山下奉文 やました・ともゆき

明治18年(1885年)11月8日〜昭和21年(1946年)2月23日


高知県出身。
陸軍大将。
陸軍士官学校(第18期)・陸軍大学校卒。
陸軍省軍務局課員、オーストリア大使館付武官を経て、昭和5年(1930年)歩兵第3連隊長。
ついで陸軍省軍事課長、陸軍省軍事調査部長などを歴任。
皇道派系の軍人として2・26事件では青年将校寄りの行動を取る。
昭和16年(1941年)第25軍司令官となり、大東亜戦争(太平洋戦争)開戦とともにシンガポール攻略を指揮。
昭和19年(1944年)フィリピン防衛の第14方面軍司令官。
敗戦後、絞首刑。62歳。


【2・26事件前夜・山下奉文の評価】 

新井中尉の著書によると、大体(※昭和11年の)1月末か2月早々と思われるが、安藤大尉(※安藤輝三大尉)が、歩三(※歩兵第3連隊)の新井、坂井両中尉を始め若い将校15〜6名を連れて、山下奉文少将の自宅を訪問している。
当時、軍事調査部長であった山下少将は、皇道派の有力者として軍中央の情勢にも明るく、内外諸施策にも詳しく、また、山下自身革新への抱負もあるだろうと期待されていたのである。
安藤大尉らの質問に対して、山下少将は一見大物的風貌で悠然と応えてゆく。
陸軍士官学校事件では、「永田(※永田鉄山)は小細工をやりすぎる。小細工はいけない。大鉈で行け」
岡田内閣はどうですかと質問すれば、「岡田なんかぶった斬るんだ」と応える。
新井中尉は部下に責任のない職務に就くと、こんなに無責任になるものかと驚いている。

市倉徳三郎著『憂国の奇人伝』でも、血盟団の同志をかくまってやった安藤中尉を山下大佐は不問に付し、安藤を通じて金まで与えていたという。
歩三の革新派青年将校が山下少将に期待した気持ちはわかるが、これでは新井中尉が山下奉文少将の脳味噌はカラッポであるというのも当然であろう。

安藤大尉以下歩三の革新派青年将校にとって、この日の訪問は、山下奉文の人物の奥底をかいまみたことで収穫だったはずである。
新井中尉の山下奉文評がそのとおりだったとすれば、初めから頼りにしたり当てにしてはならなかったのである。
だが一説では、山下奉文少将との会談で、歩三の革新派青年将校は意を強くして喜んだともいわれている。
そういう一面もあったことは否定できないだろう。

(参考:芦澤紀之 著 『暁の戒厳令〜安藤大尉とその死〜』 芙蓉書房 昭和50年 第1刷)

(平成29年9月9日 追記)


【幕僚ファショ】

昭和13年秋、私は上海、北支方面の情況視察の旅に出た。
私は軍司令部に寺内元帥を訪問した。
いつもの通り極めてほがらかであり、童顔を輝かしていた。
参謀長は山下中将であり、参謀副長が武藤(章)大佐であった。
山下と武藤のコンビ、これは彼らの立場においては名コンビであり、我らの立場においては悪コンビであった。
それは、両人共に鼻っ柱が人並外れて強く、いわゆる積極論者であり、全然幕僚型ではないのである。
幕僚型とは必ずしも御殿女中であるべきではないが、主人を尻に敷くのでは困るのである。
それを幕僚ファショとも言う。
寺内将軍は「政子」と「淀君」とを同時に持ったのであり、彼が堂々たるロボットとなり終ったことは当然であり、中央部人事の不明を物語るものである。

当時中央部の心配していたことは、イギリス租界閉鎖などと、北支軍が謀略的活動に憂き身をやつし、いたずらに英米を刺激することにあった。
私がこの旨を伝えると、山下は「中央部はもっと大きいことを考えるべきであり、そんな小さな問題は出先に任すべきだ」と主張するのであった。

(参考:樋口季一郎 著 『アッツ、キスカ・軍司令官の回想録』 昭和46年10月 第1刷発行 芙蓉書房)

(令和元年12月14日 追記)


【山下奉文と東条英機】

昭和14年、天津英国租界の封鎖事件が起こったが、これが解決しないうちに、山下奉文は第4師団長(大阪)に任命された。
しかし、第4師団は満洲移駐となり、北支の佳木斯(チャムス)に飛ばされた。
同師団の前任者は、山下の無二の親友・沢田茂(参謀次長に栄転)だったが、沢田は山下の“田舎まわり”が、いかに人材の浪費であるかを痛感して、翌15年7月、山下を2・26事件後はじめて中央に呼び返し、航空総監兼航空本部長に迎えた。
この航空総監の前任者は東条英機で、東条は沢田から後任は山下と聞いて、イヤな顔をしたという。
東条は板垣征四郎・新陸相の下に、陸軍次官となり、やがて陸軍大臣になる希望を強く抱いていたのに、ライバルである部内で評判の良い山下が、中央の要職に復帰したからであった。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

(令和元年5月7日 追記)


【戦争拡大に反対】

昭和15年9月、日本軍が無謀にも北部仏印に進駐した時、山下は沢田参謀次長に、「おい、あまり手を広げるな」と厳しく忠告した。
山下が太平洋戦争に心から反対していたことは、これでもわかるが、日本の国運を精妙かつ大局高所から見極めていたのは、石原莞爾(その後、参謀本部作戦部長から関東軍参謀副長に左遷)と山下の二人ぐらいであったのは、わが陸軍にとってさみしい限りであった。
同年9月27日、日本にとって最大不幸であった日独伊三国同盟が締結され、山下の憂慮はいよいよ深刻となった。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

(令和元年5月7日 追記)


【軍事視察団長】

ドイツの招待によって、山下は独伊へ軍事視察団長として出発した。
この山下の軍事視察団こそ、日本の運命が根本的に決定した重大事件であったことを、すべての昭和史家は見落としている。

山下がヒトラー総統に会見した時、「日本はすみやかに米英に対して宣戦布告するよう」ヒトラーから強く要請されたのに対して、山下は、断固これを拒否している。
「その申し出はお断りする。日本は今や支那事変こそ、すみやかに終結したのち、ソ連の侵略に応ずる準備を完成しなければならぬ。目下の日本は米英に対し、戦争を敢行し得る状態ではない」と明言している。

山下は、昭和16年7月(太平洋戦争勃発のわずか5ヵ月前)、陸軍大臣官邸で、独伊軍事視察の報告をした。
1、わが国の空軍兵備は列強に比して劣っている。
2、地上兵備は、中型戦車に重点を置く。その他の部隊も機械化を大幅に採用し、スピードを増し、装甲を厚くする。
3、落下傘部隊をすみやかに編成する。
山下の結論は、「日本陸軍の兵備は時代遅れで、対ソ戦も思いもよらぬことで、今は隠忍自重して、軍の近代化を図るべきである」との千鈞の重みをもっていた。

また、独ソ戦争(独ソ不可侵条約が存在していたにもかかわらず)が勃発したのは、山下の一行がウラル高原(欧亜の境界)を越えるところであったが、山下は旅順において、次のように対ソ作戦第一主義を一行の全員に訓示している。
「諸君は、近く大本営その他の本務に復帰するであろうが、ここで諸君に厳に申しておく。諸君は、絶対に日独伊三国同盟を拡張解釈して、米英に対して宣戦すべしなどとかりそめにも言ってはならぬ。視察の結果は諸君の見られた通りである。我が国としては、決して他国(ドイツ)を頼ってはならない。日本は今こそソ連に備えて、すみやかに国力を整備し、軍備を立て直させなくてはならないのである。このことをしかと戒めておく」と。
山下が反英米ではなく、反ソ第一主義であったことを証拠立てている。

しかし、これらの山下の報告は、杉山参謀総長も、東条陸相その他幕僚も聞いていたのに、まったく「馬の耳に念仏」で、日本の陸軍は、北進どころか、海軍の謀略に引っかかったのか、ストレートに南進に突っ走ってしまった。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(下巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷)

(令和元年5月7日 追記)


【フィリピンに着任】

山下は着任後、宇都宮直賢(参謀副長・軍政監部総務部長、のち大使館付武官))に向かって「比島の治安がこんなに悪化していようとは夢想だにしなかった」と言い、シンガポールでは華僑を含むゲリラとその容疑者を「徹底的に掃滅」させたため、「治安に太鼓判を押すことができた」のに、このフィリピンの有様は「軍政時代に和知(参謀長)と君が比島人をすっかり甘やかしたせいだ」として、宇都宮を「ダラ幹」と呼んで「びっくり」させた。
村田省蔵(軍政最高顧問、のち駐比全権大使)に対しても山下は、フィリピン人が全く協力しないどころか敵に通じるものが大部分であるとして「3年近い歳月を費やして一体なぜこのような結果になったのか」を訝った。

(参考:池端雪浦 著 『日本占領下のフィリピン』 岩波書店 1996年7月 第1刷発行)

(平成29年1月29日・追記)


【戦犯裁判】

マッカーサーによる山下奉文と本間雅晴の裁判に関していうと、裁判の結果が正しいかどうかを論じる以前に、そのプロセスが著しく公正さを欠いたという点では、日米共にほとんどの著書が同意見である。
たとえばウィリアム・マンチェスター著『ダグラス・マッカーサー』では、この裁判は正義の名を辱めるカンガルー法廷によって裁かれ断罪されたとまで書かれている。
カンガルー法廷とは、現存する法律の原則や人権を無視して行われる私的な裁判を指す。
なぜなら、この法廷では裁判官は3名の少将と2名の准将だった。
出世を願う陸軍士官は、マッカーサーが自分たちに期待している任務を間違えるはずがなかった。
つまり、初めからマッカーサーは、山下奉文と本間雅晴に極刑を望んでいたのである。
山下への判決が下ったとき、「ニューズウィーク」の特派員は、「軍事委員会はこの法廷に入った1日目から、全員がその結論をポケットに入れていた」と論評した。
特派員たちの間で判決の予想について賭けをしたところ、12人の記者全員が死刑の側に賭けた。

(参考:工藤美代子 著 『マッカーサー伝説』 恒文社 2001年11月第1刷発行)

(平成29年5月4日 追記)


『将軍山下奉文終焉之地』の碑 2003年5月1日訪問当時
将軍山下奉文終焉の地碑



『将軍 山下奉文終焉之地』の碑

(フィリピン共和国ルソン島・ロスバニオス)

旅日記参照)



(平成18年11月2日)
プレート

プレート

(碑文)
日本国陸軍大将
山下奉文
此処に眠る

瀬島龍三謹書

(平成18年11月2日)



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