捜索第56連隊

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
久留米 昭和15年 第56師団 タイ

昭和15年7月(一説では8月)、久留米の騎兵第12連隊留守隊に於いて編成。
編制は乗馬1中隊、乗車1中隊、装甲車1中隊。
昭和16年11月、大東亜戦争開戦直前に動員、久留米にて待機。
編制は本部、乗車2中隊、装甲車2中隊(1中隊=装甲車8輌)に改編された。
連隊長は平井卯輔大佐。
昭和17年3月、ビルマに出動。
終戦はタイで迎え、連隊長は柳川明大佐。


龍捜索第五十六連隊慰霊碑 『龍捜索第五十六聯隊慰霊碑』
(福岡県久留米市・久留米城跡)

(中央の碑文)
みなみの戦野を たどり
平和のあさを ねがいながら
義のみちを あきらかにした
つわものたちの いのちのいしぶみ

(平成16年6月12日)

碑文(表)

捜索第56連隊ハ昭和16年8月1日久留米第56師団ノ新設ニ伴イ創設サレ大東亜戦争勃発スルヤ逸早ク其ノ一部独立装甲車隊ヲ混成第56歩兵団ニ配属シ南西諸島攻略ニ於イテハ兵団ノ先遣隊トシテ勇戦敢斗兵団ノ作戦ニ貢献セリ
連隊主力ハ師団ノ先遣支隊トシテ昭和17年3月25日ビルマ国ラングーンニ上陸シ以来シヤン高原ヨクスル師団ノ包囲作戦ニ於イテ克ク其ノ機動力ヲ発揮シ奇襲攻撃ヲ以テ師団主力ノ進路ヲ開拓シ5月3日夜半バーモヲ占領
敵ノ退路ヲ遮断シ6月15日第15軍司令官ヨリ感状ヲ授與セラル
爾来連隊ハ雲南国境ノ警備ニ任ジ殊ニホーハン方面ヨリ来攻スル敵ノ企図ヲ挫折シ更ニ北部ビルマ各地ニ転戦シ悪戦苦斗ス
昭和20年3月師団正面ノ戦況急ヲ告グルヤ、シボー附近ニ於テ師団ノ左翼部隊トシテ南下スル英印軍約1ヶ師ノ重囲ノ中ヲ悪戦死斗之レヲ死守シ師団主力ノ転進ヲ容易ナラシム
其ノ後連隊ハ泰緬国境ニ転進シ昭和20年8月15日詔勅ニヨリ終戦ヲ迎ヘリ
此ノ間遠ク異境ノ地ニ赫々タル武勲ヲ樹テ悠久ノ大義ニ生キテ散華サレタ連隊ノ過半数ニ及ブ戦歿者ト戦後ノ物故者ヲ併セ合祀シ亡キ戦友ノ御霊ヲ平和ヘノ礎トシ吾々九死ニ一生ヲ得タル者相集イココ篠山城址ニ碑ヲ建立シ光輝アル我ガ捜索第56連隊ノ青史ヲ永遠ニ記シトドム

昭和51年9月吉日
龍捜索第五十六連隊生存者一同

碑文(裏)

戦死者 故陸軍中佐松田武比古 以下127柱之霊
物故者 故陸軍少将平井卯輔 以下46柱之霊


ビルマ進攻作戦

昭和17年3月26日、第56師団の先頭部隊としてビルマのラングーンに上陸。
(但し前年11月に装甲車1個中隊を比島・ボルネオ方面の混成旅団に派遣していたので、装甲車1個中隊欠)
乗車歩兵2個中隊(重機関銃1個中隊)、野砲1個中隊、工兵1個小隊、輜重兵1個中隊(自動車)の配属を受けて、トングーに向けて急進。
トングーから南下する重慶軍のため戦闘膠着状態の第55師団に協力し、敵の背後を襲うためシッタン河を渡河し、夜間にアレミアン高地の敵を攻撃。
第55師団と連絡してトングーを占領する。
続いて第56師団主力進出の掩護のため約200キロ先のシヤン高原のマケビウに向かい、先遣隊として4月1日トングーを出発。
この時の連隊の車輌数は400両を越え、行軍の長さは8キロに及んだという。
土民の話では自動車の行動は容易との事だったので、40数時間で到着できると思っていたところ、橋梁は破壊され、山地内の道路は起伏、曲折が多く、隘路・要地を占領している敵の反撃激しく、ケマビウに到着するのに約10日間もかかってしまった。
更に引き続き、約200キロ先のロイコウへ第56師団の隘路進出掩護のため進出。
ツーチャン、ポウレイク等各地で敵を撃破。
しかしナペンでの敵の陣地は堅固で、道路両側の高地からの抵抗が頑強なため昼間の攻撃は不成功。
更に夜に入っても撃退できなかった。
平井連隊長は、やむなく闇夜を利用して両側の高地の敵に関わることなく車輌部隊で突破を決意。
装甲車を先頭に、全車輌無灯火で突進。
両側の高地からの弾雨の中を一切応戦せずに強行突破し約100キロを走破し、ウエルダンに進出した。
この強行突破により第56師団は難なく隘路を進出し、ロイコウの敵を攻撃。続いてラシオに進出した。
ラシオ攻撃では乗車予備隊として待機していたが、4月29日、第一線部隊の突入と同時にラシオ市街に突入。
多数の車輌、飛行機、ガソリンを鹵獲した。
当時、第15軍の主力である第18師団と第55師団はマンダレーの敵主力を攻撃中。
その背後の要衝であるラシオを第56師団が占領し包囲作戦を容易にしたのは、先遣隊である捜索第56連隊の功績によるものが大きかった。

引き続いて第56師団はナンカンを経てミイトキーナ方面に前進、重慶方面の敵の退路を断つ任務を受ける。
捜索第56連隊は再度先遣隊となってバーモに突進することになる。
このとき、更に野砲1個小隊、牽引車付き重砲1個中隊、工兵1個小隊、衛生隊1班の配属を受けた。
センウイでは重慶軍の第29師の第87団を急襲。
壮烈な格闘戦を演じ敵を壊滅させ、自動貨車(トラック)49台、速射砲3門、迫撃砲2門、軽機関銃3丁、小銃多数を鹵獲した。
続いてクツカイの戦闘では速射砲を有する約300名の敵を山地の背後から捕捉殲滅。
この戦闘後、比島・ジャワ方面の混成旅団に派遣していた装甲車中隊が連隊に復帰した。
続いてモンユウの戦闘。
ナンカンから退却してきた50〜60両の敵の自動車部隊を迎撃。
捕虜にした敵の軍事顧問の英軍大佐からナンカンの大吊橋がまだ破壊されていない情報を得る。
連隊はこの情報に従って同大吊橋に向かい急進。
この大吊橋はイラワジ河の支流であるシュリー河に架かるもので、これが破壊されると第56師団の行動が阻害されてしまい、渡河に数日を要することになってしまう。
連隊の尖兵中隊の突進と後続の連隊主力の速射砲等の掩護により、爆破直前の橋の占領に成功。
約120名の敵が戦闘継続を強要する英軍将校を射殺して投降してきたと言う。
このナンカンからバーモまでは約300キロ。
曲折した山道を突進。
バーモはビルマ北部の要衝の町のため有力な敵の抵抗を予想していたが、後方から重砲大隊長の独断による10センチ重砲の掩護射撃を受けてバーモを無血占領する。
この町は敵の兵站基地でもあったため、自動車工場では自動車25台、牽引車7輌、飛行場の組立工場では組立て中のもの6機、米国製部品20機分を押収。
更に米2万俵、ガソリン8千本も鹵獲するなど各種の莫大な量の軍需物資を押収し大きな功績を上げた。

引き続き第56師団は一部をミイトキーナに、主力をもって東北国境へ向かって敵を追撃し、また、一部をもってバーモを占領しマンダレーから敗走してくる敵に備えることとなった。
捜索第56連隊はバーモの警備を命じられ、ここに連隊の機動作戦は終了した。

連隊は4月1日にトングーを出発して以来34日、機動行程は1,400キロ、1日平均43キロを走破。
その間に大小数十回にも及ぶ戦闘を交え、第56師団の進路を開拓、大いに機甲化騎兵の名声を上げたのである。

(参考文献:日本騎兵史)



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