5.34年ぶりのクアラルンプール

(クアラルンプール日本人墓地・王宮・国家記念碑・ツインタワー)


平成26年(2014年)6月9日・第3日目

午後1時、クアラルンプールの町に入る・・・・

第一印象は・・・・
あれ?・・・である。(大汗)
ここクアラルンプールも34年ぶりの訪問なのだが・・・
え?・・・・こんなにビルが建っていましたっけ?(汗)
当時の景色を思い出せないのだから、実際は比較のしようがないのではあるが・・・・
う~ん・・・・こんな感じの町だった?

レストラン 昼食

午後1時半、市内のレストランでマレー料理の昼食をとる。

このあと向かったのは、「日本人墓地」・・・・

 クアラルンプール日本人墓地・旧門

旧門の左の門柱には『明治三十二年三月吉日建設』と書かれている。

 旧門の向かって右側の門柱

向かって右側の門柱は白ペンキで塗りつぶされていたが、その下に『大日本帝國臣民之墓地』と書かれてあった。

新しい門(正門?) 慰霊堂(本堂?)

新しい門(正門?)のほうから敷地内に入る。
入ると直ぐに「慰霊堂」があるので、先ずそこをお参りする。
内部には“ご本尊”と位牌が並んでいた。

ここで、ふと気になったので参加者の人数を勝手に確認してみた。
ここから少し離れたところでバスを降りて徒歩でここまで来たので、まさかとは思うが、途中で迷子になった人はいるまいな?・・・・と思ったのである。
と・・・どう数えても一人足りない!!(大汗)
私は参加者全員の顔と名前を覚えているわけではない。
一言も会話を交わしたことがない人が何人もいる。
私が気を配るのは・・・“高齢者”(大笑)
迷子になったり、忘れ物をしたり、勝手にどこかにフラフラと行ってしまったり・・・(苦笑)
そういうわけで、“要注意人物”として、数人の高齢者には目を配ることにしている。
しかし、“行方不明者”は、これら“高齢者”の方々ではない。
添乗員に一人足りないようだと報せたところ、添乗員も焦ったようだ・・・・
「あれ?・・・いない!・・・○○さんがいない!」(大汗)
どこかで逸れたのかなぁ~と騒いでいたら、参加者の中から「そういえば、以前来たことがあるから俺は行かないと言っていましたよ」という声が上った。
「じゃぁ、バスに残っているんですかね?」と添乗員さん・・・・
「たぶんそうじゃないんですか?行かないって言っていたんだから・・・」との声・・・・
あのねぇ~・・・・なんという勝手な奴だ!(怒)
“団塊の世代”の参加者である!
バスに残って参加しないというなら、そういうことは添乗員さんに直接伝えるべきであろう?
近くに座っている人に独り言のように言っても意味ないでしょ?
どうして、そういう常識がないのかねぇ~・・・・団塊の世代は!(怒)
みなさんに迷惑をかけないようにするという気遣いができないのかねぇ~
どういうわけか、毎回、ツアーにはこういう人が少なくとも一人はいるのである。(唖然)
今回も一人いたか・・・・(涙)

墓石を見てみると、女性の名前の古い墓石が多い。
どうやら“からゆきさん”のお墓らしい。
戦前のお墓は300ほどあるらしいが、そのうちの7割が“からゆきさん”だという話である。
どういう思いでマレーシアまでやって来て・・・・どういう思いでこの地で息を引き取ったのだろう・・・
こうして墓石に名前が刻まれている人は幸せなほうかも知れないなぁ~
墓石すらないまま、眠っている人もいるんだろうなぁ~
独身で子孫がいない私は「無縁仏予備軍」もしくは「無縁仏予定者」ですから・・・(笑)
う~ん・・・・私も人知れず、名も残せず・・・・どこかで眠ることになるんだろうなぁ~
彼女達の墓石や、朽ち果てている墓石・墓標を見ていると、他人事ではないような気がしてきた。(涙)

慰霊塔

昭和53年9月建之
歩兵第11連隊有志

敷地の一番奥に歩兵第11連隊の有志が建立した『慰霊塔』があった。
ここに日章旗、旭日旗を飾り、お線香をあげて、全員で「海ゆかば」を斉唱して慰霊を行なう。

われわれは太平洋戦争の戦火に倒
れたわが仲間および各国軍人と住民
の霊を弔うとともにマレーシア連邦
国民の平和と繁栄とを祈る

(~以下、英文は略~)

(碑文銘板より)

碑文は日本語と英語の併記である。

JA8051号機遭難者
慰霊碑

この慰霊塔のすぐ隣りに『JA8051号機遭難者 慰霊碑』というのがあった。

このJA8051号機というのは、日本航空(JAL)の機体番号である。
昭和52年(1977年)9月27日、日本航空の715便(機体番号:JA8051)というダグラス社のDC-8旅客機が、クアラルンプール空港に着陸進入中、悪天候のため着陸に失敗しゴム園に墜落した。
37年ほど前のことである・・・・
この旅客機には乗員10名と乗客69名の計79名が搭乗していたが、この事故で乗員8名、乗客26名の計34名が死亡した。
その方々の慰霊碑である。
が・・・・碑文はない・・・・なんでだろう?
誰が建立したのかもわからない・・・・
墜落現場ではなく、日本人墓地に建立というのも珍しいと思うが、碑文がないのでは、何の慰霊碑なのかわからないだろう。
事故のこととか、いつ事故があったのかとか、亡くなった方々のお名前を記するとか・・・何か“説明”しないと“慰霊”にならないのではなかろうか?
思ったとおり、わが参加者たちは「何これ?」と言っただけでサッサと立ち去ってしまった・・・・(汗)

皆さんが、サッサと墓地を立ち去ってしまったので、一人ポツンと取り残された!(大汗)
墓石や慰霊碑などを見るというのは、結構勉強になるんだけどなぁ~
皆さんがトイレに行っている間、まだ少し時間に余裕があるので、もう少し欲張って墓地内を駈足で見て歩く!(汗)

殉難碑

陸軍中将 沼田多稼蔵 書

昭和21年2月12日建之

『殉難碑』というのを見つけた!!
『陸軍中将 沼田多稼蔵 書』と刻まれている。
軍関係で『殉難』という言葉を使う場合、法務死・・・・特に戦後建立された場合は戦犯で処刑された方々に対して使うことが多い。
ということは・・・・戦犯として処刑された方々の「慰霊碑」だろうか?
残念ながら建立した日付のみで碑文は刻まれていない。(涙)
建立されたのは、昭和21年2月12日である。
ところが、この日付だと、ちょっと疑問が残る・・・・(汗)
クアラルンプールの戦犯法廷は英国が裁判国として日本軍を裁いたのだが・・・・
裁判は昭和21年1月29日から始まり昭和23年1月11日に終了している。
被告は77名、裁判の結果は死刑24名、有期刑37名、無罪14名、その他2名である。
建立した日付から見ると、裁判が始まって1ヵ月弱で「殉難碑」が建立されたことになる。
法廷は2年間も裁判を続けていたのに???
裁判が始まって直ぐに死刑判決が出て即刻処刑したのか???
おかしい・・・
こうなると、この「殉難碑」は戦犯で処刑された方のための碑なのかどうか怪しくなってしまう。
碑文がないからなぁ~・・・・・
何か碑文が書いてあればわかるのに・・・・
だから碑文は大事なのである。
建立した人はわかっていても、後世の我々には「殉難」が何のことやら、誰を指すのかわからない・・・
これでは、もったいないことに、碑を建てた意味が無くなってしまうのではなかろうか?

沼田多稼蔵中将は、南方軍総参謀長として終戦を迎えた人である。
南方軍は東南アジア方面の全陸軍部隊を統括している。
フィリピンもマレーシアもシンガポールもインドネシアも、全てこの南方軍の傘下に入る。
司令部は仏印(現:ベトナム)のサイゴンにあった。
ちなみに総司令官は寺内寿一元帥である。
沼田中将は昭和22年、戦犯容疑で「巣鴨プリズン」に収監されている。
現在、「池袋サンシャイン」がある場所である。
で・・・翌昭和23年に「橘丸事件」で重労働7年の判決を受けたが、昭和25年に仮釈放となり、それから11年後の昭和36年(私が生まれた翌年)に69歳で他界された。
ということは・・・昭和22年以降は「殉難碑」に書を提供する余裕はなかったはずである。
自分が戦犯容疑で引っ張られる前でなければできないだろうから、昭和21年の建立は間違いないだろう。
となると・・・わからん・・・・終戦後半年以内に「殉難」と言われるようなことが何かあったのだろうか?
こういうのは、もっと史料を探してみないとわからないが・・・・
なんともわからん「殉難碑」である。

時刻は午後3時を過ぎた。
バスに乗り込み、次に向う・・・・

このクアラルンプールは34年ぶりの訪問であるが、どこに行ったのか全くと言っていいほど記憶にない。(大汗)
唯一、『バトゥー(またはバツー)洞窟』という観光名所に行ったことだけは覚えている。
その時に、この洞窟に至る急角度の階段を一気に駆け上がった・・・・
当時、私はアメフトの選手・・・・
一気に駆け上ってみるか!・・・と270段ぐらいある急角度の階段を駆け上ったのである。(笑)
そのとき、周囲の外国人観光客から驚きの目と笑いをもらったが・・・(恥)
あのころは若かったなぁ~
友人たちは途中で駆け上がるのを断念したが、私は最後まで一気に駆け上がった。
が・・・・その後がひどかった・・・・
心臓はバクバク・・・呼吸困難と貧血による目眩で、死にそうな目に遭ったのだ・・・(苦笑)
というわけで・・・足腰立たず、へたばってしまい・・・・
さて、洞窟の内部がどうなっていたのか、内部を見たのか見なかったのかすら記憶がない。(大笑)
洞窟の入口付近の石の上に座り込んだまま動けなくなっていたのである。(大汗)

さすがに、死ぬんじゃあるまいかと思った、この時のことだけは昨日の事のように鮮明に覚えている。
やっぱり、記憶というのは、このくらいの苦しい思いをしないと残らないんだろうなぁ~(苦笑)

今回のツアーでは、この観光名所は残念ながら含まれていない。
う~ん・・・・懐かしいあの階段をもう一度見て見たいものだが・・・・
この歳では、多分、上までは登れないだろうなぁ~(大汗)
今では歩道橋を上っただけで息切れがするんだから・・・・(苦笑)
あのころは若かったなぁ~

『日本人墓地』の次に向かったのは『王宮』である。
しかし、まったく記憶がない・・・(大汗)
ここに来ないということは考えられないという気がしないでもないが・・・記憶にない!(苦笑)

王宮

『王宮』の見学は、柵越しに外から見るだけ・・・
わずか10分弱の見学であった。(汗)

次に向かったのは・・・・『国家記念碑』
時刻は午後3時半・・・暑い・・・・とにかく、暑い・・・

モニュメント

 マレーシアの国家紋章

 国家記念碑


国家記念碑
国家記念碑建設の構想は1963年、マレーシア前首相YTMトウアンク・アブドル・ラーマン・プト
ラ・アルハジによって、国家独立のために戦って死んだ兵士を悼む碑として提案された。

レイクガーデンに面した4,8562スクエアメーター土地がこの記念碑の建設に割り当てられ、国家記念
碑のまわりには噴水、パビリオン、戦争記念碑を配し、公園がこれら施設を取り囲んでいる。

記念碑は7人のブロンズ像から成り、敵軍と戦う民主軍の勝利を表現するもので、1966年、アメ
リカ人彫刻家フェリックス・ド・エルドンによって制作された。同年2月8日に除幕式が行なわれ、
それ以来毎年ここで、兵士を偲ぶ式典が催されている。

この記念碑ができる以前にも、第1次世界大戦後、戦争で死んだ兵士を祀る別の記念碑が鉄道駅の近
くに建設された。毎年11月11日にここで兵士の死と献身に敬意を表するため、簡単な式典がとり
行なわれている。現在の国家記念碑ができる前は、第2次世界大戦で死んだ兵士たちの名前がこの記
念碑に刻まれていた。

(銘板の日本語碑文より)

この記念碑は、第一次大戦、第二次大戦のほか、イギリスからの独立戦争での戦死者や、マラヤ共産党との戦闘で戦死した兵士などを追悼しているらしい。

悲しいことに・・・・ここも記憶がない・・・・(大汗)
ここにも来た事がなかったのかも・・・・
ということは、私はクアラルンプールではどこに行ったのだろう???(大汗)

青年海外協力隊のクアラルンプールの本部で隊員の皆さんと会合を持ったことは覚えている・・・・
クアラルンプールから200kmほど離れた派遣地から、ホンダのスーパーカブというバイクで何時間もかけてやって来てくれた隊員がいたのをよく覚えている。
スーパーカブは、あの新聞配達の人が使っているバイクである。(大笑)
あれで200kmもの距離を走ってきたのか!(驚)
ガソリン満タンで100kmは走るので、途中で1回給油すればいいだけだと話してくれたのを覚えている。(笑)

奥地の辺鄙な村に裁縫の指導で派遣されている女性隊員に会いに行ったことも覚えている。
こんな辺鄙な村にたった一人、日本人の女性が派遣されているのには驚いた。
いやはや女性は強いもんだと思ったものである。
(それを見てから女性は強くて怖いと思うようになったのかも・・・)(大笑)
昼間はいいが、夜になったら、周囲は真っ暗闇でさぞかし怖いだろうなぁ~と思った・・・・

そういうことは、鮮明に覚えているのだが・・・
う~ん・・・名所や観光地などは、全然記憶にない・・・(苦笑)

「国家記念碑」を見て、今日の“観光”は終りとのこと。
今晩宿泊するホテルに向う途中、「ツインタワーを見たい」という意見が参加者の中から上がった。
とりあえず、外から写真だけを撮るだけでいいからということで向かうこととなる。

 通称:ツインタワー

この「ツインタワー」は、正式には「ペトロナスツインタワー」というらしい。
マレーシアの国営石油会社のペトロナスが建てたタワーで88階建て、高さは452mだという。
建設された時には世界一の高さだったそうだが、その後、台湾の「台北101」という高層ビルに追い抜かれたそうだが、ツインタワーとしてはいまだに世界一の高さだとか・・・
で・・・・何で皆さんがこのビルを見たがったのかというと・・・・(笑)
写真の左のビルが日本のハザマ(間組)が建設して、右のビルが韓国のサムソンが建設したらしいのだが・・・・
サムソンが建てた方のビルが傾き始めているというのだ。(大笑)
で・・・それを確認したいということだそうだ・・・・(唖然)
皆さんは、ツインタワーを見上げて・・・「おお!確かに傾いている!」と大騒ぎ・・・・
私にはさっぱりわかりませぬが・・・・(汗)
高層ビルの傾きなんて、目で見てわかるようなものだろうか?
ツアーの中で建設業界の方がおられ(日本人墓地で自分勝手な行動をした人ですが・・・汗)、この方が「確かに傾いてますね」と言ったものだから、「ほら、専門家が言うんだから間違いない」と大喜び・・・・
それでも、私にはよくわからない・・・・目の錯覚じゃないの?(苦笑)
私が間違いなくこれは傾いているな・・・とわかったのはイタリアの「ピサの斜塔」を実際にこの目で見たときだけである。(大笑)
あれは、確かに傾いている!!(大笑)
「サムソンが造ったビルなんか、倒壊するのは時間の問題だな!」と皆さんが喜ぶ姿は無邪気である。(唖然)

時刻は午後5時。
ホテルにチェックインする。

 ホテルのロビー

このホテル・・・・
ロビーも重厚で豪華だったが、驚いたのは、私の部屋である!

この広さは何だ!(驚)
ここは大統領執務室か?(大笑)
う~ん・・・・今晩一晩しか泊まらないんですけど・・・
この部屋なら、2~3日滞在したい気分である。

 部屋から見た景色

午後6時半・・・・
市内の中華レストランへ行き、海鮮中華の夕食をとる。

 中華レストラン


   


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