和宮 かずのみや

弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)〜明治10年(1877年)9月2日


名は親子ちかこ
嘉永4年(1851年)有栖川宮熾仁たるひと親王と婚約。
万延元年(1860年)公武合体を図る幕府の皇女降嫁奉請を孝明天皇が勅許し、文久元年(1861年)内親王宣下を経て、翌年に江戸城で将軍家茂と結婚する。
慶応2年(1866年)家茂と死別し、静寛院と称した。
明治元年(1868年)朝敵となった嫁家徳川家の存続を朝廷に嘆願する。
のち、京都、東京に隠棲。


和宮の碑



和宮之碑
(岐阜県大垣市赤坂町・赤坂宿本陣跡)





(平成19年4月3日)

碑文

和宮は弘化3年仁孝天皇の皇女として誕生された。
万延元年幕府は公武合体により朝幕の融和を図ろうと、皇女和宮の降嫁を請願した。
孝明天皇は憂慮され、■■和宮は、有栖川宮熾仁に■■との■約があ■近く婚儀が実現されることとなっていたので、その奉請を却下されたが、時■■困難が相次ぐので止むなく許可されることになった。
かくて翌文久元年10月20日京都出発、道を中山道にとり2■日、ここ赤坂本陣に宿泊され、11月15日江戸に到着、14代将軍家茂の夫人となられた。
時に家■は和宮と同年の16才であった。
   惜し■■■■と民との為ならは
   身は武蔵■■の露と消ゆとも
和宮は、江戸城大奥の生活に耐え、よく■君家茂に仕えられたが、■■■■の陣中で、■君は不帰の客となった。
その時和宮は21才、悲涙に■■せられ■■詠まれた歌に
   空蝉の唐織ごろもなにかせむ
   綾も錦も君あってこそ
明けて慶応3年の大政奉還、鳥羽伏見の戦い、江戸城攻撃と相つぐ■乱の中で婚家のため世のため民のため■■を砕かれた生きざまは、まさに女■の鑑である。
その遺徳を偲び、降嫁の折り宿泊されたこの地に碑を建立し、■■その生涯を語り継ぐものである。

日比野■識
平成元年10月25日
皇女和宮史跡保存会

碑文 碑文

大変失礼なことを書きますが・・・・
達筆な筆跡で書かれていますが、誰もが読めるというものではなく、読む気も起こらないであろう字体で書かれた碑文です。
多くの人に読んでいただいてこそ意味があるのではないでしょうか?
この字体で「語り継ぐ」には無理があるのでは?
中山道赤坂宿本陣跡



史跡 中山道赤坂本陣跡
(岐阜県大垣市赤坂町)





(平成19年4月3日)

中山道赤坂宿 本陣跡

当所は、江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣であった。
間口二十四間四尺、邸の敷地は二反六畝二十六歩、建物の坪数は、およそ二百三十九坪あり、玄関・門構えの豪勢なものであった。
寛永以後、馬渕太郎左ヱ門に次いで平田又左ヱ門が代々本陣役を継ぎ、天明、寛政のころ暫らく谷小兵衛が替ったが以後、矢橋広助が二代に及んで明治維新となり廃絶した。
文久元年10月25日、皇女和宮が、ここに泊した事は余りにも有名である。

昭和60年8月
大垣市赤坂商工会観光部会

(説明板より)



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