9.シンガポールに行く

(クランジ海岸・旧フォード自動車工場・ブキテマ高地)


平成26年(2014年)6月11日・第5日目

午前10時、マレーシアの出国手続き・・・・

ここで思い出すのは34年前の出来事である。
この時、私は鉄道でクアラルンプールからシンガポールに向っていた・・・
ジョホールバルの駅で税関職員が列車に乗り込んできて全員のパスポートを集めた。
で・・・まもなく、私が呼び出された・・・(汗)
「荷物を持ってホームに下りてください」と言う。(唖然)
「すでに出国していなければならないのに、何でまだマレーシアにいるのか?」と言うのである。(大汗)
つまり・・・私は“不法滞在”しているというのである!!(驚)
パスポートに書き込まれた滞在日数を越えて滞在していることになっているそうだ。(唖然)
どうも、ペナン島の空港で入国審査を受けたときに係官が記入した日付に問題があるらしい。
あの職員め!間違った日付を記入しやがって!
と・・・思ったが・・・
まぁ、彼の質問が聞き取れず、何でもかんでも「イエス!イエス!」と答えてしまった私にも問題があろうが・・・(大笑)
そこへ、胸に勲章(?)を一杯付けた偉そうな係官(?)がやってきて、勿体つけて私のパスポートを眺めた。

と・・・・なんと!・・・・発車のベルがホームに鳴り響いたのである!!(うそぉ~!)
ヤバイ、ヤバイ・・・(大汗)
「ツアー旅行なのに俺だけが滞在予定の日数が違うと言うのはおかしいでしょ?これは入国の時のミステイクです」と必死に説明した。
この偉そうなオジサンが、無表情のまま、ササッと何かをパスポートに書き込み・・・・「行って宜しい」と言う。
が・・・・列車は走り出してしまったのである!!(唖然)
今はどうかは知らないが、当時の客車のドアは手動式だったので、友人たちがドアを開けて待っていてくれた。
1ヵ月間の海外研修旅行であるから、私のスーツケースは特大のサイズ・・・・
これを持ってホームを走り・・・・スーツケースを客車に投げ込む!
続いて、ショルダーバッグを投げ込み、私は客車と平行にホームを走る!!
ヤバイ、ヤバイ!!・・・ホームがなくなる!・・・ホームの残りは、あとわずか!
で・・・タイミングを見計らって、列車に飛び乗った!!
まるでアクション映画のようである。(大笑)
今考えても、よくあんなことが出来たものだと思う。(苦笑)
無事に“生還”し、車内は大拍手と大爆笑!!
さすがはアメフトの選手だと変な褒められ方をされた・・・(大汗)
今でも忘れられない思い出である。(大汗)

今回は陸路での出国だが・・・・
これが鉄道だったらなぁ~
あの時走ったホームの写真・・・・撮りたかったなぁ~(大笑)

午前10時15分・・・
ジョホール水道の陸橋を渡って対岸に向う。

シンガポール側で、今度は入国審査・・・・
全ての荷物を持って行く。

シンガポールでは、酒とタバコに高額な税金がかけられるという。
そのため、これらの持込には注意を要す。
日本人の審査は、他の人種の方々と比較すると、それほど厳しくはないようであるが・・・・
もし、隠し持って納税を免れようとしたのが見つかったら、かなりトンデモナイ目に遭うらしい。(大汗)
私の場合は、言うまでもなくタバコが引っかかる・・・・(苦笑)
というわけで・・・・マレーシアではタバコを“計画的”に吸い・・・(大笑)
残り1箱・・・というところで、シンガポールに入国!(大笑)
この1箱も封を切り、1本吸っておいたので、本数で言うと1箱(20本)ではなく、19本である・・・・(笑)
で・・・・ガイドさんに案内してもらい納税申請カウンターへ・・・・
「申請するのはタバコ1箱です!封を切って1本吸ってます!」
で・・・・それなら、納税の必要なし(?)(まぁ~いいかぁ~という態度・・・)ということで、税金を払わず無事に通過できてしまった。(唖然)

 シンガポールからジョホールバルを見る

これから「KRANJI BEACH」(クランジ・ビーチ)に向う。
そこは近衛師団が上陸した場所である。
時刻は午前11時10分・・・・

 KRANJI BEACH (クランジ・ビーチ)

「ビーチ」と言っても、砂浜があるわけではない・・・
そこは、“水辺の公園”という感じである。
ここに史跡の説明碑が建っていた。


KARANJI BEACH
BATTLE
On this shoreline,between the Kranji
River and the Causeway,troops of the
27th Australian Brigade and Shingapore
volunteers of Lieutenant-Colonel
Dalley’s DALFORCE scored a victory
against the invading Japanese troops.

On the morning of 10th February 1942,
troops from the 4th Regimentof the
Japanese Imperial Guards landed when
the tide was low.They were stuck in
the mud and were caught in oil slicks
created by Allied troops,releasing oil
from the nearby Woodlands depot.

The first waves of Japanese troops were burnt when Allied
forces set fire to the oil.

However,for fear of being cut off by the Japanese landing from
the west at Sarimbun and Jurong,the Australian troops and the
DALFORCE vplunteers were ordered to withdraw south,thus
allowing the Japanese to land and consolidate their invasion of
Shingapore.

(説明板より)

ありがたいことに、日本語でも説明されていた。


クランジ海岸の戦い

1942年2月10日朝、侵攻する日本軍干潮に乗じてこの海岸線に上陸した。混(筆者注:泥?)に足をとられた
将兵らは英軍が流した油の中で立ち往生した。第1陣は英軍が油に放った火にたっと(筆者注:よって)撃退された。

しかし、サリンブンとジュロンに上陸しつつある日本軍に退路を断たれる恐れから、英軍連合部隊に
南方退却が命じられた。こうして日本軍は上陸を果たし、シンガポール侵攻の足場を固めた。

(説明文より)

英文を要約したもので、日本文はかなり短く、さらに多少の誤字が見受けられるが・・・・意味はわかる。(笑)

当時のシンガポールはスマトラ産の石油の貯油地で、大量の石油を貯蔵していた。
英軍がこの多量の石油をジョホール水道に流して点火したら、日本軍の渡過は困難となることは日本軍も想定していた。
そのため、日本軍はクアラルンプール占領直後に、同地の湖沼で研究演習を行い、その様相と対策を研究している。

日本軍は、軍砲兵隊、師団砲兵隊など、砲兵の支援砲撃の下、第18師団第5師団が2月8日の夜に渡河を開始。
近衛師団は、これらの部隊が使用した舟艇を回してもらい、翌9日の夜に渡河を開始する。
が・・・予定通りに事が進まない。
予定の舟艇が必要数集まらないとかで混乱・・・・
ようやく渡河をしたが、恐れていた通り、水道に油が流され火をつけられた。
この時、前線から1個連隊が火炎のため全滅したとの報告が入る。
これに驚き、さらに師団は混乱をきたす。
実際は、数名の犠牲者が出ただけで、部隊は無事に渡河している。

この地の説明文では「撃退した」と書かれているが・・・・
どうしてそう書かれているのかが、よくわからない。
「撃退」はされず、無事に岸に辿り着いているはずなのだが・・・・(汗)
とは、いうものの、接岸時に舟艇から水に飛び込み、重油で顔も服も真黒になっての上陸だが・・・

「エリート」集団の近衛師団は、当初、師団の兵力不足と疲弊を訴え、第ニ線部隊(後方)配置を希望していたが、いざ、戦闘開始という時になって、今度は一転して第一線部隊(最前線)配置を望んできた。
手柄が欲しくて気が変ったか?・・・・と嘲笑されても仕方がないかもしれない。
が・・・舟艇での輸送を担当する工兵部隊との打ち合わせが全く出来ていなかったため、渡河の時には大混乱を起こす。
そこに火炎から脱出してきた一人の下士官による「連隊が全滅した」という誤報で、師団司令部がビビッてしまい、軍司令部に泣きつくという失態を演じている。
これでは格好がつかない・・・・“エリート師団”としては面子丸つぶれである。
その一因は、師団長と参謀長の人間関係が悪く、意思の疎通ができていなかったことにあると言われている。
この作戦後、西村師団長は予備役となり、今井師団参謀長は中国戦線の連隊長に左遷されたという。

上陸地の海岸

ここから対岸のジョホールバルを見ると・・・・
王宮の建物が良く見えた!

対岸のジョホールバルの旧王宮

こちら側には、英軍の野戦砲兵部隊も配置されていたはずで・・・・
かなり激しい砲撃をジョホールバルに撃ち込んでいたはずだが、まさか、こちらから丸見えの、あの王宮の建物に日本軍の軍司令部が置かれていたことは知らなかったらしい。
狙い撃ちにしていたら、山下軍司令官は戦死していたかも・・・・(汗)
運が良かったと言うか何と言うか・・・・

ちなみに・・・・
ジョホールバルでこちら側を見た、あの歩道橋も見える。
あらら・・・・すごい・・・・丸見えである。(苦笑)
当時も、英軍は、こっちから日本軍の動きを見ていただろうなぁ~

時刻は午前11時半を過ぎた・・・・

次に向かったのは『旧フォード自動車工場』・・・・
私にとっては、念願の・・・といっていい訪問地なのである!
今から34年前・・・・(大笑)
この前の道を我がツアーバスは走っていた・・・
当時はもっと道幅が狭かったような気がするし、建物はもっと高台にあったような気もするが・・・
まぁ、34年前の記憶なんて当てにはならないか・・・(汗)

 旧フォード自動車工場

上の写真の向うからこちらに向ってこの道を走っているときにガイドさんが説明してくれたことは今でも鮮明に覚えている。
「右手の高台にフォード自動車工場があるんですが・・・ちょっと見えないですかね?山下将軍とパーシバル将軍が、ここで降伏の会談を行なった場所です。ちょっと木が邪魔で見えないですかねぇ~」と言った・・・・
おお!あの有名な「イエスかノーか」と山下将軍が迫った場所だ!
必死になって窓から上を見上げたが森に遮られ、建物がチラリと見えたような気もするが・・・という程度・・・
あっという間にバスは通過!
あ~!残念!!(涙)

どうして見学コースに含まれてなかったんだろう。
当時、ここを見学できたかどうかはわからないが・・・
34年前はただの廃屋だったのかもしれないが、建物だけでも見てみたかったなぁ~
悔しいなぁ~・・・・という思いが今までずっと続いていたのである。
現在、この建物は博物館となって一般に公開されているとのこと。
ついに念願かなって見学できるとは!(大喜)
大感激!!

看板は4ヶ国語で書かれていた。
が・・・・その4ヶ国語の中に日本語は含まれていない!(唖然)
一番上は中国語で、続いて英語、マレー語、そして一番下は多分インドのヒンズー語かタミール語だと思うが・・・
おい、おい、日本語はどこへ行った?(汗)
ここは、我が日本軍があの紳士面した腹黒いイギリス人を打ち負かした記念すべき場所なのである!(大笑)
日本語が見当たらないということは、日本人観光客は滅多に来ない場所ということなのか?
我が日本にとっては「戦勝記念」の地なんですけど・・・
日本の旅行業界は何を考えておるのかね?
ここをツアーのコースに含めていないのか?
買物ツアーとグルメツアーばかりやって歴史を勉強しないから日本人はバカばかりになるんだよなぁ~
勝った歴史も負けた歴史も両方勉強すべきである!


THE OLD FORD FACTORY
The Ford Mortor Factory began its illustrious history
in October 1941,as the first Ford vehicle assembly
plant in southeast Asia.Situated in a location close
to the Malayan railway line,it allowed for
transportation of goods to and from the docks at
Tanjong Pagar.Its close proximity to Bukit Timah Road,
the main road linking Singapore to Malaya,
and ultimately to the rest of mainland Southeast Asia,
also provided an alternate transport route.

During the Malayan Campaign,the Factory’s modern
assembly equipment was used by the Royal Air Force
to assemble fighter planes.The planes came in parts
that were shipped to Singapore in crates,However,
most of these aircraft never fulfilled their destiny of
defending Malaya.They were flown out of Shingapore
towards the end of January 1942,when prospects for
Singapore looked bleak.

The Ford Motor Factory most notably served as the
venue for the formal surrender of Malaya by the
British General Officer Commanding Malaya,
Lt.-Gen.Arthur Ernest Percival,to the Japanese
Commander of the 25thArmy,Gen.Yamashita Tomoyuki.

In the final tense hours before the surrender on
15 February 1942,Yamashita waited at the Factory
while Percival and his aides discussed their options
at the Battlebox,a bunker at Fort Canning.Percival
and his troops then set off on their journey from
Fort Canning Hill to the Ford Motor Factory

The British surrender marked the decline of the
British empire in Asia and the begining of the
Japanese Occupation,the darkest period in
Singapore’s modern history.

During the Japanese Occupation,the Factory was
designated as a butai or Japanese facility.Nissan,
which was then a prominent zaibatsu or Japanese
multinational company,took over the plant to
assemble military trucks and other vehicles for the
Japanese occupying forces.

The Ford Motor Factory resumed operations after the
war in 1947 and was finally shut down in june 1980.
Remains of the Factory were gazetted as a national
monument on 15 February 2006.

(説明板より)

 旧フォード自動車工場

フォード自動車工場の古写真

英文の説明板を意訳してみると・・・・(日本語の説明板も併設していただきたいものである!)
このフォード自動車工場の歴史は1941年(昭和16年)10月から始まる・・・という。
この工場はフォードが東南アジアで最初に作った自動車組み立て工場である。
マレー鉄道にも近く、港からの部品の輸送にも便利な場所で、マレーシアとシンガポールを繋ぐ幹線道にもつながる立地条件のいい場所だったため、ここに作られたらしい。
日本軍のマレー進攻作戦の時には、この工場は英空軍の戦闘機を組立てる工場として使われたらしい。
戦闘機は部品として木箱に入れられシンガポールに船で運ばれ、この工場で組み立てるという形だったらしいが、そのほとんどはマレーシアの防衛には間に合わず、役には立たなかったようである。
1942年(昭和17年)の末、日本軍がシンガポールの目前に迫った時には、彼らはここから飛び立ったか逃げ去ったか(笑)・・・したらしい・・・
フォード自動車工場は、降伏するイギリス極東軍(マレー軍)司令官のパーシバル将軍と日本の第25軍司令官である山下奉文(ともゆき)将軍の正式な降伏会場として使われた。
1942年(昭和17年)2月15日、降伏するまでの緊張した最後の数時間、山下将軍はこの工場で彼らを待ち、パーシバルとその幕僚たちはフォート・カニングの地下要塞で議論をしていたそうである。
そして、パーシバルたちはフォート・カニングからフォード工場までやってきたという。
英国の降伏による大英帝国のアジアにおける凋落と日本軍の占領は、シンガポールの近代史の暗黒の時代である・・・と書いてある。
「darkest period」っていうんだから、「もっとも暗い時代」・・・ということでしょう?
う~ん・・・そこまで言わなくてもいいんじゃないの?“最上級”を使っちゃう?(汗)
日本の統治時代は、本当に「暗黒の時代」だったのだろうか?
日本の占領時代は、フォード工場は「butai(部隊)」として、もしくは補給基地として使われていたという・・・
この「ブタイ(部隊?)」の意味がわからないが・・・・
「部隊」という日本語を特別なものとして勘違いして使っているような気もしますが・・・(汗)
日本の著名な「zaibatsu(財閥)」である「Nissan(日産)」が、この工場を引き継ぎ、ここで軍用トラックなどの車輌を組み立てていたという。
う~ん・・・簡単にいうと「部隊」と呼ばれる工場で「日産」が軍用トラックなどを組み立てていた・・・ということになるが、日本人にもこの「部隊」の意味が理解できませぬ・・・・
こりゃ、中国人が作った文章か?(大笑)
このフォード工場は戦後の1947年(昭和22年)にフォードの自動車組み立て工場として作業が再開されたそうで、1980年(昭和55年)6月に最終的に工場は閉鎖されたという。

あら・・・
私がこの工場の前を通過したのは、1980年の夏である・・・・
ということは、工場が閉鎖されて2ヵ月後くらいに、この前を通過したということか・・・
ということは、見学したくても見学は出来なかったわけか・・・(苦笑)
そして、解体されず残されたこの工場跡は2006年2月15日に「ナショナル・モニュメント」として公示された・・・とある。
つまり、2006年に史跡として指定されたということのようである。

現在、この建物は資料館として活用されている。

パーシバル将軍(左)と山下将軍(右)の銅像なども置かれていたが・・・・
山下将軍の顔は、似ても似つかないという顔・・・いったい誰をモデルに作ったんだろう?(大汗)


Lieutenant General Yamashita Tomoyuki
Known as the “Tiger of Malaya”for his victorious
campaign against the British in Malaya,yamashita
was regarded by many as a man of foreboding
presence.

“He was very fierce-looking,I remember that.Very
fierce-looking.And he was the first officer that we
had seen actually.He was not very tall,very
stocky.Of course he wore the jack boots.When
he went round the ward,he was striding round
and his sword fluffing at his side.And it was rather
frightening.”
Dr.Robert Brown,a POW during the
Japanese Occupation
Following the Japanese Surrender in 1945,
Yamashita was tried and sentenced to death in
Manila,Philippines for war crimes relating to the
Manila Massacre

(説明板より)

ここには、山下将軍とパーシバル将軍が会見した部屋が保存されているようである。
英軍の降伏の様子が英文で(!)詳しく書かれた説明板なども展示されている。
日本語じゃないから読むのに時間がかかるので、なんとも面倒くさい・・・・
見学時間は限られている・・・・
あ~あ~・・・・これがツアーじゃなくて、個人で来ていれば半日ぐらいかけて、じっくりと見学ができるんだけどなぁ~(涙)


The British Surrendered
Percival and the other commanders of “Fortress
Singapore”started their “Black Sunday”with an
early morning communion service at Fort Canning,
thereafter they met to decide the fate of Singapore.

0930:The meeting reviewedthe military
situation and discussed the next course of
action.Brig.Ivan Simson,director of civil
defence,revealed that the water supply could
be cut off within 24 hours as Japanese troops
had captured Bukit Timah.Ammunition for
the British forces was running low.

When Percival reiterated that he was asked
to hold the enemy for as long as possible,
Lt-Gen.Lewis Heath sharply reminded him
that the only course was to surrender,that he
should have done so two days ago.Heath’s
view was concurred by Maj-Gen.Gordon Bennett,
commander of the Australian Imperial Force.
The others present either remained silent or
agreed.It was then decided that a deputation
should immediately be sent to the Japanese
to propose a cessation of hostilities and to
invite a Japanese deputation into the city to
discuss terms.Meanwhile,all secret and
technical equipment,cyphers,codes and secret
documents were to be destroyed before 1930,
the time set for the cessation of hostilities.

1115:The British deputation made up of
Brig.T.H.Newbigging,Colonial Secretary
Hugh Fraser and Maj.Cyril Wild,the interpreter
who had been a pre-war businessman in
Kobe,set forth to the enemy’s frontline.the
journey took nearly two hours as the roads
were badly damaged by shelling.

A section of Bukit Timah Road Road between
Adam Road and the Ford Motor Factory had
also been mined.

1145:Percival reported to the Governor at
the Singapore Club in Fullerton Building on
the decision to surrender.

1300:A sentry of the Japanese 18th Division
stationed along Bukit Timah Road spotted
the British deputation carrying a white flag
and the Union Jack.The group was mobbed
by Japanese cameramen wanting to have
their photos taken,before being escorted
to Lt-Col.Sugita Ichiji,who was an attache
in the US,now the Intelligence Officer of
25th Army.

1400:Sugita signalled Yamashita’s
headquarters at the Ford Motor Factory for
instractions.Yamashita noted in his diary:

“When the message came of the enemy
surrender I was very cautious about it.
I was afraid it might be a trick.I ordered
the British commander with his chief of
staff and interpreter to meet me at 1800 hours.
I also ordered a guard of one thousand armed
soldiers to protect us at the meeting place.”

Sugita handed Yamashita’s instructions to the
British deputation together with a Japanese flag.
The British were to hoist the flag at Cathay
Building as a sign of good faith.

1415:About 2,000 British soldiers already
laid down their armsto Lt.Ochi Harumi of
5th Division near Keppel Harbour.

1600:British deputation returned to
Fort Canning and prepared to go out again with
Percival,as the surrender party.

1700(Tokyo time 1830):British surrender
party led by percival,including Wild (carrying
the UnionJack),Newbigging and chief of
Staff,Brig.K.S.Torrance arrived at Ford Motor
Factory,half an hour late.Malay nationalist
Mustapha Hussain,who witnessed this,wrote
in his memoir that he saw a Ford V8 driven
by a British soldier in which sat a British
officer wearing a cap with a red band and
carrying a white flag :

“I was a Malay privileged to witness a moment
of humiliation that befell a world power whose
slogans ’Britannia rules the waves’and ’The empire
where the sun never sets“had reverberated the
world over .・・・This was the moment of destruction
for the British Empire.”

(説明パネルより)

 「銀輪部隊」の自転車

Bicycles were the main mode of transport for the
Japanese during the Malayan Campaign.Even during
the Occupation it remained so for the locals as vehicles
were confiscated by the Japanese.

(説明文より)

ここには日本軍が使用した自転車も展示されていた。
いやはや・・・貴重な当時の自転車である!(驚)
かの有名な「銀輪部隊」の自転車・・・・
当時、日本軍は、数少ないトラックの他に、輸送手段として自転車を使っていたのである。
当時の日本は東南アジアに自転車を輸出していた。
で・・・当然、マレーシアにも大量の自転車が輸出されていたわけで・・・
そこで足りない分は現地調達し、歩兵は自転車に乗ってマレー半島を疾走したのである。
説明文には「confiscate(没収・押収)」の文字が見られるが・・・
この時に、自主的に自転車を日本軍に提供したマレー人も多くいたと聞いている。
かならずしも、現地人から強制的に没収や押収したとは言い切れない。
自転車を提供してくれたのは、イギリス人に反感を持っていたマレー人たちか?
進軍途中で自転車が故障しても、日本製なので部品の調達は難しくはなかったようである。
以前から自転車を輸出していたおかげ・・・ということになる。
マレーシアに輸出されていた自転車のおかげで勝てたといっても過言ではないかも・・・

古写真や、記事や地図、インド国民軍に関する展示など、なかなか充実した内容である。
が・・・時間がないので、とにかくササッと見て回り・・・・
受付脇の「ミュージアムショップ」で何か資料はないものかと探したが・・・
残念ながら日本語で書かれた書籍・資料等はない!
英文のものでもいいかぁ~と思い、買おうとしたら・・・シンガポールドルしか使えないと言う。
そこをなんとか・・・米ドルで・・・とお願いしたが・・・・ダメ!
結局、何も買えなかった・・・・(大涙)
私の他にも米ドルが使えれば買おうという人たちもいたので、米ドルが使えないというのは失策であろう。
こういう観光地では米ドルも使えたほうがいいんじゃないのかなぁ~
折角、売上げが上がるチャンスだったのにねぇ~

我々は半日しかシンガポールに滞在しないということもあり、両替をする機会が与えられなかった。
これが失敗であるが・・・・
半日しかいないのに1万円を両替するというわけにもいかぬから、やむをえなかったか?
しかし、飲み物1本を買う金すらないというのは、ちょっと不便だよなぁ~(汗)

降伏する英軍使節を案内をする日本軍・・・・
この写真が撮られたほぼ同じ場所が右の写真・・・・

約30分程度の見学を終え、集合記念写真を撮り、次に昼食に向かう。
時刻は12時45分・・・・

昼食をすませ、今度はブキテマ高地に向かう。

町の中の様子

午後2時20分・・・・ブキテマ高地(Bukit Timah)に到着。
この「ブキテマ高地」はシンガポール島の天王山と呼ばれた場所である。
島内の最高地点で、この高地の周辺には食糧、燃料、弾薬および補給品の大集積所があったという。
その東北にはシンガポール島の市民100万人を養う水源地がある。
戦術的には、このブキテマ高地によって水源地が掩護されていると言ってよい。
ということは・・・このブキテマ高地を押さえると、敵の集積所も市民の水源も抑えることが出来、シンガポールを陥落させることができるということになるかな?
というわけで・・・日本軍は全力をあげてこのブキテマ高地周辺に攻撃をかけた。
「ブキテマ高地」はシンガポールの大激戦地なのである。

登山道入口に史跡の説明板があった。


BATTLE FOR
BUKIT TIMAH

Bukit Timah,which dominates the
arterial Bukit Timah and Dunearn
Roads leading to the city,was a
strategically important point for both
the Allied troops and the Japanese.

On the night of 10th February 1942,
the Japanese troops from the 5th and
18th Divisions,supported by armour,
attacked troops of the 11th and 15th
Indian Brigades,the 22nd Australian
Brigade,The Special Reserve Battalion,
Tomforce,Merrett’s Force,the Argylls,
Jind State Infantry and ’X’Battalion.The Allied forces had to
re-grouped to defend the critical junctions at Choa Chu Kang,
Jurong and Clementi Roads leading to Bukit Timah Road.

By dawn of 11th February 1942,the Japanese troops reported to
their commander Lieutenant-General Tomoyuki Yamashita that
they had seized Bukit Timah.The road to the city was open.

(説明板より)

幸いにも日本語の説明文があったので読んでみる。


ブキテマ攻防戦

シンガポール中心市内街地への幹線道路を見おろすブキテマ高地は英軍と日本軍の双方にとって
重要な戦略的要衝であった。

1942年2月10日夜、装甲部隊に支援された日本軍は、要衝防備のため再編成された英軍連
合部隊に攻撃を加えた。

翌11日早朝までに日本軍はブキテマを攻略。中心市街地への道は無防備となった。

(説明板より)

この説明文だと、わずか1日もかからず、日本軍は簡単にブキテマ高地を攻略したように感じるが・・・・(汗)
実際は、そんなに楽勝ではなかったはずである。

シンガポールに上陸後の日本軍3個師団は、シンガポール市街地に向かって進撃する。
が・・・戦闘は、このブキテマ高地で膠着状態となった。
特にブキテマ三叉路の争奪戦は第5師団第18師団が猛攻しても容易に落ちなかったのである。
英軍の激しい砲撃で一進一退・・・・
「ブキテマ三叉路」というのは、現在はどのあたりか私は知らないが・・・・
11日から14日まで戦闘が続いていたはずである。
そして15日に突然、英軍は白旗を揚げたのである。
もしかして、「11日早朝までに日本軍はブキテマ高地を攻略した」という記述は、ブキテマ高地の頂上だけを占領したという意味かも・・・・
高地の頂上は占領したが、その周囲では激戦が繰返されていたと解釈したほうが良いかも・・・・

この「ブキテマ高地」・・・・
どこかの自然公園みたいな感じである。
一応、私が“しんがり”を仰せつかって最後尾を歩くことになったが・・・・
このダラダラとした緩やかな傾斜の山道は、意外とキツイのである!(大汗)
足、腰、膝に来る・・・・
で・・・・わざとゆっくり歩いているわけではない・・・・
みんなに追いつかないのである!!(涙)
息は切れるわ・・・めまいはするわ・・・普段の運動不足がここで現われた・・・・
なにせ、80歳を越した“高齢者”のほうがスタスタと歩き、最後尾の私との間隔がドンドン広がっていくのである!(大汗)
ひえぇ~・・・・格好が付かないぞ・・・これ・・・
完全に、私は“置いてけぼり”を食らっているではないか!(唖然)

 ブキテマ高地の頂上

約25分ほどで頂上に到着!!
高地の最高地点なのだが、周囲の木々に阻まれ、眺望は最悪である。
何も見えない・・・・(苦笑)
ただの山の中・・・あ~・・・・面白くない・・・・(苦笑)
ここからシンガポールの市街地や水源地などが見渡せたらいいのになぁ・・・

頂上の東屋の中にはブキテマ高地一帯の地図が掲示されていたが・・・
中国語と英語表記の地図である。
う~ん・・・ここに“戦跡”として日本語と英語で書かれた地図を掲示したいものである!
日本軍の戦史では、85高地、434高地、220高地、155高地、180高地等々の“高地”の名前が出てくるが、それがどこなのか、この地図ではサッパリわからない・・・・

頂上の記念碑(記念石?)にはこの頂上の標高が刻まれている。
標高・・・163.63mとのことである。


The Bukit Timah Summit
You have reached the top of Singapore’s highest
natural point at 163.8 metres.The first men to reach
the summit was Singapore’s Resident Councillor
John Prince and his contractors in June 1827.

It took them five hours to cover a distance of 22.5
kilometres of plantation s.hills and swamps from the
south.A white flag was hoisted up the tallest tree,
which could be seen from as far as Fort Canning Hill.
The access road to the summit was built in 1843.

Believe it or not !
Once Upon A time ・・・Where the Tigers Roamed.“Bukit Timah was known to be horrid
tiger-infested,forested blob to the early Colonials where tiger roars can be heard at twilight.”
 A View from the Summit

英文の説明板によれば・・・
ここは、シンガポールで最も高い“ナチュラル・ポイント”で、標高は163.8メートルだという。
この頂上に初めて登ったのは現地在住の議員のジョン・プリンスという人と彼の仲間たちで・・・・
1827年(日本で言うと文政10年)の6月のことだという。
文政10年って・・・
後に長岡藩の家老になる河井継之助や、後に土佐藩主になる山内容堂が生まれた年で・・・(笑)
ベートーヴェンや小林一茶が亡くなった年で・・・
イギリスが小笠原諸島の領有を宣言した年といわれている・・・・
へぇ~そんな昔に、この高地に登ったのか?
何が楽しくて???(大笑)
で・・・・
彼らは南からこの高地に向かい、農園や丘や沼を進み、22.5kmの距離を5時間かけて登ったとかって書いてある。
(多分・・・そう書かれていると思う・・・)(汗)
で・・・「フォート・カニングの丘」から見えるように白い旗を山頂の一番高い木に揚げたらしい・・・
それって、何の意味があったのか?・・・・と突っ込みたくなりますが・・・(大笑)
で・・・この山頂まで向かう“アクセス・ロード”(登山道という意味でしょう)は1843年に造られた・・・という。
1843年というと・・・(大笑)
日本は天保14年・・・・江戸時代であります!
我々は江戸時代に造られた道を(舗装されていますが・・)登ってきたのであります!(大笑)
いや・・・この広い舗装山道の脇にクネクネと折り曲がりながら山頂に向かっているような“獣道”のような道がチラチラ見え隠れしていたから、あっちのほうが当時の道かも・・・(汗)

ここで小休止をし、再びもと来た道を降りる・・・・
次々と家族連れが登ってくるが、子供達が元気に駆け上ってくるのには参った。
なんと私は歳を取ってしまったものか・・・(大汗)
もう、クタクタなのです・・・・(涙)


   


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