歩兵第41連隊

(通称号:豹12023部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
福山 明治31年 第30師団 レイテ島

明治29年、連隊本部と第1大隊をもって編成。
当初は第15師団隷下。
明治29年12月までに第3大隊までの編成が完了。
北清事変では大小数十回の戦闘に参加する。

日露戦争では得利寺、蓋平、大石橋、遼陽、沙河、黒溝台、奉天の各会戦に参加。
その後、第17師団隷下となる。
大正14年、第17師団の廃止により、再び第5師団に所属する。

昭和12年の日中戦争では蒙疆作戦に参加。
のちに、国東支隊に入り、徐州会戦では沂州城攻略に参加する。
その後、連隊は第12軍に所属し、バイアス湾上陸作戦、南支作戦などに参加。
昭和14年、及川支隊に入って山東省の匪団壊滅作戦に参加。
ノモンハン事変で大連に渡って同地に駐屯する。
その後すぐに南支欽州湾上陸作戦、賓陽会戦に参加する。
昭和15年9月、仏印に進駐し、各種の作戦に参加。

太平洋戦争開戦時、第25軍(司令官:山下奉文)に加わりマレー作戦に参加。
昭和16年12月8日早朝、シンゴラに上陸。
すぐさまシンゴラ市内の埠頭など重要地点を占領。
連隊の一部は新飛行場南方のホーン山附近のタイ軍を攻撃。
第2大隊がシンゴラ飛行場を占領した。
その後ただちにサダオに進軍してタイ国領からマレー領に向かい、チャンルンを占領。
ジットラの前哨陣地であるチチバジャグで初めて英軍と交戦。
昭和16年12月12日午前4時、夜襲をかけてジットラ陣地を占領する。
昭和17年1月11日、クワラルンプールを占領。
昭和17年2月、シンガポールを占領。
昭和17年3月、川村支隊に入って、フィリピンのパナイ島、ミンダナオ島に渡り、平定作戦に参加。
昭和17年7月、南海支隊に加わり、ポートモレスビー攻略作戦に参加。
ラバウルからニューギニアに上陸し、スタンレー山系のオーストラリア軍を撃破してポートモレスビーに向かうが、途中で突然の反転命令。
その後退中に敵に退路を閉ざされ、やむなくクムシ河を決死の渡河。
病気と飢餓で多くの犠牲者を出しながらギルワ陣地にたどり着くが、やがて敵の包囲の中、食糧も弾薬も尽きて全滅寸前に追い込まれる。

その後、一旦、復員し、平壌の第30師団の隷下となる。
昭和19年、ミンダナオ島から主力がレイテ島に上陸し、米軍と激闘。
昭和20年1月からカンギポット山麓で自活生活。
昭和20年6月時点での生存者は約100名。
昭和20年7月、最後の突撃を敢行し玉砕。
投降したのは15名のみ。


慰霊碑


東部ニューギニア方面戦没者 慰霊碑
(広島県福山市・備後護国神社


(平成22年5月2日)

碑文

我が歩兵第41連隊は太平洋戦争に於て遥か南溟の涯パプア、ニューギニアに転戦しオーエンスタンレーの峻険を踏破目指すポートモレスビーを指呼の間に望みながらも戦況我に利あらずして反転せり
人跡未踏千古斧を入れざる密林にて近代装備を誇る優勢なる米豪軍を腹背に受くるに至り孤立無援撃つに弾丸なく喰うに食なく傷病を癒すに薬なく人間生存の極限を超えたり
熾烈なる敵の銃砲火と飢餓によりて戦友等の斃れゆきし様相たるや壮烈悲愴現世にあらざる惨状にして筆舌につくし難し
唯々祖国日本の栄光と繁栄を念じつつ草むす屍と化せし2021柱の英霊の勇姿彷彿として今なお眼前に去来す
我等生き残りし者相集いてニューギニアに慰霊すること再三我等が慟哭を聴き給えりや
戦い終りて30有6年戦友等が死の間際まで求めてひそむ熄むことなかりし平和への願いをこめ漸く此の碑を建つ
御魂よ 此処に鎮まり給いて安らけく永久の眠りにつかれんことを祈る心や切なり
此の碑を後世に残して我等が平和希求の証とせん

昭和56年5月
歩兵第41連隊
東部ニューギニア戦友会

慰霊碑
レイテ、ミンダナオ島戦没者 慰霊碑

(広島県福山市・備後護国神社)

歩兵第41聯隊比島戦友会々長
元第3大隊長 高木治郎 謹書

(平成22年5月2日)

碑文

顧みるに わが歩兵第41聯隊は 過ぐる大東亜戦争に於て各地を転戦 昭和18年10月 東部ニューギニアより平壌に復員の後 新たに第30師団の第一線部隊として編成され 19年5月聯隊長炭谷鷹義大佐以下3千26名は比島に出動 ミンダナオ島の防衛に任ず
同年10月 米軍レイテ島に上陸するや 第1大隊及び第2大隊を基幹とする聯隊主力は急遽出撃 壮絶なる戦闘を展開するも 敵の厖大なる物量にわが善戦もついに力及ばず 20年7月 レイテ島カンギポットに於て聯隊長以下全員軍旗と共に祖国に殉じ また 第3大隊はミンダナオ島ワロエ付近にて優勢なる米軍と指呼の間に対峙 約半数の兵員を失ないてなお激戦中8月15日 終戦を迎え 聯隊は明治29年11月創設以来50年に亙る波乱と激動の歴史を閉ず
この間 瘴癘蔓延の密林に拠り 悪戦苦闘の末 祖国の勝利と平和を念じ 故郷の骨肉の上に万斛の思いを残しつつ比島の山野に散華せる2千4百有余名の戦友を想うとき 万感胸に迫り断腸の念に絶えず
ここに我等生還者及び有志相集い その昔 春秋に富む若き身を国難に挺して南海の異境に闘い 一命を祖国の尊き礎として捧げし戦友の御霊を招来し とこしえに鎮まりまさんことを祈念せんがため 碑を聯隊発祥の地 福山に建立す

昭和58年4月 歩兵第41聯隊比島戦友会

(側碑・碑文より)


【兵営跡】

兵営跡(緑町公園) 兵営跡(緑町公園)
兵営跡(緑町公園) 兵営跡(緑町公園)

(広島県福山市緑町9−5・「緑町公園」)

案内図


【歩兵第41連隊】

開戦と共にマレー半島に上陸後、シンガポール要塞の攻略戦に参加。
その後、東部ニューギニアのブナに上陸、南海支隊のポートモレスビー攻略の増援に赴いて、スタンレー山脈を辛うじて踏破し、勇戦したが補給が続かず、退いて海岸のブナで包囲され、全滅寸前を、少数の将兵が脱出して、生き残りの数十名が何とか軍旗を守り抜いた。
その後、フィリピンで戦力を回復して、米軍のレイテ島上陸に呼応して救援増派、翌昭和20年7月頃、連隊主力は再び米軍に包囲されて全滅した。

(参照:門脇朝秀 編著 『台湾高砂義勇隊〜その心には今もなお日本が〜』 あけぼの会 平成6年1月 発行)

(令和2年9月11日 追記)


【フィリピン・ミンダナオ島】

国立北スリガオ高校

国立北スリガオ高校
(フィリピン・ミンダナオ島スリガオ)

ここには当時、歩兵第41連隊第3大隊の大隊本部があった。


(平成21年10月25日)
日本将兵火葬の地・記念碑


日本将兵火葬の地・記念碑


旅日記

(平成21年10月25日)
碑文(日本語)
スリガオ・ヘリテージ・センター建之
碑に刻まれた文言は、スリガオと日本の研究者、ライターなどの丹念な共同調査の成果である。
調査と翻訳は、フィリピンと日本の草の根の友情に基づいて、非政府の市民団体で行われた。
日本将兵火葬の地
 第二次世界大戦(1941〜1945)中、フィリピンに侵攻した日本帝国陸軍は、スリガオに第30師団歩兵第41連隊第3大隊(大隊長近藤泰彦少佐)を配置した。師団長両角業作中将麾下の第30師団は、軍司令官鈴木宗作中将麾下のセブ駐留35軍隷下にあってミンダナオ地域唯一の正規編成師団であった。鈴木中将は1945年4月半ば、ミンダナオへの転進途上戦死した。
 第3大隊本部は、現在国立北スリガオ高校が立つこの地にあった。第二次世界大戦中、戦死した多くの日本陸軍及び海軍将兵がここで荼毘に付された。火葬場のような施設があるわけではなく、野天で焼かれた。当時同師団野戦病院に所属し戦後生還した平岡久氏によれば、この地はほかにもいくつかある戦死者火葬の地の一つである。
 同じく平岡氏によると、当初遺体はスリガオ共同墓地近くの丘の上で火葬されたが、スリガオのゲリラ抵抗勢力の襲撃を恐れて大隊本部近くに移されたという。1945年1月大隊主力がカガヤン・デ・オロに撤退(次いで5月、最後の戦いの場となる南アグサン州ロレト町ワロエに向かう)するまで、戦死した将兵は、その時々の可能な手段で主として夜間この地に運ばれ、荼毘に付された。
 1944年10月20日の連合軍のレイテ島タクロバン〜パロ〜ドラグ上陸に先立つ9月9日、ウィリアム・F・ハルゼー大将麾下のアメリカ海軍第38機動部隊は、スリガオを波状的に空襲した。当時スリガオの「裸足のゲリラ」であったラム・マクセイの証言によると、グラマン戦闘爆撃機約50機が飛来・空襲、港湾を破壊し、停泊中の日本帝国陸軍所属船舶、大小発動機艇、機帆船多数を沈めた。また第3大隊本部にも損害を与えた。マクセイはまた、この空襲ののち生まれて初めて日本人死者を見たと語っている。(2003年8月26日付け「サン・スター・ダバオ」紙ベン・O・テシオルナによるラム・マクセイの会見記事から)。公共建物だけでなく、個人の住宅も住人が追い出され日本軍に占有されていたため、空襲の目標になった。そのためスリガオ市街の半分が焼かれた。
 日本帝国陸軍は、ダバオ、サンボアンガ、カガヤン・デ・オロ、デル・モンテとともに、スリガオ港をミンダナオ島各方面への戦闘部隊上陸地点とした。南部ミンダナオのサランガニに配置された歩兵第74連隊もこの地からカガヤン・デ・オロを通過していった。また、荷揚げ・停泊港として、1944年5月20日上陸の船舶工兵第19連隊など戦闘支援協力部隊、同年6月22日上陸の輜重兵第30連隊など第30師団戦闘支援業務部隊、同年5月25日上陸の第4野戦病院、同年6月21日上陸の第2野戦病院など衛生部隊も利用した。第4野戦病院は本部をスリガオ港に近接する入江近くに置き、スリガオ公園に面したスリガオ・ローマ・カトリック教会を傷病兵の手術、治療に使用した。
 スリガオはまさに、第30師団隷下各部隊の各方面展開のための通過港として使用された。第30師団各部隊と協力部隊は、1944年5月20日、25日及びその後一連の上陸後の展開にあたって、当初ミンダナオ島東海岸に向かった。しかし、同年8月、目的地はミンダナオ北海岸に変更され、次にまた南方へと変更されたため、9月9日、アメリカ海軍第38機動部隊による空襲当日はスリガオで再展開の途上にあった。
 港と近くの砂州に部隊が集結し、軍需物資が集積されている状況下で、歩兵第77連隊は、船舶工兵第19連隊、第4野戦病院とともに被害を受けた。歩兵第74連隊所属各大隊はすでにスリガオを発ち、9月7日カガヤン・デ・オロに到着していたが、アメリカ機動部隊は9月9日同市をも空襲した。第77連隊は、空襲による被害にもかかわらず、所属2大隊をレイテ戦線増援に送り1大隊をミンダナオ中部マライバライに配置した。
 その後同年10月24日から25日にかけての歴史的スリガオ海峡海戦の間、日本海軍は多数の死者を出した。複数のスリガオ住民は、深夜から明け方にかけて300から500体の陸海軍将兵の遺体がここで焼かれたと証言している。さらに第3大隊は、スリガオ・アグサン地区のゲリラ抵抗勢力と以下の遭遇戦を行った。9月17日南スリガオ州タンダグにおいて、12月6日北アグサン州ブエナビスタにおいて、12月25日北スリガオ州ブラセル町バダスにおいて、また翌1945年2月3日から3月1日にかけて、南スリガオ州ヒナツアン町ポート・ラモンと北スリガオ州ブツアン市アンバヨンの間で、14回の小戦闘があった。4月9日、「裸足のゲリラ」ラム・マクセイの所属するリチャード・バートン中尉麾下の連隊戦闘中隊の兵300がスリガオに残留した第3大隊監視隊を攻撃した。さらに1944年10月20日頃から1945年初頭まで、強力なゲリラ勢力がブツアン駐屯の1中隊を包囲攻撃した。同中隊の将兵は長期の包囲戦に耐えた。
 おびただしい日本陸軍及び海軍の将兵が、第二次大戦中この地で焼かれた。マクセイの証言によると、第3大隊は戦場においても戦死者を焼いた。1944年後半のある時、マクセイは、第3大隊がギガキット町ドヤンガン山近くのバラン十字路附近で、ニッパヤシの空き家に20人を超える遺体を入れて焼いたのを目撃した。同大隊第9中隊は、スリガオと南スリガオ州カンティランとの間に展開しており、そこでの遭遇戦での戦死者と思われる。1945年春から夏への戦況の悪化に伴い、レイテからスリガオに渡った部隊を含め日本軍がワロエへ敗走した際は、倒れた将兵はその地に埋められるか、ただ棄ておかれた。
 この碑は、ミンダナオ島のこの地で戦いに倒れた日本陸軍及び海軍の将兵を追悼し、これら戦死者が安らかに眠り記憶にとどめられることを祈って建立される。これら将兵は、日本のために戦って倒れ、この地で焼かれた。
 これら将兵は、第35軍第30師団隷下全部隊と協力部隊に所属した。その多くは、すでにその名を記した第30師団各戦闘部隊に加え、捜索第30連隊、野砲兵第30連隊、通信隊、輜重兵第30連隊、兵器勤務隊、病馬廠及び協力部隊である船舶工兵第19連隊に所属する9月9日空襲による戦死者である。さらに、連合艦隊の第1遊撃部隊のうち西村祥治中将麾下の第3部隊(旗艦戦艦山城、戦艦扶桑、重巡洋艦最上、駆逐艦朝雲、満潮、時雨、山雲)、志摩清英中将麾下の第2遊撃部隊(旗艦重巡洋艦那智、重巡洋艦足柄、軽巡洋艦阿武隈、駆逐艦曙、霞、不知火、潮)に所属する将兵であった。
 スリガオ海峡海戦の間、幾百もの第1遊撃部隊西村艦隊将兵の遺体がスリガオ海岸に漂着した。この海戦は戦力互角の両艦隊によるものではなく、戦力において圧倒的に勝るアメリカ海軍による殲滅戦であった。おとり役の西村艦隊の司令官西村中将は、スリガオ海峡で待ち伏せしたアメリカ海軍により、旗艦戦艦山城もろとも海峡の海底の藻屑と消えた最高位の戦没者である。第2遊撃部隊の志摩艦隊は、ジェシー・B・オルデンドルフ少将指揮するアメリカ艦隊のわなに陥らず、さしたる交戦をすることなくマニラに帰還、最低限の犠牲に留まった。
 我々はここに、再び戦争が起こることがないようにと、フィリピンと日本、両国間の恒久の平和を祈る。また、平等と相互の信頼と尊厳に基づいた両国間の和解、調和、協力、対話、友情の促進のために常日頃そして永久に献身する。この碑建立は、国民相互の草の根レベルの友情を示すものとして、公式の外交ルートでない国民と国民の関係、市民の責務として着手された。2006年8月19日から23日まで、日本学術振興会研究助成事業「千年持続学の確立」プロジェクト研究(人文・社会科学振興プロジェクト研究事業)、筑波大学、スリガオ・ヘリテージ・センターの共催により当地で開催された「文化価値と持続可能性に関するスリガオ国際会議」の成果の一つである。碑文の正確を期すため資料を提供し詳細な調査を行った多くの人々に友情をこめて感謝する。

2006年10月25日 建立
フィリピン共和国スリガオ市バイバイ・パローラ、スリガオ博物館内
スリガオ・ヘリテージ・センター

理事長 イレネッタ・C・モンティノーラ 博士
創立者・館長 フェルナンド・A・アルメダ・JR.



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