(通称号:拓12071部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
久留米 | 昭和8年改編 | 戦車第1師団 | 栃木県佐野 |
大正14年、戦車第1大隊として創設。
昭和8年、連隊に改称。
我が国最初の戦車連隊。
昭和16年12月8日、第3戦車団に所属してマレー進攻作戦に参加。
チャンルンからジットラに至る突破作戦を遂行後、次いでゲマスへの追撃作戦などで戦果を挙げた。
昭和17年2月、シンガポール占領に貢献。
シンガポールで再編後第15軍戦闘序列に入りラングーンに上陸。
昭和17年4月23日から5月1日までの間、第18師団に所属してピンナマ、マンダレーに至る進攻作戦に参加。
昭和17年9月、大連経由で奉天に移動。
10月に改編を完了し、戦車第1師団の隷下に入り、寧安県石頭に駐留した。
昭和20年3月22日、内地防衛のため同地を出発。
4月9日、新潟港を経由して前橋到着。
7月10日に栃木県の佐野に駐留し、同地で終戦を迎える。
9月11日復員完了。
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戦車之碑 (福岡県久留米市・陸自久留米駐屯地) 昭和49年5月建之 (平成20年11月20日) |
碑文
大正14年 この地に日本最初の戦車隊が誕生した
その後20年 戦い日多く 戦域はひろがり ひとびとはこの車輛ともに生死し 昭和20年 その歴史を閉じた
世々の価値観を越えて事実は後世に伝えらるべきものであるために その発祥を記念し この地に生き残れる者が相集い 死せしひとびとの霊を慰めつつ 戦車の碑を建てる
昭和49年5月
旧戦車兵有志980余名
陸上自衛隊機甲科3500余名
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戦車之碑 (福岡県久留米市・陸自久留米駐屯地) (平成20年11月20日) |
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戦車第1連隊 (陸自久留米駐屯地資料館展示写真) (平成20年11月20日) |
【戦車隊】
大正14年、駐屯地の東側に日本初の戦車部隊が誕生した。(第1戦車隊)
当初はフランスから購入したルノー戦車やイギリスのホイペット型戦車で訓練を開始した。
第1戦車隊が逐次整備され昭和8年、戦車第1連隊となり、これを母体として戦車第7連隊(第1大隊が発展したもの)や戦車第5連隊等が創設された。
戦車兵は全国規模で徴集され、優秀な兵士が選抜されていた。
作家の故、司馬遼太郎(本名 福田定一)氏も戦車兵として満州の戦車隊に入営(陸軍少尉)されたが、本土決戦に備え宇都宮へ転営し終戦を迎えた。
東門横にある「戦車の碑」の紹介文は、氏の草案によるものである。
戦車隊は中国各地の戦闘やマレー半島敵前上陸、シンガポール陥落等では大いにその威力を発揮した。
しかし、大戦後半に登場したM4戦車との戦闘では装甲、火力等において段違いの差があり、ビルマ中部平原やフィリピン島での戦車戦では殆どの砲が装甲を貫けず、まるで戦いにならなかった。
(陸自久留米駐屯地資料館展示パネルより)
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戦車隊資料コーナー (陸自久留米駐屯地資料館) (平成20年11月20日) |
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陸上自衛隊 久留米駐屯地 広報資料館(歴史資料館) (福岡県久留米市国分町100) 歩兵第48連隊本部営舎 (平成20年11月20日) |
久留米駐屯地広報資料館
本広報資料館は明治・大正・昭和に至る旧軍郷土部隊、特に第12師団、第18師団(菊兵団)、第56師団(龍兵団)等の貴重な資料や自衛隊関係資料等、約2000点を展示しています。
尚、資料館は明治30年(1897年)に建築された旧軍歩兵第48連隊の本部営舎(2階部)を使用しています。
開館時間:午前8時から午後5時
休館日:土・日・祭日
(リーフレットより)
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陸上自衛隊久留米駐屯地 (福岡県久留米市国分町100) (平成20年11月20日) |
《駐屯地の紹介》
昭和27年3月から警察予備隊の一部が当駐屯地に移駐し、同年12月その主力の特科64連隊が長崎県針尾より移駐して久留米駐屯地となった。
その後、昭和29年6月から第4特科連隊と改称され、平成2年3月第4高射特科大隊が第4特科連隊より師団直轄へ改編された。
また、平成15年3月師団改編により、第4後方支援連隊第2整備大隊の特科直接支援中隊及び高射直接支援隊が新編され現在に至る。
なお、佐賀県、福岡県筑後地区(筑後川以南)を担当隊区としております。
(リーフレットより)
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