歩兵第4連隊

(通称号:勇1301部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
宮城県仙台 明治8年 第2師団 サイゴン

明治8年、仙台鎮台の第1大隊および第2大隊が併合して創設。
明治16年、西南戦争の後に第3大隊を増設。
明治21年、軍の編制改革により仙台鎮台が廃止・改編され、第2師団に改称。
歩兵第4連隊は第2師団の隷下に入る。

明治27年、日清戦争に参加。
明治37年の日露戦争では第1軍に属して鴨緑江渡河作戦に参加。
九連城、鳳凰城、魔天嶺、遼陽、沙河、奉天会戦に参加。
その後、2年ほど羅南、会寧、茂山などに駐屯。
大正11年6月から北樺太の守備のため1年間派遣される。

昭和6年4月、満洲駐留のため長春に派遣。
満洲事変では、長春、寛城子、南嶺、吉林、三間房、チチハル、ハルピン、敦化などを転戦。
昭和8年1月、仙台に帰還。
昭和12月4月、再び満洲に駐屯し警備に任じる。
同年7月7日、日中戦争が勃発し、ハルピンに駐屯していた第1大隊は、歩兵第15旅団長の指揮下に入り、チャハル作戦、北部山西作戦に参加した。
昭和13年5月、北支に派兵され徐州会戦に協力。
昭和14年7月、ノモンハン事件に参加。
昭和15年秋、仙台に帰還。

昭和16年、日米開戦により第2師団は第16軍の戦闘序列に入り、ジャワ島攻略に向かう。
昭和17年3月1日、ジャワ島西部のメラク湾に上陸を敢行、首都ジャカルタを経てバンドンに入城。
同年6月5日にはフィリピンに移動。
ミンダナオ島・ダバオの東北デブンコにおいて青葉支隊に編入される。
8月、デブンコからラバウルを経て、9月4日以降、分散して逐次ガダルカナル島に集結。
第2大隊は川口支隊(川口少将)の指揮下に入り、連隊主力はルンガ飛行場の攻略に当たる。
戦闘は熾烈を極め、中熊直正連隊長以下多くの犠牲者を出す。
昭和18年5月7日、ガ島を撤退してマニラに到着。
同年9月下旬、連隊主力はジャワ島東部、第3大隊はバリ島の警備に任じる。
昭和19年3月、連隊主力はビルマに転進。
武兵団(林少将)の指揮下に入り、敵空挺部隊陣地を攻撃する「9号作戦」を遂行。
5月には菊兵団(第18師団)の指揮下で、ミートキナ、カマインなどフーコン地区で戦う。
昭和19年9月、第2師団の指揮下に復帰。
第一次断作戦、第二次断作戦に参加。
昭和20年1月、連隊主力は第三次断作戦に参加してナンパッカに進み、龍兵団(第56師団)の指揮下に入って軍の転進を掩護。
昭和20年2月、第2師団が南部仏印に転進を命じられ、連隊もモールメンまで移動したが3月14日反転。
ピョーベで菊兵団の指揮下に入り敵機甲部隊と激突して大損害を出す。
昭和20年7月、南部仏印への転進命令受領。
臨時編成の勇第1大隊をビルマに残置して連隊主力は泰緬鉄道でサイゴンへ向かう。
バリ島警備の第3大隊は連隊に復帰するため6月6日、重巡「足柄」に乗りインドネシアを出発したが、途中、米潜水艦の攻撃を受け撃沈される。
中隊長窪田里美大尉ほか54名が海没した。
ビルマに残置された臨時編成勇第1大隊は、対岸の英印連合軍からの猛烈な砲撃を受けながら戦い続け、7月20日、シッタン河渡河作戦を敢行して敵の包囲から脱出することに成功する。
仏印に在った連隊本部は、サイゴンの北にある「ベンクイ・ゴム園」に移駐後、終戦の放送に接する。
昭和20年8月31日、サイゴン北西80kmにあるホクモンの南1kmの地点にあるゴム林の中で軍旗を奉焼。
一刈連隊長以下9名が立ち会った。
昭和21年4月、連隊主力が復員。
臨時編成勇第1大隊は、同年5月12日にラングーンを出港し、29日に仙台に復員した。





「至誠無息 歩兵第四聯隊之跡」碑

(仙台市宮城野区五輪・榴岡公園)



(平成24年6月2日)

【碑文】

歩兵第四聯隊は明治八年九月九日重陽の佳節にあたりわが郷土出身
者によってここ榴ヶ岡に編成せられてから星霜実に八十有余年父子相
継いで護國の大任についた  其間明治十年西南の役を初めとし日清日
露の両戰役満州事変昭和十二年日支事変引続き大東亜戰争等幾多の事
変戰争に参加し二回に亘り感状を賜はる等抜群の功績は永く記念すべ
き聯隊であった  然るに昭和二十年終戰に遭い 畏くも 明治大帝よ
り親授された我が軍旗は昭和二十年八月三十一日午後十二時南部佛領
印度支那サイゴン市西北方約八十粁ホックモン町のゴム林内で涙を呑
んで奉焼した  我等聯隊出身者竝に縁故者有志は今は無き軍旗の榮光
を偲び併せて陣歿せる幾多先輩戰友諸氏の英魂を慰むるためここに思
出深き営門前に記念碑を建立し之を後世に伝うるものである

  昭和三十五年九月九日   重 陽 会
                    その他有志一同

「歩兵第4連隊之跡」碑

この記念碑は、旧歩兵第4連隊関係者によって昭和27年(1952)に設立された重陽会とその他有志一同によって、旧営門付近に建てられました。
碑文の「至誠無息」は旧第2師団長・旧陸軍大将の岡村寧次やすじ、「歩兵第4連隊之跡」は仙台生まれの旧陸軍大将の今村均によるものです。
なお9月9日は重陽の日(9月の節句)であるとともに、明治8年9月9日は、歩兵第4連隊に軍旗が授与された日であり、軍旗祭が行われる日でもありました。

(参考 『ガイドブック「仙台の戦争遺跡」』 平成20年10月 仙台市教育委員会発行)




営門跡(推定)
(仙台市宮城野区五輪・榴岡公園)



(平成24年6月2日)

 営庭跡と旧兵舎跡(榴岡公園)



第4連隊兵舎
(仙台市宮城野区五輪1−3−7・榴岡公園内)

現:仙台市歴史民俗資料館


(平成24年6月2日)

仙台市指定有形文化財 昭和53年6月16日指定
旧第四連隊兵舎

明治7年(1874)に造営された兵舎建築で、宮城県内に現存する洋風建築では最古のもの。
瓦葺寄棟造かわらぶきよせむねづくり木造2階建で、漆喰塗しっくいぬりの大壁、建物角隅にはコーナーストーン、ガラス入り上下窓、出入口のポーチには洋風円柱、雲形の彫刻を有する階段等の特徴を持つ。
これらは明治6年完成の名古屋第六連隊兵舎と似ていることから、当時の兵舎建築の基準に則ったものと考えられる。
終戦まで60年間にわたり旧陸軍の兵舎として使用された後、終戦から昭和31年までは米軍が駐留、その後、昭和50年まで東北管区警察学校等に使用された。
内部はその都度改造されているが、昭和53年文化財に指定された後、明治37年の状態に復元された。
なお、同様の兵舎が7棟残されていたが、これ以外の兵舎や本部等の建物は、榴岡公園整備のため昭和52年2月に取り壊された。

(説明板より)

 階段部分

旧歩兵第4連隊コーナー

旧歩兵第4連隊コーナー(仙台市歴史民俗資料館の常設展示)

仙台市歴史民俗資料館の常設展示には、旧陸軍歩兵第4連隊中隊兵舎の内務班の様子が一部再現されています。
1個中隊の定員は150名ですが、実際には、昭和初めの平時には200〜220名くらいが在籍していました。
歩兵第4連隊には13個中隊があり、中隊での兵営内生活の最小単位が内務班でした。
1個班は40名くらいでした。

(参考 『ガイドブック「仙台の戦争遺跡」』 平成20年10月 仙台市教育委員会発行)



満州に派兵された歩兵第4連隊が
満州北部の駐屯地・賓県(ピンシェン)に入城

昭和12年(1937)/仙台市歴史民俗資料館所蔵

(説明パネルより)


(平成24年6月2日)


軍旗



軍旗
宮城県護国神社・英霊顕彰館)





(平成21年11月9日)

軍旗

旧陸軍第2師団歩兵第4聯隊の軍旗は明治8年9月9日、畏くも明治天皇より親授されたものであるが、終戦により昭和20年8月31日、旧フランス領インドシナ・サイゴン(現ベトナム・ホーチミン市)西北方約80キロのホクモンのゴム林内で奉焼された。
この間、郷土部隊の歩兵第4聯隊の将兵は軍旗の下、明治10年西南の役を初めとし、日清・日露の両戦役及満洲事変・支那事変続いて大東亜戦争に従軍し2回に亘る感状と、数々の賞詞を賜わる等、赫々たる武勲を樹てた。
この軍旗の下で生死を共にした戦友は、軍旗の栄光を偲び毎年軍旗拝受記念日の9月9日に軍旗祭を行ってきた。
昭和54年、軍旗拝受105年の記念事業として、軍旗を復元し永久に保存することとなった。
復元した軍旗には、奉焼の際、伊藤芳雄聯隊旗手が形見として分割、持ち帰った軍旗の房の一部を織り込んである。
この軍旗には数多くの亡き戦友の魂が通っている。

昭和54年9月9日
歩兵第4聯隊会会長 佐々木次男

(説明パネルより)

奉焼の際に持ち帰った総の一部



奉焼の際に持ち帰った総の一部
(宮城県護国神社・英霊顕彰館)

多賀城駐屯地寄託



(平成21年11月9日)
満洲国における歩兵第4聯隊 軍旗




満洲国における歩兵第4聯隊 軍旗

(宮城県護国神社・英霊顕彰館)


昭和13年4月29日 濱江省濱県にて





(平成21年11月9日)



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