(通称号:鯉5175)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
山口県山口 | 明治31年 | 第5師団 | タンニバル(アラフラ海) |
明治29年12月広島で編成。
北清事変・日露戦争・シベリア出兵に参加。
日中戦争では広東作戦に参加して虎門に上陸して占領しました。
昭和15年6月龍州討伐。9月仏印進駐。11月ハノイ進駐。
太平洋戦争ではシンガポール攻略に参加しました。
ジョホール水道の渡河からブキテマ高地も攻略して英軍を降伏させています。
11月にはマレー半島の警備。
昭和20年、アル諸島への集結中に終戦を迎えました。
「鎮魂 歩兵第42連隊史刊行記念」の碑 われら 青春の歴史 ここに捧げ 戦火に散った 友と 平和の道 永久に祈る 歩兵第42連隊史編纂委員他有志一同 山口県護国神社境内に建立されています。 (平成15年7月27日) |
復員中止と南東方面(ラバウル方面)派遣 |
昭和17年11月20日、マレー作戦終了後、内地復員が決定していた第5師団に復員中止命令が出る。
本来南東方面へ派遣されるはずの師団は、第2師団(仙台)・第38師団(名古屋)・第51師団(宇都宮)・第6師団(熊本)の4個師団だったが、船舶不足のため思うようにいかず、身近なマレーにいた第5師団を急遽、南東方面や豪北に持って行くことになったのである。
第5師団は第8方面軍(南太平洋方面)の指揮下に入り、3つに分割された。
【南東派遣隊】(長:田村安治大佐)
工兵第5連隊(連隊長:田村安治大佐)
広島歩兵第11連隊第3大隊(大隊長:小西秀雄中佐)
浜田歩兵第21連隊第3大隊(大隊長:高橋貞雄少佐)
山口歩兵第42連隊第2大隊(大隊長:花輪逸市中佐)
【杉浦支隊】(長:第21旅団長・杉浦英吉少将)
山口歩兵第42連隊(第2大隊欠)(連隊長:西原修三大佐)
広島歩兵第11連隊第1大隊
野砲兵第5連隊第3大隊基幹
【第5師団】
広島歩兵第11連隊第2大隊
浜田歩兵第21連隊(第3大隊欠)
南東派遣隊・マダン支隊 |
派遣目的は東部ニューギニアの飛行場適地の占領と飛行場建設。
昭和17年12月2日、昭南のセネター軍港を出港、12月13日、ラバウル着。
12月16日、ラバウルを出港し、12月18日に敵前上陸。
マダン支隊(マダン攻略部隊)
支隊長:歩兵第42連隊第2大隊長・花輪逸市中佐。
歩兵第42連隊第2大隊。
歩兵第21連隊第3大隊。
野戦高射砲第58大隊の1個中隊。
第6野戦飛行場設定隊の2分の1。
第31野戦道路部隊の1個中隊。
電信第3連隊の1個小隊。
患者輸送第63小隊(一部欠)
米軍機の攻撃を受け、特設巡洋艦『護国丸』(客船を巡洋艦に仮装・1万トン級)が被害を受ける。
マダン上陸は無血上陸だったが、上陸直前の空襲のために武器・弾薬は全部が揚陸できなかった。
上陸を護衛していた軽巡『天竜』がマダン沖で米潜水艦の魚雷攻撃で沈没。
上陸部隊は、昭和17年12月19日午前1時にマダン市を占領。
支隊は飛行場建設作業・警備、道路修理作業に従事。
敵機の空襲をしばしば受け、昭和18年5月にマダンを撤退する。
杉浦支隊 |
第5師団の先発として豪北に向かう。
昭和17年12月16日夜、昭南を出港、スラバヤ(ジャワ島)で大型輸送船5隻に分乗。
昭和18年1月1日、アンボン島に到着し、各部隊の部署を定める。
タンニバル島=歩兵第42連隊第3大隊(連隊長が指揮)
アル島=歩兵第42連隊第1大隊
ミミカ(ニューギニア)=歩兵第11連隊第1大隊
カイ島=支隊司令部、野砲兵第5連隊第3大隊主力
(参考:御田重宝著『人間の記録 ガダルカナル戦太平洋放浪部隊』)
(平成20年9月12日追記)
【終戦後のスマランの悲劇】
インドネシアでは敗戦の混乱で、武器の取り扱いについての解釈がバラバラになり、あれほど共に「独立」を叫んでいた日本軍が、降伏したとたん連合国側の言いなりになるのをインドネシア人達には理解できませんでした。
中部ジャワの中心であるスマラン一帯は共産党過激派の勢力が強く、武装集団が独自の独立闘争を繰り広げていました。
「日本軍は連合軍の手先となって、インドネシアの独立を妨げようとしている」と宣伝し、「日本人が水道に毒を入れた」などのデマが飛び交い、騒然とした様相になっていきます。
武装集団側は、日本軍が反撃できないことを知っていますから、武器を奪うためにあらゆることを仕掛けてきたのです。
飛行場整備隊の海軍の石本少尉以下31名が拉致されたり、日本人の民間人があちらこちらで殺害されたり、中部ジャワ地区の防衛司令官の官邸が襲われて中村旅団長が監禁されたり、支那事変当初の状況によく似た不安状態が現出しました。
スマラン地区の治安に当たっていた歩兵第42連隊主力の八木大隊の属する城戸部隊(城戸進一郎少佐)は、和田憲兵大尉を中心に、武装集団の拠点をつかみ、戦闘準備を整えていました。
昭和20年10月14日の朝、武装集団が中村旅団長と日本人抑留者を他に移動させる情報をつかんだ城戸部隊は、15日午前3時、市内の治安確保と拉致された日本人救出を目的として戦闘を開始します。
城戸部隊は各支隊に分れて、電話局や州庁舎など武装集団の活動拠点を押さえ、さらに日本人が収容されているブルー刑務所に突入し、邦人300人近くを救出したのです。
しかしその後に判明したのですが、ブルー刑務所内に監禁されていた日本人のうち、少なくとも130名が殺害され、行方不明が60名に及んだのです。
突入が遅れていたら皆殺しにされていただろうといいます。
悲劇のスマラン事件は5日間で終わり、同じように監禁されていたオランダ人も救出されたのでした。
(参考:佐藤守 著 『大東亞戦争は昭和50年4月30日に終結した』 青林堂 平成24年12月 初版発行)
(令和2年5月1日 追記)
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