山下奉文 やました・ともゆき

明治18年(1885年)11月8日〜昭和21年(1946年)2月23日


高知県出身。
陸軍大将。
陸軍士官学校(第18期)・陸軍大学校卒。
陸軍省軍務局課員、オーストリア大使館付武官を経て、昭和5年(1930年)歩兵第3連隊長。
ついで陸軍省軍事課長、陸軍省軍事調査部長などを歴任。
皇道派系の軍人として2・26事件では青年将校寄りの行動を取る。
昭和16年(1941年)第25軍司令官となり、大東亜戦争(太平洋戦争)開戦とともにシンガポール攻略を指揮。
昭和19年(1944年)フィリピン防衛の第14方面軍司令官。
敗戦後、絞首刑。62歳。


【フィリピンに着任】

山下は着任後、宇都宮直賢(参謀副長・軍政監部総務部長、のち大使館付武官))に向かって「比島の治安がこんなに悪化していようとは夢想だにしなかった」と言い、シンガポールでは華僑を含むゲリラとその容疑者を「徹底的に掃滅」させたため、「治安に太鼓判を押すことができた」のに、このフィリピンの有様は「軍政時代に和知(参謀長)と君が比島人をすっかり甘やかしたせいだ」として、宇都宮を「ダラ幹」と呼んで「びっくり」させた。
村田省蔵(軍政最高顧問、のち駐比全権大使)に対しても山下は、フィリピン人が全く協力しないどころか敵に通じるものが大部分であるとして「3年近い歳月を費やして一体なぜこのような結果になったのか」を訝った。

(参考:池端雪浦 著 『日本占領下のフィリピン』 岩波書店 1996年7月 第1刷発行)

(平成29年1月29日・追記)


【戦犯裁判】

マッカーサーによる山下奉文と本間雅晴の裁判に関していうと、裁判の結果が正しいかどうかを論じる以前に、そのプロセスが著しく公正さを欠いたという点では、日米共にほとんどの著書が同意見である。
たとえばウィリアム・マンチェスター著『ダグラス・マッカーサー』では、この裁判は正義の名を辱めるカンガルー法廷によって裁かれ断罪されたとまで書かれている。
カンガルー法廷とは、現存する法律の原則や人権を無視して行われる私的な裁判を指す。
なぜなら、この法廷では裁判官は3名の少将と2名の准将だった。
出世を願う陸軍士官は、マッカーサーが自分たちに期待している任務を間違えるはずがなかった。
つまり、初めからマッカーサーは、山下奉文と本間雅晴に極刑を望んでいたのである。
山下への判決が下ったとき、「ニューズウィーク」の特派員は、「軍事委員会はこの法廷に入った1日目から、全員がその結論をポケットに入れていた」と論評した。
特派員たちの間で判決の予想について賭けをしたところ、12人の記者全員が死刑の側に賭けた。

(参考:工藤美代子 著 『マッカーサー伝説』 恒文社 2001年11月第1刷発行)

(平成29年5月4日 追記)


『将軍山下奉文終焉之地』の碑 2003年5月1日訪問当時
将軍山下奉文終焉の地碑



『将軍 山下奉文終焉之地』の碑

(フィリピン共和国ルソン島・ロスバニオス)

旅日記参照)



(平成18年11月2日)
プレート

プレート

(碑文)
日本国陸軍大将
山下奉文
此処に眠る

瀬島龍三謹書

(平成18年11月2日)



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