海ゆかば十一勇士鎮魂之碑

(鹿児島県鹿児島市・天保山公園)


海ゆかば十一勇士鎮魂の碑 平成19年3月29日

海ゆかば十一勇士鎮魂之碑

海軍中佐  岩佐 直治  群馬県前橋市天川原
海軍少佐  横山 正治  鹿児島市下荒田町
海軍少佐  古野 繁實  福岡県遠賀村虫生津
海軍大尉  廣尾 彰  佐賀県三養基郡旭村
海軍特務少尉   佐々木 直吉   島根県那賀郡上府村
海軍特務少尉   横山 薫範  鳥取県東伯郡古布庄村
海軍兵曹長  稲垣 清  三重県一志郡川合村
海軍兵曹長  上田 定  広島県山県郡川迫村
海軍兵曹長  片山 義雄  岡山県赤磐郡五城村

シドニー湾攻撃
海軍中佐 中馬 兼四  鹿児島県薩摩郡上東郷村
海軍少佐 松尾 敬宇  熊本県山鹿市大字久原
副碑



横山正治少佐関係の碑
(鹿児島県鹿児島市・天保山公園)





(平成19年3月29日)

昭和16年12月8日あゝ壮烈!!
真珠湾の華と散る


横山正治海軍少佐
片親なるも極めて明朗にして薩摩の気風に満々た淡白なる性格にて而も責任感強く事に当る士であった
人格円満微笑ましき人物で到る処で持てはやされたるも意に介せず高き自己の職務に対し邁進し面目躍如たり
大正8年11月18日生 鹿児島市下荒田町に出生
鹿児島市第二鹿児島中学卒業
昭和11年4月1日 海軍兵学校入学(67期生)
昭和16年10月15日任海軍中尉

(副碑・碑文より)

横山正治少佐の霊に捧げる

黎明れいめいの中に微睡まどろむ大隅の連山
遥かなり北東を望めば
雲海に聳立つ高千穂の霊峰
瞳を転じて南西を指差せば
白扇はくせんを逆さかさにしたるが如し薩摩富士
暁の陽光、櫻島の頂きを深紅しんくに染め
山際やまぎわより燦々さんさんと降り注ぐ光芒こうぼう
紫紺しこんの海面華麗なり波渚なみなぎさに戯たわむ
色調燦爛さんらんとして岩礁に踊る
城山の端に朧おぼろなり有明ありあけの月
濃紺の山頂にけたゝまし明烏あけがらすの一声いっせい
大西郷の精神を心の要かなめとし
櫻島の息吹いぶきの中に
育成されし薩州健児
日本悠遠ゆうえん栄光の為、盡忠じんちゅう報国
歓喜の中に護国の鬼とならん
生を受けて艱難辛苦かんなんしんく十幾星霜せいそう
時は昭和16年12月8日
怒濤どとう逆巻く太洋たいようの彼方かなた
千里の波頭はとうを乗り越え
真珠湾に遊弋ゆうよくする米艦艇に
一身しん一艇てい巨弾に変じ微塵みじんとなる
横山少佐の壮絶無比の闘魂
一億日本国民の肝胆かんたんを震撼しんかん
身は千尋せんじんの海底に藻屑もくずたるも
櫻吹雪ふぶきの舞ふ如く散りて尊し
其の勲功いさおし永遠とわに称たたえん
身を鴻毛こうもうの軽きに置き
国恩に報いる心底しんてい
薩摩隼人はやとの権化ごんげたり
国敗れても櫻岳おうがく昔日せきじつの如く
何故なぜに怒いかるぞ噴煙今尚激し
日本人の心、頽廃たいはいの色濃く
日本列島、将まさに荒廃寸前にあり
塵埃じんあいの如く忘却されし少佐の幽魂ゆうこん
何を訴え、何を語るや
自己の一切を放擲ほうてきし無我むが
国家安泰あんたいの為、国難に殉ず
日月じつげつ流水の如し丗有余年
顧みる人も今は全くなし
少佐の心に何をもって償つぐなわん
魂魄こんぱく櫻島の直中ただなかにあり
万代不易ばんだいふえき、悠久ゆうきゅう日本の
行手ゆくてに燦然さんぜんたり

昭和50年12月8日
作詞 大迫 亘

(碑文より)

天保山公園



天保山公園

(鹿児島県鹿児島市)

横山正治は少年時代、親友とここで遊んだという。



(平成19年3月29日)

天保山(天保山公園)
天保年間にできた山


〜英艦隊の壮絶な洗礼を受けた湾岸砲台〜

天保山はかつて海でした。
甲突川の河口のあたりに御船手おふなて(藩の船を司つかさどる役所)があり、付近は港町として賑わっていたようです。
ところが度重なる洪水で土砂が川底を埋め、改修を繰り返すうちに、砂捨て場として利用していた場所がいつのまにか山のように盛り上りました。
天保年間(1830年〜1843年)であったためこの人工の山は天保山と名付けられたのです。
島津家第27代藩主斉興なりおきは、外国船の来襲に備えここに砲台を築きました。
そして1863年(文久3)、第29代藩主忠義ただよしの時、生麦事件をきっかけに薩英戦争が勃発。
海上から攻める英艦隊をこの砲台から迎撃したのです。
薩摩の砲撃は、英艦隊旗艦ユーリアラス号に命中、艦長他9名の戦死という大損害を与えましたが、戦列を整えた英艦隊の最新鋭アームストロング砲には歯がたたず、薩摩の砲台はたった一度の実戦で破壊されてしまいました。
また天保山公園に隣接する与次郎ヶ浜には1972年(昭和47)日本初の水搬送工法によって約109万uの埋立地が生まれました。

(説明板より)


真珠湾攻撃

昭和16年12月7日午前3時42分(ハワイ時間)
米海軍の掃海艇『コンドル』の乗組員R・C・マックロイ予備少尉が、真珠湾口浮標の外方2浬かいり近くで真珠湾口に向かっている潜望鏡を発見し、近くを哨戒中の米駆逐艦『ワード』に発光信号で報告。
この時、発見された特殊潜航艇は『横山正治中尉艇』と思われる。
米駆逐艦『ワード』(艦長:ウィリアム・W・アウターブリッジ大尉)は30分間近くを捜索したが発見できず。
午前6時半、大型艀はしけ『アンターレス』の後について湾口の防潜網を突破しようとしている不審な潜水艦を発見。
これに対し、砲撃を開始し、2発目が司令塔に命中。更に爆雷を投下して撃沈した。
この米駆逐艦『ワード』に撃沈された特殊潜航艇は『広尾彰少尉艇』ではないかと推定されている。
午前7時3分、更に米駆逐艦『ワード』は音波探知機で新たな特殊潜航艇を発見し、爆雷攻撃で撃沈する。
これが『古野繁実中尉艇』ではないかと思われる。

(参考:平塚柾緒著『パールハーバー・真珠湾攻撃』)

(平成19年7月31日追記)


真珠湾攻撃
艦名 指揮官 潜水艦長 特殊潜航艇
指揮官
特殊潜航艇
整備
伊22潜 大佐 
佐々木半九


中尉 
松尾敬宇
中佐 
揚田清猪
大尉 
岩佐直治
一曹 
佐々木直吉
一曹 
河本孟七郎
三曹 
赤木逸美
伊16潜 中佐 
山田 薫
中尉 
横山正治
二曹 
上田 定
二曹 
出羽吉次
三曹 
畑下五男
伊18潜 中佐 
大谷清教
中尉 
古野繁実
一曹 
横山薫範
二曹 
宇野 真
三曹 
木本薫二
伊20潜 中佐 
山田 隆
少尉 
広尾 彰
二曹 
片山義雄
二曹 
林 喬美
二曹 
松下宇之吉
伊24潜 中佐 
花房博志
少尉 
酒巻和男
二曹 
稲垣 清
二曹 
山根利男
二曹 
吉田忠次郎

12月7日、午前3時42分、真珠湾入り口の日施掃海作業を実施していた2隻の掃海艇中の1隻「コンドル」の当直士官のR・C・マックロイ少尉が、湾口浮標(ブイ)の外方2浬の海面に、1隻の小型潜航艇の潜望鏡を発見し、付近を哨戒中の駆逐艦「ウォード」に発光信号した。
「ウォード」では、艦長のウィリアム・W・アアウターブリッジ大尉が、全員を戦闘配置につけ、約30分間、付近の海上を捜索したが、何も発見できなかった。
この“怪潜望鏡の小型潜航艇”は、発見された時刻や状況から見て「横山艇」であったと思われる。

午前6時33分、哨戒から戻る途中のPBY偵察機が国籍不明の“小型潜航艇”を発見、発煙筒を2個投下した。
その艇は、工作艦「アンタレス」が鉄製平底船を曳航して湾内に入ろうとしている後ろをぴったりとつけて、開かれた防潜網を突破しようとしていた。
駆逐艦「ウォード」は、ただちに現場に急行し、午前6時45分、90mの至近距離にせまり、発砲を開始。
第2弾目を司令塔に命中させ、ついで爆雷攻撃を行った結果、同艇は急速に速力を落とし、左に傾斜して沈没、そのあとに多量の油が浮いた。
状況から察すると、「広尾艇」「古野艇」であろう。
この特殊潜航艇は、昭和35年(1960年)6月13日に、真珠湾の湾口からダイヤモンドヘッドへ向かって、1.8km、深さ23mの海底から引き上げられた。
(翌年、日本に返還され復元されて海上自衛隊第1術科学校に安置されている。)
2本の魚雷は装填されたままで未発射。
衝撃的なことは、艇内に、2名の乗組員の遺骨、遺歯がなかったことだ。
乗組員の姿が消えていることに関し、米海軍当局は、「搭乗員は沈没と同時に艇外に脱出、逃亡したものと推測される」とした。
その根拠として、@司令塔のハッチの掛金が内側からはずされている。A遺骨も遺歯もない。B艇の自爆装置に点火した証跡がない点を上げた。
搭乗員は、艇に万が一の事態が生じたときは、浮上し、敵陣に斬り込むために、各自が日本刀と拳銃を携行していたが、それも艇内にはなかった。
とすれば、「ウォード」が接近、砲撃し、爆雷攻撃を加えて沈没せしめた艇は、無人だったということになる。

真珠湾への空爆が開始される寸前の午前7時30分、駆逐艦「ウォード」の音波探知機は新たな潜航艇を捕らえ、容赦なくこの艇に対し、激しい爆雷攻撃を浴びせた。
その結果、潜航艇は、かなりのダメージを受けて、多量の油を洩らしながらも追跡を逃れ、湾口侵攻を断念し、空爆を避けて湾外へ脱出をはかる敵艦を狙った。
午前10時ごろ、はたして乙巡「セントルイス」が、湾口に姿を現した。
待っていましたとばかりに、必殺の魚雷2本を放ったが危うくかわされて、魚雷は2本とも水道入口の珊瑚礁に当たって爆発した。
魚雷2本を発射すると、特殊潜航艇の艇首は、急に軽くなった反動で、海面にイルカのように跳ね上がり、司令塔までが海上に露呈する。
攻撃に失敗した艇は、今度は「セントルイス」から司令塔を砲撃された。
ルード艦長は、おそらくこれを撃沈し得たと判断した。(※ 誰の艇なのかは不明)

午前8時17分、真珠湾湾口水道の東側の珊瑚礁に座礁して、駆逐艦「ヘルム」に発見され砲撃を受けたのは「酒巻艇」である。
再三再四後進をかけた結果、幸い砲弾も当たらず、やっと離礁に成功し、再び潜航し、難を逃れた。
だが、魚雷発射装置、その他に損傷を受け、転輪羅針盤の故障も重なって遂に、真珠湾からはるかに離れた裏オアフのカネオヘ飛行場に近いベローズ・ビーチ沖合いの珊瑚礁に座礁し、艇長の酒巻少尉は、浜辺に人事不省で倒れているところを、日系二世のデイビッド・M・阿久井軍曹によって捕らえられた。
艇付の稲垣二曹は、艇を脱出して、浜辺に泳ぎつくまでに、極度の疲労のために、溺死したか、そのころよく出没していた人喰い鮫の餌食になって果てた。

午前8時35分、応急出動艦「モナハン」は、真珠湾内のフォード島とパールシティの間を南西に向かって航行中、信号兵が、水上機母艦「カーチス」が「敵潜水艦発見」の信号をあげていると、艦橋に報告した。
日本機による空爆は既に始まっており、「カーチス」は、日本機の急降下爆撃の直撃を浴び、甲板上は火の海になっていたが、その消火作業中、700ヤードの至近距離に、切り株のような潜航艇の司令塔を発見し、敵潜水艦発見の信号をあげていたのである。
その潜航艇は「カーチス」めがけて魚雷1本を発射。
だが至近距離に過ぎ、その魚雷は「カーチス」に命中せず、パール・シティのドックに命中した。
「モナハン」のバーフォード艦長は、この潜航艇めがけて突進。
すると今度は、「モナハン」めがけて魚雷が発射されてきたが、これもはずれ、フォード島の海岸で爆発した。
その間、「カーチス」は飛び出すように浮上した潜航艇の司令塔に射撃を浴びせ、艇長を即死させた。
「モナハン」は、潜航艇に激突し、その上を乗り越え、爆雷攻撃をさらに加え、浮上したところをとらえて艇の前部を吹き飛ばした。
「モナハン」に無残な姿で撃沈せしめられたのは、「岩佐艇」であったようだ。
この特殊潜航艇は、その後まもなく泥中から引き揚げられたが、損傷があまりにも大きく、有効な資料を得られなかったので、葬送の儀式を行なったうえ、艇は、乗員2名の遺体を収めたまま当時建築中の潜水艦基地の基礎固めに用いられた。

岩佐艇

【岩佐直治いわさなおじ大尉】
27歳。
男6人、女2人の8人兄弟姉妹(うち男3人、女1人は夭折)の末っ子。
小学6年のときに、前橋師範学校主催の県下小学校剣道大会で優勝。
中学5年生のときに海軍兵学校と海軍機関学校を受験したが失敗。
昭和9年4月1日、海軍兵学校入学(海兵第65期)
戦死後、二階級特進して中佐に任ぜられる。
岩佐直治には、婚約者がいたが、真珠湾攻撃がはっきり決まったとき、彼は理由を言わず、前橋市に住む婚約者に破談を申し入れた。
理由を明かされなかった婚約者の家の人々は、非常に気を悪くしたが、岩佐は最後まで真珠湾必死行のことを洩らさなかったのである。
昭和22年(1947年)3月、ハワイ海軍当局は、特殊潜航艇の遺品として、真珠湾湾底の泥にまみれた海軍大尉の袖章を日本へ送還した。
特別攻撃隊の隊員中、「大尉」は岩佐直治隊長しかいないので、遺族に送付された。
昭和39年(1964年)12月8日、この袖章は、遺族から、東京九段の靖国神社へ“奉納”された。
岩佐直治の次兄・竹松の長男・直三郎は、ペリリュー島の歩兵砲中隊長として玉砕している。

【佐々木直吉一等兵曹】
29歳。
「九軍神」中の最年長者。
大正2年5月20日、父・佐々木清市、母・ナカの三男として生まれるが、母親は出産後4日目に36歳の短い生涯を閉じた。
このため叔父の佐々木梅市・やす夫妻に、実母の初七日も済まぬ8日目に引き取られて育った。
佐々木直吉は、呉海兵団の入団手続きのため、戸籍謄本を取り寄せるまで、叔父夫婦を実の親だと思って育った。
久代尋常小学校から高等小学校を卒え、昭和3年の春から、大阪の金物商と、宇部市の材木屋に、それぞれ1年間商売見習いにやられたが、いずれも「俺にゃこの商売は向かん」と言って帰郷してしまった。
19歳のときに呉海兵団を受験して失敗、翌年入団。
以来、駆逐艦「薄雲」「鳶」の乗り組み、水雷学校を経て駆逐艦「磯波」乗り組み、さらに潜水学校、水雷学校高等科の「海軍歴」をもつ。
この間、「戦技優等賞」を2回も獲得する模範下士官だった。
発表された当時、他の「軍神」と同じように、独身とされていたが、実際は近郊の有福村出身の農家の娘と見合い結婚をしていた。
舞鶴に新妻を呼び、新婚生活を送る準備をしていたが、どういうわけか、花嫁は1週間婚家にいただけで、実家に舞い戻ってしまった。
「九軍神」の面々は、士官・下士官を問わず、いずれも寡黙実行のタイプだが、佐々木直吉は、そのなかでも群を抜いてのムッツリ型であった。
戦死後二階級特進して特務少尉に任ぜられる。

横山艇

【横山正治よこやままさはる中尉】
23歳。
男8人、女5人の“子だくさん”兄弟姉妹中、六男として生まれる。
日清日露の両戦役に近衛兵として従軍した父親の正吉は58歳の若さで逝き、母親のタカの手一つで育てられた。
鹿児島県立二中(現:甲南高校)卒。
海軍兵学校では、1期先輩で、同じ特殊潜航艇の講習員を命ぜられた同郷の中馬兼四ちゅうまけんし大尉へ、真珠湾出撃を前にして、「私が戦死したら、これを開いてください」とにこにこしながら封書をことづけている。
九軍神が発表された後、中馬大尉が約束どおりその封書を開いてみると、中には遺髪と遺爪、現金200円が入っており、「戦死した際は、忠愛なる部下の上田兵曹の家と、私の家と半分あて送ってください」と書き添えてあった。
戦死後二階級特進して少佐に任ぜられる。
岩田豊雄(獅子文六の本名)の小説『海軍』の主人公「谷真人」は横山正治をモデルとしている。
昭和20年6月17日の鹿児島市大空襲で、「軍神・横山少佐の家」も全焼し、母親のタカ(70歳)は、三女シズヱ(35歳)、四女ミヨ(34歳)、五女エダ(31歳)と共に焼死した。
また、次男の正一郎、四男の四郎は、それぞれ中国戦線で戦死と戦病死した。

【上田定かみたさだむ二等兵曹】
男2人、女4人の6人兄弟姉妹の長男。
中学に入学する頃は、夢を“大陸・満州”に描き満蒙青年団に志願しようと思った。
親友の一人が、一家をあげてカリフォルニアへ移民したことも手伝って、夢は「満州」から「カリフォルニア」「ハワイ」へ移った。
その夢を実現させてくれるいちばん手っ取り早いのは「海軍」だという結論に達した。
官費で世界が見れると思ったのだ。
昭和9年、呉海兵団に入団。
昭和11年5月、水雷学校普通科を終え、舞鶴防備隊潜水学校を卒業すると、伊55潜水艦、伊70潜水艦に艇乗、その後さらに水雷学校高等科に転じ、昭和15年6月、抜群の成績で卒業した。
戦死後、二階級特進で兵曹長に任じられる。

古野艇

【古野繁実ふるのしげみ中尉】
24歳。
古野家は、遠賀郡でも屈指の名家であり、代々庄屋をつとめた家系。
女1人、男6人の7人兄弟の三男。
4〜5歳のころから人一倍軍人好きで、演習等があると、すっかり昂奮して“兵隊さん”のあとを追って、どこまでもついていった。
県立東筑中学(現:東筑高校)4年生時に受験した海兵は失敗に終わったが、翌年は海軍兵学校と陸軍士官学校に同時合格し、海兵に進む。
「軍神・広瀬中佐」に傾倒していたので、帰省のたびに、大分県竹田町にある広瀬中佐の墓に参拝した。
酔えば必ず歌う白頭山節の「泣くな嘆くな必ず帰る 桐の小箱に錦着け 会いに来てくれ九段坂」が得意だった。
戦死後、二階級特進して少佐に任ぜられる。

【横山薫範よこやましげのり一等兵曹】
25歳。
男3人、女1人の末っ子。
薫範を生んだとき、母親はすでに40歳近かったせいか、母乳が出ず、重湯葛湯などの人工栄養で育てられ、子守役は、そのとき小学4年の次兄・武雄少年だった。
小学校高等科を卒業した16歳のとき、少年航空兵を第一志望として海兵団の試験を受けたが失敗。
親友と3人で海兵団を突破を目指し“ガリ勉”を開始、昭和9年6月1日、3人そろって呉海兵団に入団した。
軍艦「扶桑」乗り組みの後、海軍水雷学校、海軍潜水学校を卒業。
出撃にあたって、同僚に、呉市の駄菓子屋で買ったラジオ豆(砂糖まぶしの豆)を搭乗服のポケットから取り出してすすめながら、「戦艦をやってくるぞ」と洩らしたと伝えられているほかは、遺書の類は残していない。
戦死後、二階級特進して特務少尉に任ぜられる。

広尾艇

【広尾彰少尉】
22歳。
海軍兵学校を卒業したてで出撃。
「武士道とは死ぬ事と見つけたり」の『葉隠』を常に離さぬ硬骨漢。
真珠湾突入を前にして、「ホノルルのアイスクリームはうまいから、帰りに立ち寄って買ってこようか」と言い、「お弁当持ったり、サイダーを持ったり、チョコレートまでそろえて、こりゃハイキングですな」と破顔一笑して、「軍装は着て行くべきだが、暑いから、作業服でごめんこうむろう。しかし肌衣は、すっかり新しいのに着替えた」と言って出撃したと伝えられている。
戦死後、二階級特進して大尉に任ぜられる。
「佐賀県が生んだ大東亜戦争最年少の軍神」と言われた。

【片山義雄二等兵曹】
24歳。
山また山の中の貧しい小作農の男5人兄弟の四男坊として生まれた。
五城高等小学校を卒業すると、家計を助けるために岡山市西大寺町のトランク店に就職した。
片山義雄少年は、以前、その店の店員が、呉海兵団に入隊して水兵姿で店を訪れたことに非常に刺激され、昭和11年1月、呉海兵団へ入団した。
水雷学校高等科を修了後、海軍潜水学校を卒業し、「支那事変」にも参加した。
戦死後二階級特進で、兵曹長に任ぜられた。
長男の片山巳佐男みさおは、昭和4年6月に召集され、朝鮮龍山へ歩兵として入隊し、その後復員して岡山市内で商店を経営していたが、昭和18年10月18日に、岡山中部第48部隊に36歳で応召、海上輸送第5大隊補充要員として任務遂行中、昭和18年12月2日、土佐沖300浬かいりの海上で米潜水艦に撃沈されて戦死。
二男の片山卓衛は、昭和19年7月に召集され、岡山中部第48部隊に入隊し、8月に南方軍緊急補充員として派遣され、昭和20年6月29日、ルソン島のリザール州モンタルバンで戦死。

酒巻艇

【稲垣清二等兵曹】
男6人兄弟の長男。
昭和9年6月1日、20歳で呉海兵団に入団。
駆逐艦「早苗」乗り組みの後、海軍水雷学校を経て駆逐艦「呉竹」で訓練を受け、さらに水雷学校高等科を優秀な成績で終えた後、特別攻撃隊隊員への指名を受けた。
出撃に際して、戦友には、「とにかく最後の最後まで奮闘するョ」と言い、艦長には「今度お会いするのは、靖国神社であります」とだけ言った。
戦死後、二階級特進して兵曹長に任ぜられた。

シドニー湾攻撃

中馬艇

【中馬兼四ちゅうまけんし大尉】
酒も煙草もたしなまず、童謡が好きだった。
真珠湾で戦死した横山正治から託された遺髪、遺爪、そして託された金をそれぞれ、ていねいに達筆な文を添えて送った中馬大尉は「真珠湾で自分の友は散り、一人は殉職、一人長らえて友人たちの英霊に申し訳ない」と言っていた。
出撃にあたり、「俺に700円の貯金があるが、万一のときは、500円を部下の大森猛一兵曹の遺族にやってくれ。残りは、弟の学資にあてて、俺の遺志をつがせてくれ」と親友の大尉に頼み、「これは、自分が特潜について研究した一切の記録だ。後輩への改良資料としてくれ」と書類を渡した。
昭和17年(1942年)5月31日、特殊潜航艇に搭乗し、オーストラリアのシドニー湾に停泊中の豪州艦隊めがけて突っ込み「戦死」。
この「戦死」は自爆死だった。
狭いシドニー港湾口に張り巡らされていた防潜網に、特殊潜航艇のプロペラがからみつき、前進も後退もできぬ状態に陥り、遂に自らの手で艇を爆破せしめ、「帝国海軍軍人としての面目」を保ったのである。
戦死後、二階級特進して中佐に任じられ、「軍神」となった。

(参考:牛島秀彦著 『九軍神は語らず』 講談社 1976年第1刷)

(平成23年9月28日追記)


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