4.戦跡巡り

(カンパル・スンカイ橋・英軍抵抗陣地跡・トロラクの「1939の橋」・スリムリバー・スリム~クアラルンプール)


平成26年(2014年)6月9日・第3日目

我々が宿泊したホテル。
「Impiana Casuarina Ipoh」という名なのだが、どう読めばいいのか・・・(大汗)
「インピアナ・カジュアリナ・イポー」でいいのかな?
結構、立派なホテルだった。

ホテルの前の道路・・・

ホテルの前の様子・・・・
何もない・・・(汗)

近衛師団は、隷下の近衛歩兵第4連隊を先発隊としてペラク川を渡河させ、イポーに進出させた。
昭和16年12月29日午前3時、近衛歩兵第4連隊は、ここイポーの町を占領。
昭和17年1月2日、続いて師団司令部と第25軍司令部がイポーに進出した。
ということは・・・・この町は結構大きな町だと思うのだが・・・
ホテルは町の中心街から外れていたのだろうか・・・どうも大きな町という雰囲気が無い。(苦笑)
まぁ、70年も前のことだから、どこに駐屯したとかという“戦跡”は残ってはいないだろう。

午前8時にホテルをチェックアウトして、クアラルンプールに向けて南下する。

 移動中の景色

午前8時40分ごろ、「カンパル」という場所に到着する。
ここは日本軍が初めて苦戦した激戦地といわれている。
日本の戦史では「カンパル」と呼んでいるが、アルファベットで書くと「Kampar」である。

カンパルの英軍陣地跡周辺

このあたりが、英軍の陣地があったと思われる場所であるが、現在は、住宅街になっていた。
英軍は、この手前の「ゴペン」「デイパン」に抵抗線を設け、日本軍の進撃を遅滞させる作戦を採った。
対する日本軍は第5師団の“河村部隊”・・・・
この部隊は第5師団・歩兵第9旅団の河村少将が指揮する部隊で、歩兵第11連隊の主力、歩兵第41連隊の主力、戦車第1連隊の戦車1個中隊、野砲兵第5連隊の主力などで編成された部隊である。
英軍は抵抗線から下がり、ここ「カンパル」に陣を敷いて最後の抵抗を図る。
その兵力は3個旅団・・・・
しかし、第5師団の松井師団長は、敵は1個旅団で、しかも緒戦の戦闘でかなり弱っていると判断していた。
これが日本軍が苦戦に陥った原因の一つでもある。
相手を甘く見たため、連日の戦闘で疲労困憊の河村部隊を当ててしまったようである。
カンパルでの戦闘は昭和16年12月28日から始まる。
日本軍はどうしてもこの抵抗線を突破できず、数日にわたり足止めを食ってしまう。
イポーを占領後、同地の警備に当っていた近衛師団が協力を申し出てくるほど、第5師団は苦戦していた。

正面からの攻撃のほか、渡辺支隊(歩兵第11連隊長・渡辺大佐指揮の歩兵1個大隊と砲兵1個中隊基幹)を敵の退路を遮断する目的で海上機動で迂回させ、吉田支隊(近衛歩兵第4連隊第3大隊)はイポーを出発し、川を下り、迂回して攻撃に参加。
歩兵第41連隊の1個大隊はメラカ山の山中を突破し、歩兵第42連隊もジャングル内を突破して迂回・・・
これら、側背に迂回した部隊のおかげもあって、退路を遮断されることを恐れたのだろう、昭和17年1月2日の夜、英軍はついにカンパルの陣地を放棄して後退したのである。

英軍の陣地跡から南に下ったところで撮影・・・
写真の向うからこっちに向って日本軍が進撃した。
右奥の山が「メラカ山」の稜線だと思う。

カンパル?

ここはカンパルの町の一部だと思うが・・・・
自分で写真を撮っておきながら自信がない。(苦笑)

一つの町を抜けて、次の町に向う間の景色というのは、どこも同じような景色でして・・・・(笑)
真直ぐ伸びる道路の両側は緑・・・・
当時の道幅はこれほど広くはなかっただろうし、道の両側も、油椰子のプランテーションというわけではなかっただろう。
もっと道は狭く、周囲は深いジャングルだったと思う。
単調な景色を見ながら、当時の景色を想像して楽しむ。(笑)

こういう小さな川が多い・・・・
英軍は撤退しながら、これらの川に架かっていた橋を破壊していく・・・
そうはさせまいと、日本軍は必死に追撃をする。

カンパルの戦闘後、疲弊した河村支隊を追い抜いて、代わりに先頭に立って追撃に移ったのは、歩兵第42連隊の「安藤支隊」だった。
「安藤支隊」とは、歩兵第42連隊に、速射砲(対戦車砲)1個中隊、野砲1個大隊、重砲1個中隊、工兵1個小隊、中戦車1個中隊と軽戦車1個中隊を配属して編成されたものである。
ここに配属となった戦車隊は、我が戦車第6連隊の1中隊と4中隊・・・・いわゆる「島田戦車隊」である。

タパー

カンパルを出発して約30分後・・・・午前9時20分ごろ「Tapah」(タパー)という町に入る。
どの町も華僑が多いのか、漢字が目立つ・・・・

さらに南下して「Sungkai」(スンカイ)に向う。

 油椰子のプランテーション

スンカイに向う道路沿いには、油椰子のプランテーションが・・・・
このあたりは当時は密林だった。

油椰子のプランテーションで思い出すのは、34年前にマレーシアに来た時のこと・・・
道路の両側に廃棄された大量の油椰子が山を成してが延々と続いていた。
当時、ソ連のアフガニスタン侵攻に対して米国はソ連に経済制裁を加えたのだが、その影響でマレーシアのヤシ油の価格が大暴落したのだという。
港まで油椰子を運ぶと、その運賃で赤字になるから、廃棄しているというのである。(唖然)
道路の両側に積まれた、あの油椰子の山は今でも鮮明に記憶に残っている。
ソ連と米国の問題がマレーシアの経済に大きな影響を与えるとは不思議だったが、その理由を知って驚いた。
私が“国際関係”に興味を持ったきっかけは、この油椰子の一件なのである。
当時、私は大学1年生・・・経営学部じゃなくて国際関係学科に行けばよかった・・・失敗したぁ~と後悔したのである。(苦笑)
その油椰子のプランテーションを34年ぶりに見る・・・(大喜)
が・・・こんなに背が高かったっけ?・・・である。
当時見た油椰子は、かなり背が低かったような記憶なのだが・・・(汗)
成長したということか?(苦笑)

 スンカイ橋(推定)

スンカイの町を抜け・・・・「スンカイ橋」を渡る。
多分、この橋が「スンカイ橋」だと思うが・・・・(これまた自信がない・・・)(涙)

英軍はカンパルの陣地から橋や道路を破壊しながら撤退した。
この修理に当たったのが工兵第5連隊・・・・
しかし、英軍の破壊工作のほうが早く、修理が間に合わない・・・・
第一線の追撃部隊と、その後方から駆けつける師団主力の間に2日間行程もの開きが出来てしまった。
道路や橋の修理が間に合わず、師団主力が第一線部隊に追いつかないのである。
追いつくまでに2日間もの開きがあるというのは、なかなか厳しい状況である。
そこに追及してきたのが独立工兵第15連隊・・・・
こうなると、工兵第5連隊としては格好がつかないか?(汗)
ついに、2つの工兵連隊が競争しながら道路や橋の修理にあたることになる。
おかげで猛スピードの橋梁修理となり・・・・
昭和17年1月6日、この「スンカイ橋梁」の修理を最後に全ての橋の修理を完了したという。

スンカイの橋を渡り、さらに南下する。
我々が走る国道1号線は、当時の幹線道路で、当然、道幅は広くなっている。
今では、この国道1号線に並行して高速道路が走っている。
橋を渡ってから10分弱程度走った場所で停止、バスを降りる。

ちょうど標識のある場所なのだが・・・
「FELDAJAYAUTARA TROLAK」の意味が分からない・・・(汗)
「TROLAK(トロラク)」が地名なのは知っていたので、たぶん、これは固有名詞かな?
二行目の「PEJABATWILAYAH」は訳してみたら「地域事務所」という意味らしい。
ということは・・・ここは「トロラク地域事務所まで250M地点」ということらしい。

英軍抵抗陣地跡

この道路(国道1号線)沿いの、このあたりに当時、英軍の警戒陣地があったらしい。
写真の向うが北なので、日本軍は向うからこちらに向って進撃してきた。
この先、南下すると、「トロラク」という場所に辿り着く。
このあたりから、トロラクまでの道路の両側は、ゴム林と湿地帯の草原、その奥に深いジャングルがあったようである。

カンパル(もしくはカンパー)から後退した英軍は、このあたりから道路の両側に陣地を構築した。
昭和17年1月5日、カンパルから追撃してきた安藤支隊(歩兵第41連隊基幹)が英軍の抵抗を受けたのは、このあたりか?
安藤支隊は、歩兵第41連隊第2大隊(花輪大隊)を道路の右側、第3大隊(丸谷大隊)を道路の左側のジャングル内を切り開きながら迂回させて、敵陣地の背後に進出する作戦に出て・・・
連隊主力は本道上を進み正面から攻撃することとした。
当時、このあたりには3個大隊の英軍が幾重にも抵抗線を設けていたようである。
1月6日夕刻、追撃に移ろうとした時、英軍の熾烈な砲火を浴び、本道の前進が阻まれた。
そこで、1月7日の明け方(もしくは真夜中?)、島田戦車隊(戦車第6連隊の2個中隊)に歩兵と工兵を伴わせ、一気に英軍陣地の突破を図ることとなった。

歩兵と工兵の一部が戦車に先行して、敵の対戦車障害物(コンクリート柱)や鉄条網を破壊する。
島田戦車隊の中戦車中隊(九七式中戦車14輌)が敵の砲火の中を前進・・・・
約6キロにわたって七重に設けられた敵の陣地を、わずか3時間で突破し、トロラクに進出した。

英軍の警戒陣地跡からさらに南下・・・・
途中から旧道に入り、通称『1939の橋』に向う。
出発してから約15分後、現地に到着。

通称『1939の橋』

我々が呼ぶ『1939の橋』の正式名は知らない。
橋はコンクリート製で、そこに「1939」と刻まれているので、そう呼んでいるのである。
「1939」は、普通に考えれば「1939年製」ということだろう。
ちなみに、1939年は日本では昭和14年であるから、当時からあった橋と考えてよかろう。
となれば・・・・橋の幅は当時と同じだから、道幅も当時と同じということになる。
ここを島田戦車隊は走り抜けたのである!(大喜)
当時の写真は残っていないものかねぇ~

ここをねぇ~我が戦車が走り抜けたのかぁ~・・・・・感無量である!!
当時に思いを馳せる・・・・(苦笑)

我が戦友会の会員、“戦友”の宮澤さんは、戦車第6連隊の一員として、このマレー進攻作戦に参加されていた。
もともとは近衛歩兵として軍隊に入ったのであるが、初年兵(入隊1年目)の時に2・26事件に関わってしまった。
上官の命令に従い、何がなんだかわからないまま、中隊は高橋是清邸を襲撃した。
事件後、指揮官である将校は処罰を受けたが、兵達は何も知らず参加させられたということで無罪となった。
が・・・それでもこの事件は何かしらの影響はあったのではないかと私は思うのである。
軍備の近代化により、航空機と戦車が増え、人員が不足したため、上からの命令で、飛行機か戦車か、どちらかを選べと言われたそうである。
近衛兵といえば、容姿端麗、頭脳明晰、家柄もよく、間違っても家族親戚の中に共産党員などがいたら絶対に選ばれない。(憲兵が身辺調査をしたのである)
そういう特に優秀な人が選抜されて近衛兵となるのである。
なにせ、天皇陛下のお膝元で陛下をお守りするのが本来の使命である。
それが、転属をさせられるんだから、そこに2・26事件の影響がなかったとは言えないのではなかろうか?
宮澤さんは、飛行機は墜落すると100%死ぬが、戦車なら生き残れる確率が高いだろうと思って戦車を選んだのだと笑っておられた。
で・・・戦車第6連隊に配属されて、その後、ずっとこの部隊で戦い、終戦時はフィリピンで「指揮班長」として活躍し生還された。
当初は戦車に乗っていたが、その後、乗用車で走り回って指揮をとるようにとのことで、戦車から降ろされた・・・・
その乗用車も他の部隊に差し出せといわれて取上げられ、仕方がないので、徒歩で戦車を追いかけながら指揮をとったという。
このことが結果的には幸いし、戦車はことごとく敵の砲撃で爆発炎上・・・・戦車は全滅・・・・
宮澤さんは徒歩で走り回っていたので一命を取り留めた・・・
「あの時、戦車に乗って指揮を取っていたら、戦死していたよ」と、松本市のご自宅を訪ねた時におっしゃっていた。
で・・・・マレー進攻作戦の話は、次回に・・・・ということになったのだが・・・・
その“次回”は来なかった・・・・
まもなくお亡くなりになってしまったのである。(大悲)
すぐに再訪問すればよかったのだが・・・・モタモタしているうちに、永遠に会えなくなってしまった・・・・
いつも、このパターンである。
私はどうして、こんなに、のろまなのだろう・・・・(泣)
享年96歳だった・・・・90歳を超しているんだから、いつどうなってもおかしくなかったのに・・・・
大後悔である・・・・

宮澤さんが当時、どの中隊に所属していたか、残念ながら私は知らない・・・・
が・・・もし、島田戦車隊の一員だとしたら、この橋を渡り、この道を走ったことだろう。
宮澤さんは、この景色を見たに違いない・・・・
今回の旅の写真をお見せしながら、当時のお話を伺うということが出来ないのが何とも残念・・・・(大泣)
72年後の景色はこんなふうですよぉ~
俺、戦車隊が通った道を走ってきましたよぉ~
・・・・と報告できないのが何とも残念である・・・・・(涙)
宮澤さんに会いたいなぁ~・・・・橋を見て、宮澤さんを思い出したら悲しくなってしまった・・・・

 橋の手前の集落

この橋があるあたりは、「Pekan Trolak」(ペカン・トロラク?)という場所のようである。
当時、トロラクと呼ばれていた場所か、もしくはその地域の一部だったと思われる。
時刻は午前10時40分を過ぎた。
この旧道を通り、さらに南下する・・・・

まもなくクネクネと曲がった道を走る。
両側は椰子林・・・・
おぉ!!・・・・まるでタイムスリップしたみたい!!(大喜)
当時の記録写真などで見た雰囲気そのままである。
が・・・・どこかでバスを停めてもらえないか・・・と思っているうち通過・・・・
ペナン島に引き続き、またもやシャッターチャンスを逃した!!(大泣)

あっという間に、国道1号線との合流地点に達してしまった・・・・
写真の左が国道1号線、右の細い道が旧道である。

国道1号線に乗ってから、まもなく、椰子林がよくわかる場所で停車して下車する。
ここでまた“イズミさん”の戦史の説明をいただく・・・・
さっきの旧道の曲がりくねった道のところのほうが、当時の雰囲気を残していて、写真を撮るにも説明するにもベストポイントだったのだが・・・・(汗)
道幅が狭いためバスを停めることが出来ず、やむなくここにしたのだろう・・・・

戦車は必ずしも本道上だけを走ったわけではない。
敵は陣を敷き、対戦車砲を据えて待ちかまえているのである。
本道上を走れば、速く走れるだろうが、それでは狙い撃ちにされる。
そういうわけで、場合によっては、このような椰子林の中も走ったのである。

と・・・・
ここで“イズミ教官”から「戦車の大家がおられますので、是非ご意見を伺いたい」と言われた。
“戦車の大家”とは・・・私のことのようである!(驚)
いきなりの指名にビックリしたが・・・・(大汗)
“戦車の大家”なんて、とんでもない・・・・私は戦車師団の戦友会の事務局長というだけで、“戦車兵”ではありませぬ。(大汗)
でも・・・話は戦車戦のことであるので・・・一応、私の意見を述べさせていただいた。(照)

夜間に戦車で突撃するという常識では考えられない攻撃で、敵陣を蹂躙して島田戦車隊はトロラクに進出した。
戦車は夜間は“目が見えない”ので、下手に動けば敵の餌食になりやすい。
しかも操縦手は戦車の幅が狭く細長いスリットから外を見ながら操縦するので、どうしても視野が狭くなる。
だから見通しが利く昼間に移動して戦うというのが常識である。
また、戦車のエンジンの爆音は夜間は3キロ先まで響くとまで言われているくらいなので、下手に走れば敵に気づかれてしまう。
そこで、速度を極端に下げて、エンジン音を最低にしなければならない。
機動力が売りの戦車がノロノロ運転・・・・
しかも、ヘッドライトを点灯するわけにはいかない。
そこで、車長が戦車から降り、白旗を手に戦車の前を歩きながら、白旗で操縦手を誘導したという。
これで“夜襲”になるのかと思ってしまうが・・・(苦笑)
今回のトロラク周辺での戦闘では真夜中、随伴する歩兵や工兵の協力のもとで、短時間で占領することが出来た。
島田戦車隊長としては、この勢いに乗って一気に、この先の「スリムリバー」「スリム」を攻略したいと考えた・・・
これ以前に、あのペラク川の鉄橋を、僅かの差で破壊されてしまった苦い経験がある。
この先には、スリム橋がある・・・・
ペラク橋梁の二の舞は避けねばならない。
なんとしても破壊される前に橋を確保しなくてはならない・・・・
そこで、歩兵や工兵の随伴をやめ、戦車単独で敵中を突破することにし、「スリム」に向うこととなる。

我々も、その足跡を辿って、再び南下する・・・・

トロラクに夜襲をかけたときの島田戦車隊の戦車は15両・・・
ここを攻略後、戦車隊単独でスリムに向けて突撃を開始した時の兵力は、九七式中戦車9両と九五式軽戦車2両の11両、兵員は42名のみである。

トロラクを出発して間もなく、ゴムの木の林が続いていたようだが・・・・
現在は、ゴムの木の「ゴ」の字も見当たらない・・・(苦笑)
このゴムの木の林(プランテーション?)の中に何百という敵の車輌と無数のテントがあり、敵の歩兵の露営地になっていたという。
この中を戦車隊は戦車砲、車載機銃を撃ちながら蹂躙・・・・
前進、前進、また前進!

当時は、このゴムの木の林が切れて、その次にジャングルが道路まで迫っている場所があり・・・・
そこを越すと「スリムリバー」という町に着いたらしいが・・・・
う~ん・・・70年以上も経っていると、景色が変わっていて、当時の情報は何の役にもたたないか・・・(大汗)

当時の略図では、T字路のような場所に町があったはずだが・・・
国道を外れ、旧道らしき道を走ると・・・・それらしき地点に・・・・

 T字路を曲がったところ

このあたりにスリムリバーの町があったそうだが・・・今は何もない!
家がポツンポツンとあるくらいで、集落すら形作っていない。
70年以上も経っているからなぁ~(汗)
国道1号線沿いのほうに町が移動してしまったのかもしれない。
このスリムリバーの町の洋館に英軍の司令部が置かれていたというのだが・・・
洋館??・・・・そんなもの欠片すら見当たらない・・・・(笑)
トロラクからスリムリバーまでは、英印軍第3師団の第12旅団が防衛を担当していた。
この部隊はカンパル付近の戦闘にも参加していた部隊で、ここまで後退して防衛線を敷いていたようである。

ここから、さらに「スリム」に向うが・・・・スリムリバーから左折して(つまり、東に向って)旧道を進む。
国道1号線は真っ直ぐ南に伸びているが、昔の道は、一度、東に向けて延び、グルっと回りこんで、また現在の国道1号線に繋がっているから、スリムリバーから旧道の合流地点までは、国道1号線は、いわゆるバイパスということになるか?

島田戦車隊は、時速30キロで突進する。
前日の夜間の攻撃の時はエンジン音を抑えるため、時速4キロから8キロである。
時速30キロで突っ走り、ゴム園の中に敵を見つければ戦車砲で射撃する。
ところが敵の大砲を見つけて戦車砲で攻撃しても、その大砲の数があまりに多すぎてキリがない・・・・
弾がもったいないから、ついには戦車で敵の大砲を踏み潰しながら走ったという。
戦車隊は休むことなく走り続けたのでエンジンの熱風で車内は40度を越していたというから、乗員も大変だったろう。

我々のバスは、スリムリバーから約10分ほど走ったところでスリムの集落に到着した。

 スリムの集落

ここが、スリムの町があった場所らしいが・・・・小さな集落である。
「町」という感じがしない。
戦後、幹線道路から離れてしまったので廃れてしまったのだろうか?

 警察署

「BALAI POLIS SLIM VILLAGE」(バライ・ポリス・スリム・ビレッジ)という看板がかかっているので、ここがスリムで間違いない。
ちなみに「バライ・ポリス」とは日本語で「警察署」のこと。
ビレッジというのには少々違和感があるが・・・・(笑)
なにせ、ここには英印軍第3師団の第28旅団が守備についていたのである。
ここでの戦闘について日本側の戦史では「スリムの殲滅戦」という言葉も使われている。
「殲滅戦」というくらいなんだから、相当の大戦闘が展開されたのだと思うのだが・・・・
う~ん・・・・この景色じゃ、当時の様子を想像することも出来ない。
村ねぇ~・・・・そこそこの大きい町だとばかり思っていたのだが・・・(大汗)

その昔、この警察署の向かい側に、「第二次世界大戦の史跡の説明看板」があったという。
何年か前に、添乗員さんがここに来た時に見たというのだが・・・・
いつの間にか、その説明看板は取り外されていて、設置枠だけが残されていた。
ここで日英の戦闘があったという現地マレーシアが設置した「歴史的な場所」を説明する史跡の説明板だったそうだが、どこの誰が撤去したのやら・・・
反日華僑か?(苦笑)

スリム橋

このスリムに架かる橋・・・・
多分、これが「スリム橋」だと思うが、この橋が英軍の手で爆破される前に、無事に戦車隊によって確保された。
戦史では「北橋」と「南橋」との記述が見られる。
この橋は、「北橋」ではないかと思う。

このスリムの戦闘で戦車隊に損害がなかったわけではない・・・・
スリムの「南橋」では佐藤小隊の小隊長車が真正面から敵の砲弾を喰らって犠牲になっている。
車内は血と肉片だけが残り、乗員は粉々に吹き飛んでいたという。
形を留めていたのは、機銃の引き金に長谷兵長の右手部分がぶら下がり、操縦席にはアクセルを踏んだ状態の飯田兵長の右足が残っていただけだったという。
戦車が直撃弾を喰らうと、こういう状態になるらしい・・・・(大汗)

多分、その「南橋」というのは、この先にあるのだろうが、我々は、ここでUターンして、国道1号線に戻ることとなった。

バスの後部から後ろ向きに写真を撮ったので・・・・
こちらから向うに向って戦車隊は進んだということになる。
この道をねぇ~
我が戦車第6連隊が突き進んだんだよねぇ~

我が歩兵部隊はスリムリバーに於いて、歩兵第11連隊が歩兵第42連隊を超越して前進し、スリムに向った島田戦車隊の後を追った。
第5師団は、全縦深約30kmを、わずか一昼夜で突破し、スリムリバーやスリムに陣取っていた約3千名の英軍に壊滅的な打撃を与えた。

この丘などは、英軍が陣地を構えるにには最適なような気がする・・・・

英軍側の記録では、この一連の戦闘での残存兵力は1,170名だったという。
日本側の記録では、敵の遺棄死体は約300名、捕虜は約1,000名・・・・
自動貨車(トラック)600台、装甲車84輌、その他各種砲など大量の兵器を鹵獲している。

国道1号線に戻り、我がツアーは、一気にクアラルンプールに向けて“進撃”する。(笑)
時刻は午前11時半を過ぎた・・・・


   


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