騎兵第4連隊

編成地 設立時期 軍旗拝受
東京のち大阪 明治21年 明治29年

明治21年、東京の騎兵第1大隊の中に大隊本部と1個中隊を新設。
明治22年、大阪に移る。
明治25年、2個中隊の大隊編成完了。
日清戦争までは大隊編成であった為に軍旗は授与されず、日清戦争後、連隊となり、明治29年11月19日に軍旗を拝受した。
編制はは、日清戦争後復員にあたり補充隊を統合して3個中隊の連隊に改編。
その後、大正11年の軍備整理により2個中隊に編制縮小。
昭和17年に乗馬1個中隊、装甲車1隊の捜索第4連隊に改編されて軍旗を奉還。
昭和18年、動員されて南方に出動した時の編制は装甲車4個中隊である。


慰霊碑



『騎兵第4連隊 慰霊』の碑

大阪護国神社





(平成20年6月15日)

碑文

騎兵第4連隊は明治22年に創立され 明治25年3ヶ中隊の大隊となる
明治29年11月19日軍旗を奉載す
爾来 日露戦争支那事変大東亜戦争等 第4師団隷下各部隊に伍し或は所属す
捜索騎兵特科部隊として斥候伝令 或は長躯挺進し友軍戦勝の快挙に寄與し数々の功績を残す
砲煙弾雨により軍旗は焼失し房のみとなる
戦後全国に魁け旧真田山兵舎史跡碑最上段に忠魂碑を建立毎年11月3日に慰霊祭を行い英霊顕彰の誠を奉持する
茲に平成6年度第42回慰霊祭を期し多数御遺族の御賛同を賜り 騎兵第4連隊慰霊碑建立発起委員会を結成 本慰霊碑を建立す

平成6年11月3日
大阪騎兵会

(裏)
騎兵第4聯隊
騎兵第104大隊
捜索第34聯隊
騎兵第75聯隊
捜索第4聯隊
独立輜重第54大隊
独立輜重第55大隊


鎮魂碑


鎮魂碑
(大阪護国神社)

第二次世界大戦終結四拾周年記念
昭和六十年拾月参日
騎捜鎮魂會


(平成20年6月15日)

騎兵第4聯隊
捜索第4聯隊
騎兵第28聯隊
捜索第20聯隊
騎兵第104大隊
騎兵第75聯隊
捜索第34聯隊
騎兵第41聯隊
騎兵第49聯隊
捜索第30聯隊

(碑文より)


歴代連隊長
第 1代(大隊長) 少佐 大高坂正元 日清戦争 第13代 中佐 石田 真七  
第 2代(連隊長) 中佐 本多 道純   第14代 高波 祐治  
第 3代 少佐 宮崎 兼文   第15代 山内 保次  
第 4代 中佐 内田 広徳 日露戦争 第16代 大佐 田村彌三郎  
第 5代 三岳於莵勝   第17代 中佐 三間 良衛  
第 6代 岩谷竜太郎   第18代 藤本 専次  
第 7代 吉田 盛義   第19代 新妻 雄 満州事変
第 8代 大島 又彦   第20代 田村 理七
第 9代 太田黒竜亮   第21代 山崎 武四 支那事変
第10代 三好 一   捜索第4連隊長
第11代 川崎 次郎   第22代 大佐 今村 安 支那事変・大東亜戦争
第12代 石川 亀彦          

戦歴

騎兵第4連隊

(日清戦争)
出征したのが明治28年4月で、出征後間もなく休戦となったので活動の機会はなかった。

(日露戦争)
明治37年5月、第2軍に属して遼東半島に出動。
金州・南山の攻撃にあたってはその北方で背後の警戒にあたる。
第2軍が反転して北進するや、軍内に並立して前進する師団の最前方を進み、又、しばしば騎兵第1旅団に属して行動する。
得利寺の会戦、熊岳城、蓋平、大石橋、海上の攻撃、遼陽会戦などに参加。
次いで沙河会戦、奉天会戦においても彼我接戦の中央正面で、師団攻撃のための敵情地形の偵察、師団翼側の警戒、隣接兵団との連絡、戦線の間隙補填、敵の間隙突破・潜入等の各種の困難な任務を遂行。
3月10日、奉天に侵入後、13日には師団を離れて秋山騎兵支隊に属して追撃に移る。
敵を追撃して鉄嶺、開原を経て遠く昌図北方に進出し、満州軍の最前方で広く捜索に従事する。
4月下旬師団に復帰し、9月には休戦。

(満州事変・支那事変)
昭和12年に出動し、治安の最も困難であった北満三江省に駐屯し、掃匪粛正に任じる。
昭和12年12月から翌13年末まで第8師団長の隷下に入って東部国境の警備に任じ、翌14年2月には国境饒河付近の討伐を行なう。
同年9月、ノモンハンの戦闘に参加するため西方興安嶺を越えてコロンバイルに鉄道によって前進したが停戦協定が成立したため三江省佳木斯に帰駐。
翌15年、支那に出動。
11月、第一次漢水作戦に参加。
昭和16年には予南作戦、第二次長沙作戦、湖北作戦に相次いで参加する。

(大東亜戦争)
昭和16年末、上海に応急派兵され共同租界を占領して警備にあたる。
昭和17年3月、比島(フィリピン)に転進したが、比島進攻作戦は既に一段落を告げていたため、マニラ西方のマッキンレーで警備に任じ、8月に内地に帰還して捜索第4連隊に改編された。

捜索第4連隊

昭和18年9月に動員。
編制は装甲車4個中隊。

連隊長 今村安大佐
連隊副官 金田寿太郎中尉
第1中隊長 池田耕太郎大尉
第2中隊長 堀江晴中尉
第3中隊長 後藤栄中尉
第4中隊長 浅川雅美中尉

スマトラに派遣され同島中部で警備にあたりながら英軍の反攻上陸に備えて訓練に邁進する。
昭和20年2月、師団主力と共にタイ国に転進。
次いで師団主力を離れて仏印のサイゴンに派遣され仏印処理作戦に参加。
4月、タイ国の師団主力の位置に復帰し、同地で終戦を迎えた。


騎兵第4連隊忠魂碑



騎兵第4連隊忠魂碑
(大阪市天王寺区真田山町5−70・真田山公園事務所)





(平成20年6月16日)

騎兵第4聯隊歌

1.東に生駒の山高く
  西にはチヌの海眺め
  軍馬のいななき勇ましく
  集う八州の健児なり
  その名も高き桃山に
  聞かずや高くうたわるる
  錦城騎兵四聯隊
2.春は花咲く吉野山
  若草もゆる信太森
  吹く朝風に勇ましく
  栗毛の駒にまたがりて
  槙尾の山の桜花
  駒の蹄の音高く
  わが駒勇め今しばし
3.青葉若葉の風薫る
  はつ夏の頃早やすぎて
  炎熱もゆる八月の
  波風高き高師浜
  水馬演習も勇ましく
  武門の名誉偲びつつ
  怒涛に駒を乗り入れる
4.秋風立ちて中つ頃
  播州加古川上流の
  青野ヶ原の原頭に
  四百の騎兵勇ましく
  襲え襲えの号令に
  戦場の華とうたわるる
  あゝ爽快の襲撃ぞ
  あゝ爽快の襲撃ぞ

騎兵第4聯隊之歴史

騎兵第4連隊は、もとこの真田山公園の全域にあった。
明治22年(1889年)2個中隊の大隊編成として始めて大阪に新設され、兵員250、馬匹200程度で、大隊長は大高坂正元少佐である。
明治29年日清戦役の直後同年11月19日、軍旗を拝受し爾来昭和7年まで此の地にあり、軍旗を拝受すると共に、騎兵第4連隊と改編、茲に、日本帝国の、陸軍の華として発足した。
当時は国民皆兵制のため、徴兵令に従い、男子21才に達すると全国一斉に徴兵検査が施行せられ、身体、精神の厳密な検査をうけ、少しの故障、又は欠陥ある者は不合格となり、徴兵司令官より甲種合格の証書を自ら渡された時は、軍人の資格を得たことに、男子の本懐として強く感激したものである。
古来日本民族には 武勇を尊び、正義を愛し、その貫徹には死をも恐れぬ気概があり、入隊した者は、軍隊生活の第一日から厳格な訓練をうけた。
騎兵は又特科隊とも呼ばれ、馬も活兵器として、むしろ兵より大切にとり扱われ、食事も兵は馬よりいつも後であった。
戦歴としては、日清戦役に出動が最初で、日露戦役には、明治37年(1904年)第2軍に属し、金洲、南山の攻撃、蓋平、大石橋、海上の戦闘に続いて遼陽会戦に参加、次いで沙河戦を経て明治38年3月10日、敵の最重要拠点、奉天に入城、国運を懸けた。
さしもの大戦も、連合艦隊の大勝と相俟って、遂に露軍の全面降伏となった。
斯くして、この戦況に重大な関心をもつ世界の列強を驚かせ日本恐るべしの感を抱かせたのも事実である。
その後昭和20年(1945年)までこの3月10日を陸軍記念日(祭日)として全国民を挙げて戦勝記念日の行事が各地で行われた。
昭和7年の春、現連隊では狭隘のため訓練に支障の故をもって、堺、金岡に兵舎は移転された。
昭和12年に入るや、日本に対するアメリカの経済封鎖は日を経て強まり、日、中、米の情勢は緊迫を告げ、支那事変、大東亜戦争に突入するの止むなきに至った。
真田山連隊の出身者にして外地に出征した将兵は極めて少なく金岡部隊の出征者が殆んどで8割を超えるものと思われる。
昭和17年8月比島方面の連隊は一旦内地に帰還し、軍旗は奉還された。
翌18年9月再び動員下令となり、この度は南方に出動した。
この時は捜索第4連隊となり連隊長は、やはり今村安大佐であった。
昭和20年2月タイ国に進駐、同4月タイ国の師団主力の位置に復し、同地に於て終戦となった。
茲に於て我が誇りとした騎兵第4連隊は光輝ある大日本帝国、陸、海軍と共に惜しくも永遠にその歴史の幕を閉じた。
作戦の建制上堺留守隊に於て編成出征した各部隊及其の長は次のようである。
捜索第34連隊(森岡正中佐・田川泉中佐)、騎兵第75連隊(吉沢末俊中佐)、騎兵第104大隊(高橋保和中佐)、堺金岡留守部隊(森岡正中佐)、独立輜重兵第54大隊(内木彦一少佐)、独立輜重兵第55大隊(浅利正基少佐)、同第75大隊(藤原長治少佐)である。
尚全戦線に亘り、軍直轄部隊として、自動車廠、碇泊場司令部に多数の騎兵第4連隊出身者がその要職につかれた。
以上は騎兵第4連隊創設以来の概要であるが、此の忠魂碑は昭和7年連隊が堺へ移転の翌8年11月建立された。
顧りみれば戦争終結以来星流れ時移りて40年、我々は言語に絶する猛訓練に堪え、更に命運を決する数多くの戦闘に参加、遺憾なく果敢な騎兵精神を発揮した。
この記録は不滅のものであり、永く日本の戦史を飾るものと思う。
我々日本の国民は、一時は信ぜざる事態に直面し呆然としたが、戦争に従軍した我々軍人は死力を尽して戦った。
勝敗の如何に拘らず、死線を超え不思議に生還した我々に今は何の悔いもない。
しかしながら不運にして戦病死された勇士、亦帰還後亡くなられた方々のお心を察するとき、我々は国民各位と共に深く犠牲者に感謝し、その名誉を称え、み霊に対し奉り、とわの安らかなる眠りにつかれんことを心から祈念するものである。

騎兵第4聯隊並関連諸部隊有志

日本暦2645年  西暦1985年 昭和60年11月3日
忠魂碑維持 大阪騎兵会
永代供養 三光神社

(碑文より)

忠魂碑



忠魂碑






(平成20年6月16日)

レリーフ レリーフ

 『騎兵営址』の銘板(陸軍大将鈴木荘六書)

騎兵第4連隊跡地(真田山公園)



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