歩兵第65連隊

(通称号:鏡6805部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
仙台のち会津若松 第1次:明治41年
第2次:昭和12年
第13師団 衡陽(中国・湖南省)

明治40年10月、仙台の歩兵第4連隊、歩兵第29連隊にて編成業務開始。
明治41年6月、会津若松に入り、12月、連隊の編成を完結。

明治43年4月から大正元年4月まで韓国の守備。
その後、大正14年の軍縮で連隊は廃止される。

昭和12年9月、日中戦争の本格化で再編。
軍旗を再拝受して編成を完結し、第13師団に編合される。

昭和12年10月、上海に上陸し、上海北西の老陸宅、馬家宅を攻撃。
堅固な敵陣地と数倍の敵兵力に苦戦し、戦死傷者は1,719名に達した。
次いで南京攻略の前哨戦である江陰城攻略戦に参加し、第3大隊が江陰城に一番乗りする。
昭和13年5月、徐州会戦に参加。
徐州攻略後は蒙城、寿県盧州付近の警備にあたるが、その間に大別山突破作戦に参加。
続く武漢三鎮(武昌・漢口・漢陽の三都市)の攻略では、連隊は標高1,000メートルを超す峻険を踏破して漢口東部の麻城に到着。
補給難とマラリアに悪戦苦闘しながらも漢口突入の重責を果たす。
昭和14年5月、襄陽東方地区束陽付近の中国軍を撃滅せんとする襄東作戦に参加。
中国軍に大損害を与えて作戦を成功させるが、作戦終了後、漢水河畔の旧口鎮付近を警備中に冬期攻勢の中国軍3万が渡河して連隊正面に進出。
連隊の各警備隊は各所で孤立する危機となるが、これを撃退する。
昭和15年5月、第一次宜昌作戦に参加。
龍泉舗から宗家咀を攻略し、宜昌の北方地区一帯を掌握。
12月、連隊は中支軍の最前線部隊として龍泉舗に本部を移し、同地区に陣地を構築する。
昭和16年3月、宜昌西方突破作戦、7月から8月は宜昌北方作戦に参加。
9月、師団が第二次長沙作戦に第26旅団を抽出したため宜昌近辺の兵力が著しく減少。
このため中国軍が15個師をもって宜昌奪還の反撃に転じる。
宜昌地区は完全に包囲され、連隊は第104連隊と共に包囲の中にある師団司令部救出作戦を展開。
激烈な戦闘の中、第26旅団の帰着まで死守し通す。

日米開戦後の昭和17年、浙かん作戦、高峯寺付近の戦闘、三湖作戦、赫穴作戦、白露湖作戦などに参加。
昭和18年には常徳殲滅作戦に参加し、江南最大の要衝である常徳一帯を制圧した。
昭和19年、大陸打通作戦の一環としての湘桂進攻作戦に参加。
この作戦で連隊は上海上陸以来最大の損傷を被る。
死傷者は約1ヶ月の戦闘で2,900名にも上った。
昭和20年5月、関東軍の増強、本土防衛のための抽出のため軍は中国戦線を縮小を企図。
連隊は揚子江沿岸までの全軍反転作戦の最後方部隊として敵中に孤立したが、この戦闘中に終戦を迎える。
中支湖南省衡陽で昭和20年8月26日、軍旗を奉焼した。


記念碑



歩兵第65連隊・若松連隊区司令部記念碑
(福島県会津若松市・鶴ヶ城





(平成20年5月5日)

碑文

明治三十七八年戦役之結果帝國ノ國勢頓ニ膨脹シ四圍ノ情勢亦軍備ノ舊態ヲ許ササルニ至レリ是ニ於テカ師團ノ増設ヲ見明治四十年九月歩兵第六十五聯隊ハ仙臺ニ於テ若松聯隊区司令部ハ福島ニ於テ創メテ編成セラレ其管区ハ若松市北會津南會津大沼河沼耶麻安達安積田村石川岩瀬東白川西白河ノ一市十二郡ト定メラル同四十一年五月八日宮中ニ於テ聯隊ニ軍旗ヲ 親授セラレ同九日仙臺宮城野原練兵場ニ於テ軍旗授與式を擧行セラル聯隊ハ同年六月二十六日ニ聯隊区司令部ハ是ヨリ先二月二十九日ニ當若松市ニ移轉ス其後聯隊ハ同四十三年四月ヨリ満二年間韓國守備ニ任シ又大正十年六月ヨリ約一年間薩哈嗹州ノ要地ニ屯シ専ラ国威ノ發揚國権ノ擁護ニ任シタリ大正ノ後期我國ハ世界大戦ノ経験ニ鑑ミ将来戦ニ必要ナル新装軍備ヲ増設センカ為メ既設四個師團ノ廃止ヲ行フヤ茲ニ創立以来十有九年ノ歴史ヲ有スル歩兵第六十五聯隊竝若松聯隊区司令部ハ共ニ其運命ニ逢着ス是レ實ニ大正十四年五月一日ナリ此間聯隊ニ在リテハ飯島亀大島新山内正生平田豊三郎井上璞聯隊区司令部ニ在リテハ新名幸太正司平三郎貞松森太福田彦助稲垣清中村四郎太成田ソ蔵伊藤政之助其長官トシテ歴任ス今其管区タリシ二市十二郡聯合分會長相謀リテ之カ主催トナリ同關係在郷軍人等醵金シテ建碑スルニ當リ茲ニ其由来ヲ記スルコト云爾

昭和五年四月
陸軍少将 正五位勲三等      井上璞   篆額書
陸軍少将 従四位勲三等功四級 伊藤政之助 撰竝書


営門



連隊営門
(福島県会津若松市・市立第二中学校)





(平成20年5月5日)
連隊跡周辺



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