戦車撃滅隊の戦跡と兵站病院跡

(サンタフェ~ボネ)


平成17年(2005年)5月3日

サンタフェで我々を待っていてくれたのはオマリオさんの息子のジェイソン君だった。
おお!久し振り~2年ぶりだねぇ~
彼はちょっと照れくさそうにチラリと笑っただけだった。
(もしかして、待ちくたびれて呆れてたのか?)
いやぁ~悪い、悪い、遅れちゃって~
さて、ジプニーに乗って今から北上!
ボネ(南ボネ)の第14方面軍戦車撃滅隊の慰霊碑とアリタオの野戦病院跡に行くのである。

さぁ~私はジプニーの助手席へ・・・
と・・・運転手は・・・バディ君じゃないか!
いやぁ~久し振り!2年ぶりだねぇ~

しかし・・・後ろの席にはゾロゾロと見知らぬ人間が乗っている。
この人達・・・・誰?
あれ?貸切じゃないのか?
なんだかわからないけど、とにかく北に向かって車は走る。

慰霊碑のある場所 慰霊碑のある場所

戦車撃滅隊慰霊碑 第14方面軍教育隊
威第17669部隊

戦車撃滅隊英霊追悼碑(後の白色の碑)

明野飛行第200戦隊
歩兵臨時第25部隊

榊原大隊戦死者碑(手前左端の黒色の碑)

第14方面軍戦車撃滅隊(手前真ん中の黒色の碑)

明野飛行第200戦隊 榊原大隊
故 仲野好裕墓(手前右端の黒色の碑)
第14方面軍教育隊 威第17669部隊
戦車撃滅隊英霊追悼碑
昭和63年2月吉日 生還者有志
昭和20年5月下旬~6月初旬バレテ峠北方ヤンギラン、ボネ陣地において玉砕。

寄進者
海上挺進第7戦隊 大谷久夫
垣歩兵第33連隊 小園 保
歩兵第9連隊 小野 航
垣歩兵第33連隊 小谷勝弥
マニラ航空廠 佐藤悌二
第148飛行場大隊 佐藤七郎
戦車第10連隊 高城 茂(旧姓 上登能)
駿独立歩兵第176大隊 馬場鐵郎
抜独立歩兵第171大隊 古川義信

弔 明野飛行第200戦隊 歩兵臨時第25部隊
榊原大隊戦死者碑
1995、5、1日 仲野建

弔 第14方面軍戦車撃滅隊
昭和20年5月28日~6月4日戦没
吹きわたる野辺の風よ、心あらばヤンギラン、ボネに眠る戦友とものみたまを、はらからいます祖國へ運べよかし。

昭和58年2月
元隊員、遺族有志

明野飛行第200戦隊 榊原大隊
故 仲野好裕墓
昭和20年6月7日
ボネ陣地にて戦死

静岡県藤枝市 仲野英夫 ■久夫
1995、5、1建

※ ■はパソコン上で表示不可能な文字です。(七が三つ)

私がこのボネの慰霊碑を訪問するのは2回目です。
初めて訪れたのは平成11年(1999年)3月でした。
あれから6年。私の記憶とはかなり雰囲気が違っていたのに驚きました。
あれぇ~こんな場所だったかな?
慰霊碑の隣りの家の人がご夫妻で出てきました。(以前は住人はいませんでした)
慰霊碑を見に来たことを告げ、了解を得る。

「戦車撃滅隊」というのは、第14方面軍直轄部隊で、幹部候補生(大学や高専出身)で編成された山下大将取って置きの臨時編成の精鋭部隊です。
隊長は方面軍通信班の清水清二大佐。
第1中隊(鳥居中隊)・第2中隊(竹井中隊)・第3中隊(白田中隊)・第4中隊(林中隊)の4個中隊が本道上に重畳配備されていました。(約500名)
ボネは「戦車撃滅隊」が昭和20年5月末、サンタフェを突破して北上する米軍を食い止めるため、肉薄攻撃をした場所。
フトン爆弾(座布団のような形をした爆弾)などを抱えて米軍の戦車に飛び込んで攻撃をしました。
更に本道両側の山には榊原弘光少佐率いる榊原大隊(臨時歩兵第25大隊=飛行場大隊・飛行戦隊の人員で編成)が布陣していました。

慰霊碑前の道路 この道路の両側にタコツボを掘って隠れ、戦車が来たら爆弾を抱えて飛び出して攻撃をし、戦車を3台ほど擱座させたといいます。

写真は北のアリタオ方向を見たところです。
この道路の左側の手前に林中隊、奥に鳥居中隊が、道路の右側の手前に竹井中隊、奥に白田中隊が配置されていました。
今ではその道路の両側には家が建ち並んでいます。

部隊は鳥居・竹井・白田各中隊長以下ほとんどがここで戦死しました。

さて、少しこの周辺を見て歩こうかなどと思ったのですが・・・・
問題はジプニーに乗っている見知らぬ人達。
退屈そうにこちらを見ています。
落ちつかねぇなぁ~
ドミンからは「もういいでしょ?」と急かされるし・・・
仕方がない、移動するか。

続いて更に北上してアリタオに向かいます。
アリタオはバギオ・サラクサク戦当時の日本陸軍の重要拠点。
ここからバレテ峠やサラクサク峠で戦っている部隊に補給を行なっていた場所でもあり、また、前線で負傷した兵士が後送されここの第138兵站病院に収容された場所でもあります。

アリタオの山下道 アリタオは「山下道」の東の起点に当たります。
この道が当時の「山下道」です。
写っているジプニーは私が乗ってきたジプニーです。

椰子の木が立っているところに小川が流れており橋がかかっています。
ということは・・・この周辺が病院跡だと思うのですが、慰霊碑等それを示すものは何もありません。
兵站病院跡 山下道
この道をずっと辿るとバギオまで行けるとのことです。

この左側が第128兵站病院があった場所だと思いますが、今は道の両側に比較的新しい家が建っていました。

「このあたりが病院跡だよ」とドミン。
「どのあたり?」
「このあたりぜ~んぶ!」
近くに小さな川が流れています。
病院を開設するなら川の近くに作るかも・・・・そうだとすれば・・・このあたりか。
そのうち、近くの民家から住人が出てきました。
そりゃそうだろ。自分の家の前に突然日本人がやってきてウロウロ歩き回っているんだから・・・
相変らず退屈そうに同乗者達がこちらを見ています。
仕方がない。もう帰るか。
そろそろお昼になるし・・・
ここからサンタフェにまた戻ることにしました。

サンタフェの中華レストランで昼食。
確か「ゴールデン・ローズ」という名前のホテルだったと思います。
サンタフェで泊まれるところはここ1箇所だけ。
ここは1階が中華レストランで、2階に客室があります。
4年前の平成13年にここに泊まったことがありますが、その時は簡易ベッドが一つと裸電球1個という部屋。
シャワーはなく、バケツに水を汲んで行水でした。
ホテルというよりただ寝るだけの「宿泊所」という感じでしたが・・・多分、変わってないでしょうね~
お店の人は、4年前に私が来たことを覚えていてくれました。
あの時は、ちょうどゲリラが暴れた直後に来たので、非常に緊張してロクに寝られませんでした。
(なにせ、ホテルの目の前の警察署が襲われて警官が殺された直後でしたから・・・)

お昼ごはん 中華のお昼

野菜炒め・焼きそば・酢豚・スープ
全部で510ペソ(1020円)

ちょっと豪華な昼食になってしまいました。

お昼は私とドミンとジェイソンの3人で食べるつもりで3人前頼んだのですが、なんと、ジェイソンが他の人と別の場所で食べてしまい、2人では食べきれず余ってしまいました。

食後、ドミンがオマリオさんへお土産としてお買い物に・・・・
私は一人レストランでコーラを飲んで休憩。
さて、ドミンが何を買ったのかは知りません。

買い物も終えて、一路山道をオマリオさんの家へ
結局この時にわかったのですが、ジプニーに同乗していた人たちもオマリオさんの家に行く予定だったようで、それで私のジプニーにずっと乗っていたようです。

今回はオマリオさんの家に2泊の予定。
オマリオさんの家に到着した時にはオマリオ夫妻は外出中。娘さんの出迎えを受ける。
既に私の部屋も用意されていました。ありがたい!


地図


     


 トップページに戻る   旅日記に戻る