曽我十郎・五郎 そがじゅうろう・ごろう

曽我十郎祐成すけなり承安2年(1172年)~建久4年5月28日(1193年6月28日)

曽我五郎時致ときむね承安4年(1174年)~建久4年5月29日(1193年6月29日)


曽我十郎祐成すけなり・曽我五郎時致ときむねの兄弟。
鎌倉初期の武士。
父・河津祐泰が安元2年(1176年)に一族の工藤祐経に暗殺された後、母の再婚先の相模国(現・神奈川県小田原市)で養育される。
継父の名字、曽我を称し、成人後は北条時政の庇護下にあったらしい。
建久4年(1193年)、富士の巻狩の際、父の敵である祐経を殺害。
祐成は仁田にった忠常に討たれるが、時致はさらに源頼朝の宿所襲撃を図り、捕らえられ死刑にされた。
『曽我物語』はこの仇討事件を描いている。

(参考:『日本史人物事典』 山川出版社 2000年5月 第1版第1刷発行)






曽我の隠れ岩
(静岡県富士宮市上井出)




(平成25年12月14日)

曽我の隠れ岩の由来

曽我兄弟(兄十郎祐成すけなり、弟五郎時致ときむねの父河津三郎祐泰すけやすは、領地争いにより伊豆で工藤祐経すけつねに暗殺されました。
兄弟は、武士道の面目にかけ仇討ちを念願し、建久4年(1193年)富士の巻狩に参加していた工藤祐経をついにこの地で討つことができました。
このとき兄弟は、この岩に隠れ仇討ちの密談をしたといわれています。
なお、西方に、密談の際、滝の音が止んだといわれる音止の滝、東方に、工藤祐経の墓があります。

(説明タイル板より)






白糸の滝
(静岡県富士宮市上井出・原)




(平成25年12月14日)

名勝及び天然記念物 白糸の滝

昭和11年9月3日国指定

「この上にいかなる姫かおわすらん おだまき流す白糸の滝」

この歌は源頼朝が詠んだと言われています。

富士山の雪解け水が富士溶岩のすきまを通って地下にしみ込み、古富士泥流と呼ばれる不透水層の上を伏流水となって流れ下ったものが浸食を受けた溶岩層から湧き出したもので、高さ約20米、幅およそ200米の湾曲した絶壁の全面に、大小数百の滝が玉すだれのように数千条の絹糸となって流れ落ち、白糸の名にふさわしく美しい景観を見せています。
また左側には、曽我兄弟の仇討ちで名高い音止めの滝が勇壮なひびきを立てています。

白糸の滝を守る会

(説明板より)





音止の滝
(静岡県富士宮市上井出・原)




(平成25年12月14日)

音止の滝(おとどめのたき)

高さ約25メートル、幅約5メートル
水量は富士山への積雪、上流部への降水量等により大きく左右されます。
この滝の名前の由来は、建久4年5月28日(約800年前)、曽我の五郎、十郎兄弟が父、河津三郎祐泰を工藤祐経に殺された敵を、富士の巻き狩りのさいに討とうと考え、祐経の陣屋近くの隠れ岩で相談したさい、近くの滝の音があまりにうるさく密談しにくい事を神に嘆いたところ、滝の音がピタリと止まり、無事討ち入りの相談ができました。
それ以来「音止の滝」と呼ばれるようになったとの伝説からきています。

(説明板より)








「曽我兄弟の霊地」へ向かう道






(平成25年12月14日)




曽我兄弟の霊地(供養塔)
(静岡県富士宮市上井出・曽我八幡宮の近く)




(平成25年12月14日)





説明碑
(曽我兄弟の霊地)






(平成25年12月14日)

碑文

建久四年(1,193年)右大将源頼朝富士之巻狩
を行いし時幕臣仁田四郎忠常の陣屋の所在地
にして曽我兄弟が怨敵工藤祐経を討ち果■■
る後餘勢を馳りて寄せ手を斬り払いつゝ拾町
余を走りしに終に精魂に盡きて祐成が仁田の
為に討たれた所なりと伝ふ。後人二孤が孝烈
を追慕し霊峰を眺むるこの丘上に碑を建てそ
の遺影を偲ばんとするものなり。

昭和四十一年五月二十七日

   氏子中


曽我八幡宮

富士宮市 歩く博物館 Cコース④
曽我八幡宮

社伝は、源頼朝が曽我兄弟の孝心に感じ、兄弟の英魂を祭るよう畠山重忠を遣わし、建久8年(1197)に上原の住人渡辺主水に祭らせたと伝えている。
この地は、新田四郎忠常の陣所の近く、十郎祐成が討たれた所だと言い伝えられている。
主神は応神天皇で、兄弟はその相殿として祭られている。
主神の応神天皇の尊像は、頼朝の命によって文覚が刻んだものだといわれる騎馬像である。
兄弟の像は、畠山重忠が丹波法眼に命じて刻ませた像だといわれている。
近世になって、歌舞伎や芝居で、「曽我物語」が盛んに上演されるようになると、曽我八幡宮では曽我兄弟の木像や兄弟ゆかりの品をもって江戸で出開帳を行った。
その出開帳の収入が、神社の維持管理にあてられたものと想われる。

富士宮市教育委員会

(説明板より)





曽我八幡宮
(静岡県富士宮市上井出1804)




(平成25年12月14日)

曽我八幡宮
静岡県富士宮市上井出1804番地鎮座

御祭神 應神天皇
相伝 曽我十郎祐成 曽我五郎時致 虎御前
右三柱を御神体として祭礼してあるが、その源に遡って創建の縁起を繙くと八幡宮の尊像は源頼朝の命に依って僧文覚が彫み伊豆蛭ヶ小島に流謫の公に贈りしに右大将の信仰殊に深く常に奉迎したり后天下源氏に帰するや頼朝秩父重忠の忠勤にして託独の良臣たるを知り特に此の神像を付托し其を戒めて曰くこれ源家統道の霊像にして天下昌泰の神霊なり故に其の性運を守り満前の難を払うこと無疑必ず信仰怠るべからずと重忠受命奉尊欠くる所なし后曽我兄弟の相浜に於けるの難あるや重忠二孤の為めに百方救解し漸やく其の難を免ることを復せしめたり此時重忠更に兄弟を戒め此の神像を奉持せしに二孤敬尊し奉り以て護りの神となす二孤復仇河津氏嗣礼なし后鎌倉更に丹波法眼に命じ兄弟の像を彫みこれを摂津源氏の遺臣渡辺主水(渡辺競の遺腹子)に与う主水二孤復仇の跡兄十郎祐成の英魂を埋めてこの地に神殿を献立し神体と二孤の木像とを併せて是を祭れり
頼朝大に神像を信仰し二勇の孝烈を感じ神領若干安綱の太刀一口を添へて神意を休めらるその文に曰く
寄付曽我神領の事
駿河国富士郡北山庄厨■に假宿右件郷園者為
頼朝沙汰感祐成 時致義勇所永寄付也
今以不可有妨仍而為後日沙汰註文書与之■条如件
   建久八年九月二十八日  源 朝臣花神
等であるが之等古文書は天正元年十二月(1573年)不幸災火の見舞うところとなり悉く灰燼に帰した
而し降って戦国の世となりても武田信玄父子徳川家康等の信仰亦浅からず之等武将も詣られてその都度武運長久を祈願されたとか徳川の世となっても歴代の将軍より社領を寄進せられ年々祭礼の絶ゆることはなかった明治維新神仏合祀のことがなくなってより明治八年二月十八日に村社となり爾来幾多の変遷を経て今日に至ったが正月、五月、九月の例祭は兄弟の遺烈を偲ぶ盛大なる祭典にして賽者社頭に集り殷賑を極む

(碑文の写)

(説明板より)




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