうことには勘が働くんだよねぇ~・・・私は・・・(大笑)

慰霊碑
(プラザ・インデペンデンス)
慰霊碑

建立の趣旨
第二次世界大戦において、ここセブ島の陸に海に多数の日本人、フィリピン人が散華されました。
この方々のご冥福を祈るとともに人類最大の不幸である戦争を再びくりかえさないことを誓います。
この碑が日比両国の永遠の平和と友情を培う礎石となることを心から願うものであります。

この慰霊碑・・・
いつ、だれが建立したのかは刻まれていない。
売名行為ではないということで、敢えて建立者名を刻まないのだろうが・・・
「戦争を再びくりかえさないことを誓います」と言っておられるのである。
誰が?(汗)
誰が誓っているのかがわからないのでは、世界平和の話も、お粗末の一言ではあるまいか?
全ての日本人が誓っているのか?(汗)
私は誓いませんけど・・・(笑)
“誓い”とは、そんな安易なものではなかろう?
太古の昔から戦争は繰り返されてきたのである。
そうそう安易には“繰り返さない”などとは言えないのではないだろうか?
極めて無難な碑文であるが・・・私には少々違和感を覚える内容であった。
できるならば、自分の能力を発揮できぬまま、飢えや病魔で無残な最期を遂げた“霊”を“慰める”文面であって欲しいと思うのである。
日本と米国との戦闘に巻き込まれて、不本意な最期を遂げた現地人の“霊”を“慰める”文面であって欲しいとも思うのである。
私にとっては「世界平和の祈念」と「慰霊」はイコールでは結べないのである。

プラザ・インデペンデンス
「MIGUEL LOPEZ de LEGAZPI」のモニュメント

残念ながら、これが何を意味するモニュメントなのか私は知らない・・・
サンペドロ要塞入口
FORT SAN PEDRO

この要塞は1565年に建設が始まったらしいが、詳細はわからないようである。
想像では、木の柵で囲まれた砦のような感じだったようである。
ちなみに・・・1565年というと日本では永禄8年。
宣教師のルイス・フロイスが室町幕府の将軍・足利義輝に謁見したという年である。

1739年に、この地の知事がスペイン国王に、この要塞のことを報告したものが、公式記録としては一番古いもののようである。
ちなみに・・・日本では、この年は元文4年で、徳川吉宗が将軍だった頃である。

見学は、時間の関係なのか・・・城壁の2階部分を少し歩き回っただけで終る。(汗)

展示されている資料

要塞の入り口の所に、この要塞の古写真等の史料が少しだけ展示されていたので、帰りにこれをジックリと見学する。
英文の解説プレートによると・・・
考古学的発掘をこの周辺で行なったところ、西暦1000年頃の植民地時代の集落があったという証拠が見つかったそうである。
アジアの貿易品、淡色の(白黒の?)商品、青と白の陶磁器製品、多彩色の製品、緑色のうわぐすりをかけたような陶器などといった、アジアとの貿易製品が、他のアジア諸国と早い時期から貿易をしていたことを表している・・・という。
この城砦は、1899年3月にアメリカ軍によって初めて守備隊が設立され、そのウォリック兵舎はこの城砦の一部として1900年初頭まで使用されていた・・・とか?(苦笑)
1917年11月26日に、このウォリック兵舎が放棄されたため、セブ市当局は、サンペドロ要塞を市の公園に使用する目的で転用することを要求したのだそうだ。
その後の数年間、城砦はセブ・ガーデン・クラブのクラブハウスの敷地として使われたそうで・・・
1957年にはセブ動物園として、1978年から1993年までは行政機関の事務所として使われた。
で・・・現在は・・・
国の記念建築物となり、セブ市が管理している。

と・・・いうようなことが書かれていた。(英語が苦手なので正しい翻訳が出来たかどうか甚だ不安ではありますが・・・)(苦笑)
まぁ、そんなことが書かれていたわけです。
戦時中は、ここを占領した日本軍が捕虜収容所として使用したという話を聞いた事があるが・・・
どういうわけか、その事については記載されていない。
なぜだろう?
実際には捕虜収容所としては使用されてはいなかったのか?
それとも日本に遠慮して、わざと記載しなかったのか?
歴史的事実なら、そうそう気を遣わずに、記載してくれていいと思うんですけど・・・
中国や韓国のようにウソを書かれては困りますが・・・(苦笑)

時刻はまもなく12時・・・・レストランに移動して昼食となる。

昼食

昼食後、海岸沿いを北上して、「カーメン(カルメン)」に向う。
ガイドの話では、日本軍は上陸してきた米軍と戦いながら海岸沿いに北東へ逃げたようである。
いろいろ説明してくれたのだが、どうも予備知識がないと頭に入らない。
しかも、南方ボケか、メモ帳を持参してきたが、まったくメモを取る気力が出ない・・・(涙)
「はぁ~そうですかぁ~」と言って数分後には、もう忘れている。(大涙)
やっぱり主体性の無いツアーでは、どうもダメだ。
目的を持って個人で来ないと・・・などと思ったりするが・・・
何をしにここに来たんだろう・・・高い旅費を払って・・・(大汗)
う~ん・・・どうもシャキッとしないんだよなぁ~
これは私の性格の問題だな・・・(汗)

目的の場所がわからず、多少、行ったり来たりしていたが、ようやく目的場所を見つけたようである。
幹線道路から狭い脇道に入ったところに「日本兵のお墓」があるのだとか・・・
どうもそこに行くらしい。

シモン氏宅 墓標(?)

『ジャパニーズ・グレイブ』と英語で看板が出ている。
日本語に訳せば、「日本人の墓」であるが、ここに日本兵が埋葬されているとは思えない。
多分、「慰霊の場所」ということで、これを造ったのだろう
これを造った人は、どうも生還された元日本兵らしいが、相変わらずガイドさんの説明をちゃんと聞いていなかった。(汗)
この“お墓”の脇に、慰霊に来た人の休憩所として使うために建物まで建てたそうであるが・・・
残念ながら、我々が尋ねた時には管理者も誰もおらず、“休憩”は出来なかった。(苦笑)

時刻は午後2時半・・・

セブ市に引き換えし、ホテルに戻り、今日の予定は終了となる。


  


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