歩兵第11連隊

(通称:鯉5173部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
広島 明治8年 第5師団 アラフラ海・カイ諸島

編成後の初陣は「萩の乱」
続いて西南の役にも出陣し、日清戦争では平壌(ピョンヤン)を攻略した。
北清事変、日露戦争、シベリア出兵にも参戦。

日中戦争では石頭嶺付近での戦闘に参加。
万里の長城の内側に沿って作戦を展開、太原を占領。
徐州前哨戦として山東省南部の各地を転戦。
徐州攻略後は付近の警備に当るが、一旦、青島へ帰還した後、広東作戦に参加して虎門要塞を攻略。
昭和14年、再び北支に戻り、魯北の治安粛正工作を担当する。
10月末、大連から南支に進出し、南寧付近の戦闘に参加。
昭和15年9月、仏印国境を突破してランソンからハノイを経てハイフォンへ進出する。

太平洋戦争が勃発すると、機械化部隊となってマレー作戦に参加。
マレー半島のシンゴラに上陸し、この地を攻略。
休む間もなく、タイピンを経て首都のクアラルンプールへ進撃した。
昭和17年1月末、英軍との4日間の攻防戦の末、ジョホールバルを占領。
その後、テンガー飛行場を攻略し、ブキテマ高地を奪い、シンガポール島を目指す。
英軍の陣地だったシンガポール競馬場を占領。
シンガポール攻略後は、昭和18年1月まで、マレーシアのクアラルンプールの南方40kmにあるセレンバンに駐屯し、同地の警備に当った。
昭和18年2月、バンダ海に展開していた第48師団の任務継承のため第5師団がアルー諸島、ケイ諸島、タンイバル諸島に進出。
北部オーストラリアに対する作戦の準備に当る。
ミミカには歩兵第11連隊第1大隊主力を基幹とする部隊が置かれた。
昭和20年、英軍はシンガポール奪回を企て、タイ国境まで進撃。
この頃、ビルマ方面軍は壊滅的な状態だった為、南方総軍は第5師団に転進命令を出した。
8月1日、第1大隊、第2大隊、他部隊の兵士、武器弾薬を乗せた病院船がケイ島を出港。
これは明らかな国際法違反行為で、米駆逐艦の臨検を受けた際、偽装病院船であることが発覚(橘丸事件)
乗船していた全員が捕虜となり、マニラへ送られモンテンルパ捕虜収容所で終戦を迎えた。
連隊のその他の将兵は転進中に終戦を迎える。






『歩兵第十一聯隊跡』の碑

(広島市・広島城の堀の東側緑地帯)





(平成22年5月1日)

【碑文】

歩兵第十一聯隊略歴

1.明治8年5月広島の地に創設 同年9月9日聯隊旗受領
2.明治9年10月萩の乱に出動
3.明治10年西南戦争に出動
4.明治27年日清戦争に出動、朝鮮、中国北部各地を転戦 同28年7月復員
5.明治33年6月北清事変に出動
6.明治37年4月日露戦争に出動、南満州(現中国東北部)の各地を転戦し、同38年12月復員
7.大正8年7月シベリアに出兵
8.昭和12年7月27日日中戦争に出動、中国全土を転戦
9.昭和16年12月8日太平洋戦争勃発、マレー作戦に参加し、のち南太平洋諸島を転戦中、同20年8月15日終戦となる。
  同年8月26日シンガポールにおいて軍旗を焼く。
  創設以来72年の歴史を閉じ解隊する。
10.この間、特に、日中戦争以降、歩兵第11連隊を母体とする藤部隊、槍部隊、開部隊、望部隊、西部第2部隊等を創設、各々克く健闘した。

ここに聯隊跡碑を建立し、往時を偲ぶ縁とする。

昭和55年7月建立
平成 6年8月改刻
歩十一会





門柱
(広島市・広島城の堀の東側緑地帯)





(平成22年5月1日)

門柱の由来

この石柱は歩兵第11聯隊入口正門として建っていた門柱で長年月にわたり入隊訓練出征帰還と幾多の年代的過程を静かに見守って来た歴史の証人とも言える記念すべき門柱であります
しかも原爆被災の中で残存し得た当時を偲ぶ唯一の遺跡でもあります
幸い篤志家の手に依り広島市立福木保育園に保存されていたものを今般譲り受けゆかりの地に移転建立し歴史の証とするものであります

昭和59年9月吉日
歩十一会

(銘板より)

兵営跡

北清事変忠死者紀念之碑



北清事変忠死者紀念之碑
(広島市・饒津神社)

明治34年7月13日建之
陸軍歩兵大佐従五位勲三等功四級粟屋幹書



(平成22年5月1日)

北清事変忠死者紀念之碑

明治32年(1899)より明治33年に列強の進出に抗した中国民衆の外国人排斥運動(義和団事件)に対し日・英・米・露・独・仏・伊・墺の8ヵ国は連合軍を組織してこれを鎮定(日本では北清事変と呼称)。
広島市に拠点を置く歩兵第11連隊はその一翼を担い出兵。
238名の戦死者名を刻字し、慰霊・追悼し、顕彰した。

(説明板より)

向唐門




向唐門むかいからもん

(広島市・饒津神社)





(平成22年5月1日)

向唐門

昭和20年 原爆で焼失した旧向唐門の礎石の上に再建
龍の彫刻等細部を忠実に復元した(礎石は原爆当時のまま残した)
向唐門は格式上 将軍や藩主を祀る神社に用いられた
なお 当門は全国二番目の大きさである

平成12年8月吉日再建
饒津にぎつ神社

(説明板より)

説明板の写真(説明板より)
(建物がすべて焼け落ちた饒津神社 1945年8月20日 尾木正巳氏撮影)

饒津神社(爆心地から約1,800メートル)

原爆の炸裂による強烈な爆風のため 本殿や唐門などの建物が一瞬にして破壊されました
その直後本殿から出火し 他の建物も次々と延焼していきました
爆風により 境内の樹木は吹き倒され 参道の石灯籠も倒されました
境内には 燃え盛る市内から大勢の人々が避難してきて 臨時の救護所が設けられました

(説明板より)

本殿



本殿

(広島市・饒津神社)





(平成22年5月1日)
饒津神社



饒津にぎつ神社

(広島市東区二葉の里2−6−34)





(平成22年5月1日)

日清戦役陸軍軍人合葬の墓

日清戦役 陸軍々人合葬之墓
(広島市・比治山陸軍墓地)

歩兵第11連隊 陸軍歩兵軍曹高橋金一 外201柱
野砲兵第5連隊 同 砲兵軍曹村岡福次郎 外100柱
工兵第5大隊 同 工兵一等卒千同与一 外26柱



(平成22年5月1日)
慰霊碑



慰霊碑
(広島市・比治山陸軍墓地)





(平成22年5月1日)

戦士は眠りぬ

歩兵第11聯隊は明治8年広島市に創設され、郷土出身の兵士を中核として明治、大正、昭和の三代にわたり、累次の戦争に参加した。
その最後の舞台は、昭和12年支那事変の勃発とともに出征し、中国、マレーシヤ、ニューギニヤの各地に転戦した征旅であったが、聯隊はついに再び故山にまみえるいとまもなく、昭和20年8月太平洋戦争の終焉とともにシンガポールにおいて聯隊将兵の万斛の涙のうちに聯隊旗を奉焼してその70年の歴史を閉じた.
この間戦野に斃れ伏したるもの2千4百余名。
戦後30数年を経て、ようやくにして老残を養うに至った生存者は、これら戦没者に対する哀惜の情もたし難く、遺族の悲願もこれに加えて、ついに慰霊塔の完成を見るに至った。
悠々たる歴史の歯車のうちに消え去ったこれら戦没者の犠牲が、いささかなりとも人類の未来に重みを加えんことを。
今この地に無名の戦士は静かに眠る。

昭和56年5月9日

(碑文より)





比治山陸軍墓地
(広島県広島市南区・比治山公園)





(平成22年5月1日)

【橘事件と中国人の少年】

昭和20年8月3日、南太平洋バンダ海で陸軍病院船「橘丸」が2隻の米駆逐艦により拿捕された。
この病院船には、歩兵第11連隊第1大隊、第2大隊の将兵など1562人が「白衣の傷病兵」に偽装して乗船していた。
いわゆる「偽装病院船事件」で、国際法違反行為により全員が捕虜となった。

この時、一人の中国人少年が、第1大隊の「日本兵」として乗船していた。
この少年は、中国海南島出身の本名「呉和盛」といい、終戦時、19歳だった。
家族とともに海南島からマレー半島マラッカに出てきた呉少年は、マレー半島に絶大な権力でもって君臨していた英国勢力が日本軍によって駆逐されていくのを目の当たりにして「すっかり日本軍のファンになった」らしかった。
第1大隊がマラッカに駐屯すると、さっそく大隊酒保(隊内の日用品や飲食物の販売所)の給仕になった。
部隊では、最初、ふざけて呼んでいた「吉良仁吉」のアダ名がそのまま定着していた。
吉良仁吉とは時代物講談で語られる有名な任侠の親分のことである。
連隊が転進する際、兵隊の「今度は戦地行きだぞ」といった忠告や家族の制止にも耳を貸さずついて来た。
その健気さと働きぶりに感じ入った大隊長は、丸坊主の頭に戦闘帽をのせてやり、軍服も支給してやっている。
のちには連隊長から、正規ではなかったものの、「陸軍上等兵」を称することが許された。
『帝国陸軍広しとえいども無階級から一躍、上等兵になった外国人は仁吉をもって嚆矢とするであろう』(連隊史)

第1大隊の将兵とともに偽装患者となって乗船した呉少年は、軍医から与えられたニセの所属部隊名と出身地、氏名などが記されている「病床日誌」を必死になって暗記している。
また、周りの兵隊も懸命になって教え込んでいる。
捕虜になってフィリピンの収容所に抑留されたのだが、ここでカタコトが多い日本語をいぶかった米軍当局から「中国人ではないか」「もう日本軍に義理立てすることはないぞ」と再三にわたって脅し、すかしで尋ねられているが、呉少年は「自分は日本軍人であります」を言い通している。
なぜ、この中国人少年が断固として「日本軍人である」との主張を曲げなかったのかは、わからない。

呉少年は、日本に復員(?)後、元将兵たちに支えられ、中国料理を修業し、中華料理店を開いた。
商売繁盛で日本人女性と結婚し、二女を得た。
台湾国籍を取得したが、やがて中国籍に変え、日本華僑代表団の一員として中国を訪問している。
その際、故郷の海南島も訪れたのだが、マラッカから引き揚げていた両親はすでに亡くなっていたそうである。

(参考:土井全二郎 著 『生き残った兵士の証言〜極限の戦場に生きた人間の真実〜』 光人社 2004年9月発行)

(平成29年4月21日 追記)




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