10.今回3ヶ所目の日本人墓地

(シンガポール日本人墓地公園・「フォート・カニング」~クアラルンプール~成田)


平成26年(2014年)6月11日・第5日目

次に向かったのは・・・『シンガポール日本人墓地公園』
クアラルンプール、ジョホールバルに続いて「日本人墓地」3ヵ所目である。
時刻は、まもなく午後4時になる・・・・

 日本人墓地公園


日本人墓地公園の沿革

日本人共有墓地は、娼館主、雑貨商として成功した二木多賀治郎が自己所有のゴム林の一部を提供したこと
に始まる。それまで当地で死去した日本人の遺骨は牛馬の棄骨場に埋められており、そのことを悲しんだ二木
は、1888(明治21)年、同胞の渋谷吟治、中川菊三と連名で英国植民地政庁に自己所有地8エーカー(約1万
坪)を日本人共有墓地として使用する申請を行い、3年後に正式許可を得た。
南十字星の下、ここには、からゆきさん、戦前活躍した日本人、そして戦犯処刑者も眠っていて、明治、大
正、昭和の日本人海外史が偲ばれる

1888(明治21)年 


二木多賀治郎、渋谷吟治、中川菊三の名でチュアン・ホー・アベニュー(No.22 Chuan Hoe
Avenue,Lot133)の土地8エーカーを日本人共有墓地として使用する申請書を英国植民地政
庁に提出。
同年、二木より「共済会」発足
1891(明治24)年  英国植民地政庁から 日本人共有墓地としての使用許可を取得
1911(明治44)年  楳仙和尚、墓地内に曹洞宗釋教山西有寺建立
1915(大正 4)年  日本人会が設立され、共済会と共同で墓地管理を行う
1942(昭和17)年  昭南島市政庁と在留邦人による「昭南奉公会」に墓地管理が委ねられる
1949(昭和24)年  敵産処分法令により日本人共有墓地が接収される
1953(昭和28)年  敵産処分下に置かれたままで日本総領事館に墓地管理が移される
1957(昭和32)年  戦後の日本人会が発足し墓地管理にあたる
1960(昭和35)年 
日本総領事館により墓地内に御堂が建立され、市内の妙法寺と西本願寺にあった遺留品を
御堂に保管
1969(昭和44)年  福田庫八他3名がシンガポール高等裁判所にLot133の土地の返還を申請し認可される
1973(昭和48)年  シンガポール政府が日本人墓地を含む市内42カ所の墓地の埋葬禁止令を発令
1978(昭和53)年
 
日本人学校(Clementi Road)の追加用地確保のため、日本人墓地8エーカーのうち2エー
カーをシンガポール政府に返還
1985(昭和60)年  曹洞宗により御堂が再建され、日本人会に寄贈される
1987(昭和62)年 



シンガポール政府より日本人墓地接収の告知がある。当時の橋本恕(ひろし)大使がダナバラン
外相に陳情し、リース(1989年1月5日から30年間と更に20年のオプション)による墓地存続
が許可される。戦後の日本人会発足30周年記念事業として、シンガポールの公園法に基づ
き日本人墓地の公園化工事を挙行。名称を「日本人共有墓地」より「日本人墓地公園」に改
める
1991(平成 3)年  日本人墓地開基100周年記念植樹式挙行
1999(平成11)年現在
墓地面積:29,35平方メートル
墓標数  :910基
2000年12月吉日作成
シンガポール日本人会 史蹟史料部
(説明板より)

この墓地ができるまでは、日本人の骨は牛馬の骨捨て場に埋葬されていたとは驚きである。

公園内の案内板はイラストマップである。
これが良く出来ているマップで・・・・説明文は英語だが、わかりやすい!(喜)

日本人墓地公園

 故大講義板倉タカ刀自之墓


故大講義板倉タカ刀自之墓

板倉タカ(いたくら たか)

1867(明治元)年生ー1926(昭和2)年没
天理教シンガポール教会初代会長。娘時代から人生の辛
苦をなめたといわれている。大連にて料理屋旅館を経営
していた。のちにマレー半島に渡るが母の病で日本に帰
国、その際天理教に入信した。その後シンガポールに渡
り、テーブル・クロスなどの行商のかたわら、からゆき
さんたちの良い相談相手となる。1916(大正5)年には
天理教の布教を開始。1922(大正11)年、信者の献金に
よりキャセイ映画館近くに天理教教会を開き、55才で初
代会長となる。59才で没。
大柄な心の広い人であったという。この板倉タカ刀自の
墓近くには4基の天理教信者の墓がある。

(説明板より)

 南方軍総司令官寺内元帥之墓


南方軍総司令官寺内元帥之墓

寺内寿一(てらうち ひさいち)

1879(明治12)年生ー1946(昭和21)年没
山口県出身。明治の元勲寺内正毅(てらうち まさたけ)の長
男で、明治、大正、昭和に生きた軍人。
父と同じく陸軍大将、元帥となる。台湾軍司令官、軍
事参議官、北支方面軍事司令官を歴任し、1941年に
は南方軍総司令官に着任して太平洋戦争の南方作戦
を指揮した。
1945(昭和20)年敗戦の年、サイゴン郊外で病にた
おれ、英国軍マウントバッテン将軍の配慮でジョ
ホール州レンガムのヒギンス氏別邸にて療養。その
為、日本軍の降伏式にも参加出来ず脳溢血で死去。
遺骨はマウントバッテン将軍の指示により、軍刀そ
の他の遺留品と共に特別機で東京の遺族の元に送ら
れ、この墓には、寺内元帥の遺髪、爪、襟章、肩章
が納められている。

(説明板より)

ここにある寺内元帥の“お墓”は、いわゆる“遺髪墓”である。
“本当の”お墓は、山口県護国神社の近くの高台に父親のお墓と並んで大きな立派なお墓が建っていて、昔、訪れたことがある・・・・

 二葉亭四迷終焉之碑


二葉亭四迷終焉之碑

二葉亭四迷(ふたばてい しめい)

1864(元治)年生ー1909(明治42)年没
本名、長谷川辰之助(ロシア文学家、翻訳家、小説家)
この碑はあくまでも記念碑であって墓ではない。遺骨の全ては東京の染井墓地に
埋葬されている。文学は男子一生の仕事にあらずと軍人を志し、士官学校を三度
受験し三度失敗した四迷であるが、文芸史上空前の業績を残す。
1887(明治20)年に近代ロシア文学の根本精神を把握、創作や翻訳に現実主義を
導入した。自らの小説総論に基づいた『浮雲』は言文一致体で書かれた日本で最
初の近代散文小説である。東京外国語学校教授を経て、1908(明治41)年朝日新
聞特派員として渡露。1909(明治42)年5月10日、肺を患った四迷は帰国途上の
日本郵船賀茂丸(コロンボ~シンガポール間のベンガル湾洋上)船中にて死去。
13日、当地パシル・パンジャンの丘にあった火葬場で荼毘に付された。
1929(昭和4)年7月14日、古藤、富房、堀切の諸氏により自然石を用いたこの
終焉の碑が建立される。
碑文は当時シンガポール在住の医師・西村竹四郎の筆である。
代表作品に『浮雲』、翻訳作品『あいびき』『うき草』『其面影』『平凡』などがある。

(説明板より)

 上山柑翁之墓


上山柑翁之墓

上山柑翁(うえやま かんおう)

1889(明治22)年生ー1942(昭和17)年没
1889(明治22)年9月17日蚊取り線香の発明者であり、
大日本除虫菊(株)の創業者である上山英一郎の長男と
して生まれる。本名上山英之助。柑翁は雅号。
1913(大正2)年24才で東京高商(現一橋大学)卒業、
同年上山商店に入社。
1930(昭和5)年第二代社長に就任。
1935(昭和10)年、社名を現在の大日本除虫菊(株)に
変更する。
1942(昭和17)年、日本農産物輸出組合理事長、南洋ゴ
ム拓殖(株)社長に就任、昭南島(シンガポール)に営
業所を開設する。同年12月30日陸海軍嘱託として東南
アジアに出張の途上、シンガポールのセンバワン飛行場
で搭乗機が墜落し死去。

(説明板より)

(左奥の石碑=作業隊殉職者の碑)
(右奥の墓石=大寛院眞光義徹居士)


作業隊殉職者の碑

拓南の碑(たくなんのひ)
「東南アジアの隆盛を冀(こいねが)い拓南に生きた人々ここに眠る」と自然石に彫ら
れている。1980(昭和55)年代に石原産業が建てた。石原産業は1919(大正8)
年、バトゥ・パハのスリメダン(マレーシア)に石原廣一郎、東粂次、田所久吾
が鉱脈を発見し興した鉄鉱石の採掘会社。事業は成功し拡張を重ね、のちの石原
産業海運となるが戦後の財閥解体により石原産業となった。

大寛院眞光義徹居士

西村吉夫(にしむら よしお)      1892(明治25)年生ー1934(昭和9)年没
京都府出身。石原産業の前身スリメダン鉱山入社。
1933(昭和8)年より、石原産業シンガポールの支配人となる。同年、日本人会
会長となる。1934(昭和9)年12月5日、軍港を撮影
した為英領海峡植民地当局からスパイ容疑により出頭
を命じられ、取り調べ先の中央警察でマラリア治療薬
の猛毒のキニーネを大量に飲み死亡した。当時は第二
次世界大戦に向かって動いていた時代で、シンガポー
ルもその流れの中にあった。同年12月6日、日本人会
は盛大な会葬をもって日本人社会の信頼厚かった故人
の霊を弔った。この会葬の写真は御堂内に掲げられて
いる。

(説明板より)

従軍南洋会員戦死者之墓 慰霊の碑

御堂前で、ささやかな慰霊祭を執り行い、「海ゆかば」を斉唱して黙祷を捧げる。
あまり時間がないので、そうそうゆっくりと墓標を見て回ることができなかったが、結構「からゆきさん」と思われる女性の名のお墓が多かった。
それにしても、地元のシンガポール日本人会はすごい・・・
綺麗に整備して維持管理をされている。
さすがは「墓地」ではなく「墓地公園」である。
日本人観光客は必ずここを訪問して、つまらぬお土産などを買うお金の一部でも維持管理費として寄付してあげるべきだと思う。

この墓地公園の一角に“メモリアル・プラザ”がある。


「先人を偲ぶ集いの場」拓く
 日本人共同墓地は現在日本人墓地公園と名が改まり、シンガポール日本人会が責任
母体となって、日常の管理・維持を行なっている。他に日本人学校小・中学部をはじめ
とする団体、個人のボランティアの理解と協力もあって、墓地は篤く守られている。
その閑な一角にこの度、メモリアル・プラザ「先人を偲ぶ集いの場」が拓かれるこ
とになった。
 戦前あまたの日本人が渡来した。当地で命を落とし、この墓地に眠る人も多くいる。
一方日本人社会に足跡や功績を残しながらも、ここを永眠の地と成さなかった人もま
た多い。この度そのような人の記録を追蹤し、顕彰碑を建てることにした。公園化計
画の施行によって新装なった日本人墓地公園を一巡すれば、訪問者は当地での日本人
社会の歴史が判ることになった。
 南国の大樹が蔭を落とし、鮮やかな花が咲き乱れるこの碑のある広場が先人を偲び、
己の今と行く末に思いを馳せる場となることを願う。
 メモリアル・プラザの日本名「先人を偲ぶ集いの場」は日本人会史蹟史料部の座長
を長らく務め、この墓地の維持管理、改善に尽力された安川一夫氏が今年3月に他界
される数日前に病床で考えられたものである。
2002年8月22日
史蹟史料部
(説明碑銘板より)

ここに“ハリマオ”で有名な、谷豊(たに・ゆたか)の顕彰碑もあった。
誰かが、「谷豊のお墓だ!」と言っていたが・・・・あの・・・このメモリアル・プラザの説明文を読んでないのかな?(苦笑)
たしか、谷豊は、死亡後、その子分たちが遺体を担いでジャングルの中に消えて行ったとか・・・という話を聞いた事がある。
マレー各地にいくつかの「谷豊の墓」と呼ばれるものがあるそうだが、どれが本物かはわからないとも聞いたことがある。
遺髪墓なのか、分骨して建てられたものなのか・・・・わからないそうだ。
いずれにせよ、その遺体はどこに消えたのかわからないというのだから、なんともかわいそうである。
この日本人墓地に埋葬してあげることができたら、さぞかし喜んでくれただろうとも思うが、いや、生死を共にした子分たちの元に一緒にいるほうが幸せかな?

 谷豊の顕彰碑


マレーのハリマオ 谷豊(たに ゆたか)

1911(明治44)年11月6日ー1942(昭和17)年3月17日

 福岡県に生まれる。幼年期に両親とともに英領マレーのクアラ・トレンガヌに移住。豊が兵隊検査のために
福岡に帰国中であった1933(昭和8)、満州事変勃発に怒った華僑暴徒による異母妹静子虐殺事件が発生した。
翌年にこれを知った豊は復讐を誓いトレンガヌに戻る。生来血気盛んな豊は、次第にハリマオ(虎)という名で知
られるようになり盗賊団の頭目となる。一説では3000人の部下がいたという。マレー人になりきるため、後に
イスラム教に入信する。
 1941(昭和16)年、南部タイのハジャイで英軍に拘束されるが、日本軍特務工作員・神本利男の助けで出獄。
同氏の説得により英軍の後方撹乱実行に同意し、日本軍藤原機関の一員となる。マレー人、タイ人部下を率い
て開戦直前の諜報・物資調達に従事。開戦直後は、英軍による橋梁爆破を阻止するなどの日本軍進路確保、
マレー人の日本軍への協力や英軍に同行するマレー義勇軍の中立化などに力を注ぐ。その間持病のマラリアを
悪化させ、1942(昭和17)年3月、陥落直後のシンガポール、タントクセン病院で死去した。
 葬儀はイスラム教の教義にのっとり、病院のあるノベナ近くのパジラン・モスクでマレー人によって行われ、
その後、当時その近辺にあったイスラム墓地に埋葬されたといわれるが、この墓地は現存せず、正確な墓の位
置もわかっていない。死後、その短い一生を描いた小説・映画などが多数作られ、現在のハリマオ伝説を生む
こととなった。
 ハリマオ・谷豊は死後「陸軍通譯」として判任官待遇を受けている。生前の1942(昭和17)年2月1日に遡っての
任官であった。

(顕彰碑銘板より)

あれ?
碑文によると、谷豊の遺体は、ここではないが別の場所にちゃんと埋葬されたようである。(汗)
子分が担いで行った・・・というのは、あれは創作か?(苦笑)

それじゃ、そろそろ帰りましょうか・・・ということになったが・・・
私は、結構、皆さんと離れて行動するタイプなので・・・・(苦笑)
一人でブラブラ散策しているうち、敷地の奥のほうに、なにやら石碑群があるのを見つけた。
おお!軍関係のものではないか!(喜)
早速、添乗員を呼びとめ、軍関係の慰霊碑の存在を伝える。

手前の3つの石碑・・・・
左から『作業隊殉職者之碑』、『陸海軍人軍属留魂之碑』『殉難烈士之碑』である。


戦没者慰霊碑

作業隊殉難者之碑
終戦後シンガポール島内各作業隊に於て傷病死した者の遺骨および火葬の灰を納
める

陸海軍人軍属留魂之碑
シンガポール攻略時の戦死病没者ならびに西本願寺保管の南方軍各地戦死者の遺
骨を納める

殉難烈士の碑
終戦後自決した参謀以下の将士の遺骨ならびにチャンギ刑務所にて処刑された100
人以上の将兵の血の流された土を納める

近歩五戦死者之墓
故陸軍中佐大柿正一はじめ近衛歩兵第五聯隊戦死者396柱を納める

近衛歩兵第四聯隊慰霊之碑
近衛歩兵第四聯隊の為の慰霊碑。木標が朽ちたので戦友有志が昭和62年に新たに
建立

納骨一萬餘體
忠霊塔および西本願寺より移葬した遺骨を納める

(説明板より)

 『殉難者納骨百三十五柱』碑

小さな墓石・・・・
『殉難者納骨百三十五柱』とだけ刻まれている。
戦後、チャンギー刑務所で処刑された戦犯の方々の遺骨が埋葬されているのだろうか?
碑の裏にも文字が刻まれてはいるのだが、劣化・摩耗していて、よく読めない。
たぶん「チャンギ―假埋葬地より奉還」と刻まれているのではないかと思うが・・・
そして、その横に日付と、その下に「日本國政府」と刻まれているような気がする。
日付は「昭和三十二年」なのか「昭和二十二年」なのか、数字部分はよくわからない・・・(涙)

若松斉という人が書いた『絞首台のひびき』という本によれば、シンガポールのチャンギ―刑務所で戦犯として死刑になった人は138名だという。
そのうち、オートラムというところ(オートラム刑務所?)で処刑されたのは9名とされている。
この本によれば、チャンギ―刑務所というのは、かなり劣悪な環境だったようである。
私と同郷の茨城県出身の水谷藤太郎少佐は、毎晩のように看守(イギリス人?)により暴行を受け、顔は骨折し、体中、アザだらけとなり・・・
昭和21年11月22日に処刑されたらしい。
この人が、戦時中、タイ国の俘虜収容所に勤務していて、泰緬鉄道建設にも関わっていたからだそうだが・・・
この人以外にも、何人もの収容者が毎晩のように看守の“襲撃”を受け、暴行・虐待を受けていたそうである。
散々いたぶられた挙句に処刑されるのだから、酷い話である。

 近衛歩兵第四聯隊慰霊之碑

(碑の裏の碑文)

軍旗拝受百周年ニ当リ戦友一同之ヲ建ツ

昭和六十二年五月二十四日

 近歩五戦死者之墓

(碑の裏の碑文)

故陸軍中佐大柿正一以下三百九十六柱
  昭和二十二年五月吉日
  近歩五残留作業隊将兵一同建立

『近歩五戦死者之墓』・・・・
近衛歩兵第5連隊の陸軍中佐・大柿正一をはじめとする連隊の戦死者396柱が納められているという。
大柿正一とは、我々が訪れた、あの「バクリ」近辺の戦いで壊滅的な損害を出した大垣大隊の大隊長である。
遺骨は日本に運ばず、ここに埋葬されているということなのだろうか?

時刻は午後4時半・・・・
約30分間という忙しい訪問であったが、お参り出来てよかった。

「日本人墓地公園」の周辺は高級住宅街だった・・・・
これから最後の訪問地である「フォート・カニング」に向かう。

午後4時50分、「フォート・カニング」に到着。
小高い丘しかない場所ですが・・・・(苦笑)
ここに大東亜戦争当時、英軍の地下司令部があったという。

フォート・カニング

この地下壕で、パーシバル将軍たちは日本軍に降伏しようかどうしようかと議論したらしい。(汗)
当時使用された地下司令部は見学出来るようだが、残念ながら、ちょうど修復中とのことで、現在は立ち入り禁止となっていた。
説明板の写真では、内部は蝋人形などを使って当時の様子を再現しているらしい。

 説明板の写真


FORT CANNING
COMMAND
CENTRE

In the late 1930s,a combined command and control centre for British
and Allied forces in Singapore and Malaya in the event of war,was built
at Fort Canning Hill.This became known as the Battle Box,and was op-
erational by 1940.It was deemed too small however to house the unified
operations staff of the three services - Army,Airforce and Navy - and a
new Headquarters for Malaya Command was constructed by end-1941 at
Sime Road Camp.As the war against the Japanese progressed into Singa-
pore in 1942,Sime Road Camp came under attack and Lieutenant-Gen-
eral Percival,General Officer commanding of Malaya Command,decid-
ed on 11 February 1942 to move the Headquarters back into the more
secure site of the Battle Box.Most of the major decisions in the last days
of the defence of Singapore were therefore made in the BattleBox.

For many years,the significance of this command centre to Singapore’s
military history was not fully understood as the Battle Box was forgotten
about after it was sealed up in the late 1960s.It was only in 1988 that its
existence was ascertained and the bunker was unsealed and explored.

The Battle Box consists of close to 30 rooms nine meters underground
that are bomb-proof and protected against gas attacks.In one of these
rooms - the Centre of Anti-aircraft Defence - Percival held his final
meeting with his senior commanders at 9.30 am on 15 February 1942.He
proposed a counter-attack,but the commanders present made a unani-
mous vote to surrender due to the loss of control and severe shortage of
all resources - water,food,fuel and ammunition - diminished morale of
the troops,and high risks to the civilian population.the Union Jack was
then removed from Fort Canning Hill and at 11.30 am,the British deputa-
tion departed from the Battle Box to negotiate the surrender terms at
Ford Factory.

By the eveningof 18 February 1942,all the buildings at Fort Canning Hill
including the Battle Box had been taken over by the Japanese Army.It
was also in one of the rooms in the Battle Box that the formal order to or-
ganize the infamous Sook Ching was given.

After the war ended,Fort Canning Hill returned to being the British mil-
itary headquarters,but the Battle Box was left empty.In 1963,the British
left Fort Canning,which became the home of the 4th brigade of the Fed-
eral Army from Malaysia.The brigade remained till after Singapore’s in-
dependence、and control of the hill and buildings was finally handed over
to the Singapore government in 1968.

(説明板より)

現地設置の説明板は、フォート・カニング全体の説明が英語で書かれていて日本語の表記はないが、「サリー・ポート」の説明板だけ日本語で説明が書かれていた。
なんでだろう?(苦笑)

 サリー・ポート


サリー・ポート


サリー・ポートは城砦から弾丸を出し入れす
る小さな扉でした。防御側が城砦に敵に気付
かれることなく出入りすることを助け、攻撃
の際にも使われていました。「サリー」とい
う言葉は、突然活発に攻撃をするという意味
です。敵が城砦を包囲している場合、防御側
がサリー・ポートから突撃し、敵を外側から
驚かせるというしくみでした。

フォート・カニングには少なくともこのよう
なサリー・ポートが3ヶ所ありました:ここに
1つ、丘の北西側に1つ、そしてヒル・ストリ
ートの南側にもう1つありました。

(説明板より)

丘の上に登ると、そこはただの広場・・・・

内部の見学が出来ないとなると・・・・(汗)
丘の外観をサラッと見るだけしかない・・・(涙)
ここに英軍の司令部があったんですねぇ~・・・ということで・・・・

 案内板

これでシンガポールでの見学は全て終り!
時刻は午後5時である。
これから帰国の途につく・・・・

空港に向かう前に夕食。
午後5時40分・・・・市内のレストランに立ち寄る。

“最後の晩餐”は・・・・鍋である。(汗)
この常夏の国で鍋とはねぇ~(苦笑)
なんでも「スチーム・ボード」とかというシンガポールの名物料理なんだとか・・・
グルメじゃない私には、サッパリわかりませぬが・・・
味はどうかと尋ねられても困るくらい、特に印象に残らない鍋だった・・・・(苦笑)

午後6時半過ぎまで夕食・・・・
食後、空港に向かう。

 チャンギ空港

午後7時10分・・・・
チャンギ空港に到着!

空港の中

ここから真っ直ぐ成田に向かうわけではない・・・(汗)
ここからマレーシアのクアラルンプールに向かい、乗り換えて成田に向かうのである。
なんとも面倒くさい話しだが、多分、航空運賃を安くあげるためなのだろう。

クアラルンプール行きのマレーシア航空MH610便に乗るまで2時間ほどある。
空港内をブラブラ・・・・(笑)

午後9時15分、クアラルンプールに向け出発!
約1時間後の午後10時10分、クアラルンプール空港に到着し、ここで成田行きに乗り換える。
成田行きマレーシア航空MH088便の離陸まで1時間半ほどある。
が・・・ツアー参加者のみなさんとオシャベリしているうちに、あっという間に搭乗時間となった。(笑)

午後11時55分、成田に向け離陸!


平成26年(2014年)6月12日・第6日目

日付が変わって6月12日・・・

で・・・・午前0時15分には機内食が出た。
いやいや、夜中に食事をしたら太っちゃうでしょ?(汗)
日本時間では、午前1時15分である!(唖然)

 機内食

機内食はサンドイッチだが・・・・
それでもやっぱり、これを食べたら太っちゃうでしょ?(大笑)
しかし、小腹が空いていたので、軽く誘惑に負けて、平らげる・・・・(大汗)

食後、ウトウトしているうちに、またもや機内食!!(汗)
時刻は午前4時半である。
日本時間では午前5時半である。
朝食には、ちょいと早すぎるような・・・(汗)
サンドイッチを食べてから3時間程度しか経っていないんですけど・・・(苦笑)

 機内食

食事を終えて、ホォ~・・・っとため息をついた、その1時間後・・・・
日本時間で午前7時10分、成田空港に無事着陸した。
はぁ~
ほとんど寝ていない・・・・(大汗)
先月のオーストラリア旅行と同じである・・・(涙)

半分どころではなく、殆ど寝ぼけた状態で帰宅する・・・(汗)

~完~



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