敷設艦 津軽 つがる


軍艦津軽の碑



軍艦津軽之碑

青森県護国神社

昭和61年8月22日建之



(平成21年11月2日)

軍艦津軽の生涯

昭和16年10月、横須賀海軍工廠にて竣工、日本海軍最新鋭敷設艦として就役、公試排水量4400トン、速力20ノット、艦長以下500名の乗組員であった。
太平洋戦争開戦と同時に、専ら縁の下の力持的存在に甘んじ、南溟の各作戦に参加、17年3月10日、ラエ沖にて米機動部隊と交戦中艦中部に直撃弾を受け、戦死傷者30名に及ぶ。
修理の為横須賀に回航、修理完了と共に再びラバールに進出、珊瑚海海戦を始め、ブーゲンビル島、ガダルカナル島に食糧、兵器の輸送、傷病兵の収容作戦等に数多く参加、18年2月、度重なる米機の攻撃を受けその至近弾により多数の死傷者と損傷を被り、再び横須賀へ回航修理後、ラバール方面の兵員輸送中、5月米潜水艦の雷撃を前部に受け、又々横須賀帰港の余儀なきに至る。
12月シンガポールに進出し、19年1月ペナン沖に機雷を敷設、比島沖の間断なき輸送任務に黙々と従事、5月佐世保に帰港して艦を改装、対潜対空兵器を増強、比島方面に進攻して機雷敷設後ビアク増援部隊に編入され、ニューギニアソロンに陸軍部隊兵員物資の輸送揚陸作戦中米潜水艦の雷撃により中部水線下に被雷、沈没はまぬがれしも、応急修理の効果なく、マニラに向け回航中モロタイ水道において追尾しきたる潜水艦に再度雷撃を受け沈没。
就役以来2年8ヶ月、艦長以下373名と共にその生涯を閉じた。
時に昭和19年6月29日午前11時30分。

碑後方ノ姫松
昭和16年10月軍艦津軽竣工記念樹
弘前招魂社ノ御神体ヲ受ケ津軽神社トシテ軍艦津軽公室ニ祭祀シ武運長久をヲ祈願

(碑文より)


【敷設艦】

艦艇の底に触れると炸裂する機雷(水中爆弾の一種)を海中に敷設するという任務を受け持つ。
日露戦争でロシア太平洋艦隊の旗艦を機雷により一撃で撃沈したのに味をしめた日本海軍は、太平洋戦争中、各所で係留式触発機雷を敷設した。
しかし、機雷の技術が幼稚だったため、敵艦艇で日本の機雷により沈没したものは、ごくわずかであった。
敷設艦の艦尾にはレールが敷かれ、その上の機雷を車で押しつつ機雷庫から艦尾へ移動、海上に投下する。
日本海軍は航洋型の敷設艦を比較的多数持っていた。
敷設艦の一部は敵性水域へ夜、こっそりと強行敷設に赴くが、その際、敵駆逐艦とい遭遇することも考えられるため、軽巡と同じ14センチ砲を備えた艦もあった。
敷設艦は2隻以上で戦隊を編成することが多かった。
なお、その艦尾が外へ張り出しているのは投下時、機雷で自己の艦尾を傷つけぬためである。

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)


津軽

4000トン。
速力20ノット、9000馬力。
航空兵装はカタパルト×1、水上偵察機×1。
12.7センチ高角砲×4門
敷設艦『沖島』の改良型で機雷600個を搭載。
また、前線基地に爆弾やガソリンを輸送する設備を備えていた。
第19戦隊の一艦として、グアム島やラバウル占領に参加。
昭和17年3月のニューギニア上陸では米空母レキシントン、ヨークタウン艦載機の攻撃により損傷する。
その後、ラバウル方面の輸送に任じた。
機雷敷設はマレーのペナン沖に昭和19年1月に行っただけだった。
この沖合に英潜水艦が群がっていたためである。
昭和19年6月29日、モロタイ島沖で米潜水艦ダーターの雷撃を受け沈没する。

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)


【機雷】

日本海軍は、日米開戦時に、触角式機雷29,250個を貯蔵し、他に港湾防備の防潜網用機雷、管制機雷、潜水艦用機雷を保有していた。
主力の触角機雷は昭和9年に制式化された九三式鉛錘係維機雷で、直径、高さは共に86センチ、重量700キロ、炸薬100キロで、係維索の最大全長は1,000メートル、最大敷設深度72メートル、最大海深度は1,072メートル。
深度72メートルでは下を潜って入る潜水艦が出そうだが、実用潜航深度は50メートル程度だから、一応十分といえようし、機雷の缶体の外殻を厚くすれば、100メートルぐらいまでの水圧に耐えるのは可能だった。
水上艦もしくは潜水艦が4〜9本ある触角に触れると、起爆薬が爆発し、缶体の中の炸薬に引火する仕組みで、基本は日露戦争期と変わらず、連合国やドイツが開発した磁気機雷、音響機雷、水圧機雷などの感応式に比べると、一時代遅れていた。

開戦初頭に敷設艦や潜水艦でシンガポール港外やアナンバス群島付近、フィリピンのサンベルナルディノ、スリガオ両海峡などに機雷を敷設したが、いずれも水上艦を狙ったもので、規模が小さかったせいもあって効果は不明のまま終わった。
昭和17年後半に入って、米潜水艦の動きが活発化したので、本土東岸の沿岸航路を防衛するため対潜機雷堰の設置に着手したが、作業ピッチは遅く、昭和18年中期以降、米潜水艦の通商破壊戦が手の付けられぬ惨状を呈するに至り、ようやく対潜戦術と船団護衛の強化に乗り出した。
この任務に専念するため、昭和18年11月に連合艦隊と同格の海上護衛総司令部が新設され、緊急対策の一環として機雷堰の建設も含まれていた。

ところが、海上護衛総司令部作戦参謀の大井篤大佐が軍令部に交渉しても、機雷は対ソ戦に備えて備蓄する必要があると反対され、すったもんだの末、やっと昭和19年に入って東支那海への敷設作業がスタートした。
この機雷堰は半年かけて計1万2千個の九三式機雷を大陸棚の縁に沿って並べるもので、総延長は400キロに達した。
しかし時すでに遅く、台湾より南方には手を付ける余裕がなく、米潜の侵入を食い止めることはできなかったが、それでも多少の効果はあった。
判明しているだけでも8隻以上の米潜水艦が三陸沖などの機雷に引っかかり未帰還となっている。

敷設艦は「常磐」(9,240トン)、「沖島」(4,470トン)、「八重山」(1,135トン)など10隻ちかくあった。
九三式機雷の寿命は索切れなどで半年〜1年程度で、しかも敵潜が触角に触れない限り爆発してくれない原始的兵器だった。
威力を高めるには磁気機雷などの感応式に切り換えていく必要があった。
磁気機雷だと近くを潜水艦が通過するだけで作動するから、威圧度は飛躍的に向上し、必要数量も少なくて済む。
日本海軍は大正末期から磁気機雷の研究に着手はしていたが、兵器化できず、昭和17年秋にドイツから供給された磁気機雷をコピーして三式機雷を製造した。
この機雷は実戦には使っていないが、その気になれば緒戦期に間に合ったと思われる。

(参考:秦 郁彦 著 「絶対不敗態勢は可能だったか」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月14日 追記)




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