8.日本兵火葬の地の献花式

(国立北スリガオ高校)


平成21年(2009年)10月25日 (第3日目)

車に乗せられて連れて行かれたのは、「北スリガオ高校」。
正確には「スリガオ・デル・ノルテ・インターナショナル・ハイスクール」である。
この敷地の一角に、戦時中、日本兵を荼毘に付した場所がある。
そこに2年前に記念碑(慰霊碑)が「スリガオノン・ヘリテージ・センター」によって建立された。

式次第には「リース・レイイング・アット・ザ・ジャパニーズ・クリーマトーリアム・マーカァー」とある。
「クリーマトーリアム」とは、「火葬場」のこと。
公式行事の一つとして挙げられているが、関係者は日本人だけ。
この碑のところに花輪を献花するということらしい。
日本のためのセレモニーである。

高校に到着。
敷地入口に、高校生たちが待っていて、「こんにちわ!」と日本語で挨拶してきた。
いやぁ〜驚いたぁ〜!
発音は完ぺきである。いやぁ〜上手!上手!
一生懸命に練習したんだろうなぁ〜(笑)
先生方もゾロッと並んでいて・・・・「ハロー!」
(なぜか先生方は英語・・・笑)

慰霊碑のある敷地入口 慰霊碑のある敷地入口
日本将兵火葬の地・記念碑 日本将兵火葬の地・記念碑

この建立に、貢献されたのが古沢さん・・・
慰霊碑には英文と日本文で由来が書かれている。
碑文(日本語)
スリガオ・ヘリテージ・センター建之
碑に刻まれた文言は、スリガオと日本の研究者、ライターなどの丹念な共同調査の成果である。
調査と翻訳は、フィリピンと日本の草の根の友情に基づいて、非政府の市民団体で行われた。
日本将兵火葬の地
 第二次世界大戦(1941〜1945)中、フィリピンに侵攻した日本帝国陸軍は、スリガオに第30師団歩兵第41連隊第3大隊(大隊長近藤泰彦少佐)を配置した。師団長両角業作中将麾下の第30師団は、軍司令官鈴木宗作中将麾下のセブ駐留35軍隷下にあってミンダナオ地域唯一の正規編成師団であった。鈴木中将は1945年4月半ば、ミンダナオへの転進途上戦死した。
 第3大隊本部は、現在国立北スリガオ高校が立つこの地にあった。第二次世界大戦中、戦死した多くの日本陸軍及び海軍将兵がここで荼毘に付された。火葬場のような施設があるわけではなく、野天で焼かれた。当時同師団野戦病院に所属し戦後生還した平岡久氏によれば、この地はほかにもいくつかある戦死者火葬の地の一つである。
 同じく平岡氏によると、当初遺体はスリガオ共同墓地近くの丘の上で火葬されたが、スリガオのゲリラ抵抗勢力の襲撃を恐れて大隊本部近くに移されたという。1945年1月大隊主力がカガヤン・デ・オロに撤退(次いで5月、最後の戦いの場となる南アグサン州ロレト町ワロエに向かう)するまで、戦死した将兵は、その時々の可能な手段で主として夜間この地に運ばれ、荼毘に付された。
 1944年10月20日の連合軍のレイテ島タクロバン〜パロ〜ドラグ上陸に先立つ9月9日、ウィリアム・F・ハルゼー大将麾下のアメリカ海軍第38機動部隊は、スリガオを波状的に空襲した。当時スリガオの「裸足のゲリラ」であったラム・マクセイの証言によると、グラマン戦闘爆撃機約50機が飛来・空襲、港湾を破壊し、停泊中の日本帝国陸軍所属船舶、大小発動機艇、機帆船多数を沈めた。また第3大隊本部にも損害を与えた。マクセイはまた、この空襲ののち生まれて初めて日本人死者を見たと語っている。(2003年8月26日付け「サン・スター・ダバオ」紙ベン・O・テシオルナによるラム・マクセイの会見記事から)。公共建物だけでなく、個人の住宅も住人が追い出され日本軍に占有されていたため、空襲の目標になった。そのためスリガオ市街の半分が焼かれた。
 日本帝国陸軍は、ダバオ、サンボアンガ、カガヤン・デ・オロ、デル・モンテとともに、スリガオ港をミンダナオ島各方面への戦闘部隊上陸地点とした。南部ミンダナオのサランガニに配置された歩兵第74連隊もこの地からカガヤン・デ・オロを通過していった。また、荷揚げ・停泊港として、1944年5月20日上陸の船舶工兵第19連隊など戦闘支援協力部隊、同年6月22日上陸の輜重兵第30連隊など第30師団戦闘支援業務部隊、同年5月25日上陸の第4野戦病院、同年6月21日上陸の第2野戦病院など衛生部隊も利用した。第4野戦病院は本部をスリガオ港に近接する入江近くに置き、スリガオ公園に面したスリガオ・ローマ・カトリック教会を傷病兵の手術、治療に使用した。
 スリガオはまさに、第30師団隷下各部隊の各方面展開のための通過港として使用された。第30師団各部隊と協力部隊は、1944年5月20日、25日及びその後一連の上陸後の展開にあたって、当初ミンダナオ島東海岸に向かった。しかし、同年8月、目的地はミンダナオ北海岸に変更され、次にまた南方へと変更されたため、9月9日、アメリカ海軍第38機動部隊による空襲当日はスリガオで再展開の途上にあった。
 港と近くの砂州に部隊が集結し、軍需物資が集積されている状況下で、歩兵第77連隊は、船舶工兵第19連隊、第4野戦病院とともに被害を受けた。歩兵第74連隊所属各大隊はすでにスリガオを発ち、9月7日カガヤン・デ・オロに到着していたが、アメリカ機動部隊は9月9日同市をも空襲した。第77連隊は、空襲による被害にもかかわらず、所属2大隊をレイテ戦線増援に送り1大隊をミンダナオ中部マライバライに配置した。
 その後同年10月24日から25日にかけての歴史的スリガオ海峡海戦の間、日本海軍は多数の死者を出した。複数のスリガオ住民は、深夜から明け方にかけて300から500体の陸海軍将兵の遺体がここで焼かれたと証言している。さらに第3大隊は、スリガオ・アグサン地区のゲリラ抵抗勢力と以下の遭遇戦を行った。9月17日南スリガオ州タンダグにおいて、12月6日北アグサン州ブエナビスタにおいて、12月25日北スリガオ州ブラセル町バダスにおいて、また翌1945年2月3日から3月1日にかけて、南スリガオ州ヒナツアン町ポート・ラモンと北スリガオ州ブツアン市アンバヨンの間で、14回の小戦闘があった。4月9日、「裸足のゲリラ」ラム・マクセイの所属するリチャード・バートン中尉麾下の連隊戦闘中隊の兵300がスリガオに残留した第3大隊監視隊を攻撃した。さらに1944年10月20日頃から1945年初頭まで、強力なゲリラ勢力がブツアン駐屯の1中隊を包囲攻撃した。同中隊の将兵は長期の包囲戦に耐えた。
 おびただしい日本陸軍及び海軍の将兵が、第二次大戦中この地で焼かれた。マクセイの証言によると、第3大隊は戦場においても戦死者を焼いた。1944年後半のある時、マクセイは、第3大隊がギガキット町ドヤンガン山近くのバラン十字路附近で、ニッパヤシの空き家に20人を超える遺体を入れて焼いたのを目撃した。同大隊第9中隊は、スリガオと南スリガオ州カンティランとの間に展開しており、そこでの遭遇戦での戦死者と思われる。1945年春から夏への戦況の悪化に伴い、レイテからスリガオに渡った部隊を含め日本軍がワロエへ敗走した際は、倒れた将兵はその地に埋められるか、ただ棄ておかれた。
 この碑は、ミンダナオ島のこの地で戦いに倒れた日本陸軍及び海軍の将兵を追悼し、これら戦死者が安らかに眠り記憶にとどめられることを祈って建立される。これら将兵は、日本のために戦って倒れ、この地で焼かれた。
 これら将兵は、第35軍第30師団隷下全部隊と協力部隊に所属した。その多くは、すでにその名を記した第30師団各戦闘部隊に加え、捜索第30連隊、野砲兵第30連隊、通信隊、輜重兵第30連隊、兵器勤務隊、病馬廠及び協力部隊である船舶工兵第19連隊に所属する9月9日空襲による戦死者である。さらに、連合艦隊の第1遊撃部隊のうち西村祥治中将麾下の第3部隊(旗艦戦艦山城、戦艦扶桑、重巡洋艦最上、駆逐艦朝雲、満潮、時雨、山雲)、志摩清英中将麾下の第2遊撃部隊(旗艦重巡洋艦那智、重巡洋艦足柄、軽巡洋艦阿武隈、駆逐艦曙、霞、不知火、潮)に所属する将兵であった。
 スリガオ海峡海戦の間、幾百もの第1遊撃部隊西村艦隊将兵の遺体がスリガオ海岸に漂着した。この海戦は戦力互角の両艦隊によるものではなく、戦力において圧倒的に勝るアメリカ海軍による殲滅戦であった。おとり役の西村艦隊の司令官西村中将は、スリガオ海峡で待ち伏せしたアメリカ海軍により、旗艦戦艦山城もろとも海峡の海底の藻屑と消えた最高位の戦没者である。第2遊撃部隊の志摩艦隊は、ジェシー・B・オルデンドルフ少将指揮するアメリカ艦隊のわなに陥らず、さしたる交戦をすることなくマニラに帰還、最低限の犠牲に留まった。
 我々はここに、再び戦争が起こることがないようにと、フィリピンと日本、両国間の恒久の平和を祈る。また、平等と相互の信頼と尊厳に基づいた両国間の和解、調和、協力、対話、友情の促進のために常日頃そして永久に献身する。この碑建立は、国民相互の草の根レベルの友情を示すものとして、公式の外交ルートでない国民と国民の関係、市民の責務として着手された。2006年8月19日から23日まで、日本学術振興会研究助成事業「千年持続学の確立」プロジェクト研究(人文・社会科学振興プロジェクト研究事業)、筑波大学、スリガオ・ヘリテージ・センターの共催により当地で開催された「文化価値と持続可能性に関するスリガオ国際会議」の成果の一つである。碑文の正確を期すため資料を提供し詳細な調査を行った多くの人々に友情をこめて感謝する。

2006年10月25日 建立
フィリピン共和国スリガオ市バイバイ・パローラ、スリガオ博物館内
スリガオ・ヘリテージ・センター

理事長 イレネッタ・C・モンティノーラ 博士
創立者・館長 フェルナンド・A・アルメダ・JR.

碑文は英文と日本文との併記である。
文章はかなり長いものであるが、非常に丁寧に書かれており、当時の状況がよくわかる。
こういう「記念碑」「慰霊碑」というのは好感が持てる。
よく日本は「鎮魂」とか「慰霊」とかという文字だけの慰霊碑を現地に立てるが、これでは現地人にも、慰霊にやってきた日本人にも、その場所で何があったのかはさっぱりわからない。
後世に歴史を伝える役目にすらならない。
これだけの長文になると読むのが大変だが、ここまで書いて設置するのが後世に伝えるためには正しいやり方だと私は思う。

この碑文作成にあたって、当時スリガオに駐屯していた部隊等に関して何か情報を持っていないかと私に問い合わせをしてくださったのが古沢真里さん。
残念ながら大してお役に立てず申し訳なかったが、その後、2006年に無事に記念碑が建立できたとご報告を頂いた。
いつか現地を訪れてみたいと思っていたが、ようやくそれが実現し、実際に記念碑を見て感無量である。
古沢さんとは、この時からお付き合いが続き、今回の訪問にも大いに手助けを頂いた。
人との出会いというのは不思議であり面白い。
感謝、感謝である。

で・・・・セレモニーは・・・・???
ササッとミス・リズリーたちスタッフが花輪を慰霊碑の前に置く・・・・
ん?どうなってるの?
「スリガオノン・ヘリテージ・センター」のジュンさんから、この敷地のこと、慰霊碑のことなどの説明を受けて・・・・更には、この敷地を「日本庭園」にしたいので資金の協力を・・・という話を聞かされる。
それは結構なことですが・・・・
あのぉ〜セレモニーは?
何か挨拶しなくちゃいけないんじゃないの?
私は一応その覚悟が出来てるんですけど・・・・・(笑)
あれ?
あ〜でもねぇ、こ〜でもねぇ・・・と、みんなは雑談・・・・・
あれれ???
セレモニーがない!(笑)
すでに私の花輪は飾られちゃってるし・・・・

献花 献花

この花は、私が300ペソ(600円)を払って用意したもの。
600円の割には豪華な花輪である。(笑)
が・・・本来は、これを私が自分で持って、慰霊碑の前に供えるんじゃないの?
最初から置いちゃったらダメじゃん!(笑)
あれれ・・・・献花式は割愛????

私が想像していた献花式は・・・・
ジュンさんの司会で、私たち日本人2名が紹介され、私が代表で挨拶をし、その後、花輪を2人で持って献花。
その後、校長先生からのご挨拶を頂き、そして、高校を見学して学生たちと交流。
この時に、私が戦時中の話などをチラリと話し(そういう話が出来るかどうかはわからないが・・・笑)、そして解散・・・・
というような式典を想像していたのだが・・・
あらら・・・
式典とは名ばかりのものであった。(笑)

ジュンさんは、とにかく日本庭園を造りたいので・・・・という話ばかり・・・・
あのぉ〜日本から、お線香を持ってきたので、お線香をあげさせてもらいますよ〜
ということで・・・三宅さんと2人で、記念碑のところにお線香を供える。

何のセレモニーもないから、先ほど日本語で出迎えてくれた高校生たちも、暇を持て余している様子。
そのうち・・・・帰っちゃった!(笑)
おい、おい、これ・・・どういう企画なの?
あ〜あ〜かわいそうになぁ〜
折角、日本語を練習したんだろうに・・・・
当然、高校生たちとの交流というのがあるだろうなぁ〜と想像していたのだが・・・・
何もない・・・・

「記念写真でも撮りましょうか」ということになり、みんなで記念写真を撮って・・・・終わり。

記念写真 記念写真!

そのうちスタッフが、飲み物をどこかからか買ってきてくれた。
市役所を出発する時に私がのどが渇いたと騒いだからだろう。
これを木陰のベンチに座って頂いて・・・・
で・・・各自、それぞれザワザワと雑談・・・・・
あのね・・・紹介も何もないんですけど・・・・
誰が校長先生なのかもわからないんですけど・・・(笑)

まもなく、それでは帰りましょうと促される。
その時に、女性の先生が声をかけてきた。
この先生が校長先生だそうで、今年着任したのだという。
で・・・校長先生のお話は・・・・日本庭園の整備の資金協力の話である。
ついでに塀も門扉も新しくしたいし・・・とのこと。
ジュンさんが、「その話は、もう、してあるから・・・」と答える。
ん?
結局、このセレモニーって、資金協力の陳情?(笑)
あらら・・・である。

古沢さんから事前に校長宛の寸志を預かってきていたが、その校長先生は転勤してしまったという。
やむを得ない・・・・新任の校長先生に古沢さんから学校への寄付だからということを説明してお渡しする。

記念碑のある敷地 記念碑のある敷地

日本庭園予定地? ここを日本庭園にしたいというのだが・・・

それにしても、この敷地に日本庭園ねぇ〜・・・・
難しいんじゃないのかなぁ・・・・
だいたい、フィリピン人が作る日本庭園って、日本庭園の形にならないと思うんですけど・・・
マニラにある「日本庭園」も、見てみたら、全然日本庭園ぽくなかったし・・・・
日本の造園業者が造らないとダメなんじゃないの?
しかし、どんな植物を植えればいいんだろ?
日本とは気候が違うし・・・こんなに暑いし・・・・
桜の木は無理だろうねぇ〜(笑)
松もどうかねぇ〜
この一角を日本庭園にという気持はわかるけど・・・・(笑)
う〜ん・・・どうなんだろう?

さて、校長先生が、今から7〜8人の日本人が来る予定だという話をしているのを小耳に挟んだ。
なに?日本人が来る?今から?
「ここにお参りしたいのだが、いいだろうか?」と打診があったという。
「何というグループ?」
「わかりません」
「いつ来るの?」
「あと30分後くらいです」
「いやぁ〜それなら、もう少しここに残って、その日本人たちに会ってみたいなぁ〜」
「・・・・・」

しかし、とにかく車に乗れと急かされる。
「で・・・・次の予定は?」
「ホテルに戻って休んでください。お昼に迎えに行きますから」と、ミス・リズリー
「この後の予定がないなら、ホテルに戻ってもねぇ〜。それより、今からここに来る日本人に会いたいんですけど・・・」
「・・・・・」

ジュンさんからも無視されるし、誰も私の話に乗ってくれない。
これから来るというグループはどんなグループなんだろうか?
戦友会か、遺族会か、それともただの観光客か・・・・
観光客がここにわざわざ来るわけもないような気がする・・・・
戦友や遺族のグループなら、その中に私の知っている人がいるかもしれない。
フィリピン人ガイドも何人かは知っているから、ひょっとして知り合いのガイドが来るかも・・・・
どうせなら、日本人同士で話をするのが早いんじゃないか?
日本庭園の資金援助の話をするのなら・・・・
戦友会関係者なら、なおさらだ・・・・
私は戦友会の事務局長もしているんだから・・・・

しかし・・・無視!(唖然・・・・)
どうも、私と彼らを引き合わせたくないような雰囲気である。
私が頼りにならないと思っているのか・・・・
それとも、別の目的があるのか・・・・
資金援助を個別に頼むためには、私に一緒にいられては困るということなのか?
どういうわけなのか、次の予定もないのに、とにかくホテルに戻れと急かされる。

こういう時に、横のつながり・・・というのを作れるかもしれないのにねぇ〜
それぞれ単独でやっていたら、なかなか話が先に進まないと思うんだけど・・・・
将来のことを見越したら、ネットワークの構築をまず考えるべきだろうに・・・・
まぁ、どうしても会わせたくないっていう様子なので、諦めて車に乗る。

国立北スリガオ高校 国立北スリガオ高校

ここには当時、歩兵第41連隊第3大隊の大隊本部があった。


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