高橋是清像 平成15年5月24日

高橋是清 たかはし・これきよ

安政元年(閏)7月27日(1854年9月19日)〜昭和11年(1936年)2月26日

東京都港区赤坂7丁目の「高橋是清翁記念公園」でお会いしました。


高橋是清は幕府御用絵師の川村庄右衛門の子として生まれ、仙台藩士の高橋是忠の養子となりました。
農商務省官吏などを経て、明治22年(1889年)銀鉱開発のためペルーに渡りますが失敗。
明治25年(1892年)日銀総裁の川田小一郎の招きで日本銀行に入行します。
明治32年(1899年)2月に日本銀行副総裁になり、金本位制確立や日露戦争の戦費調達のための外債募集で活躍し、明治44年(1911年)総裁に就任しました。
大正2年(1913年)第一次山本内閣の蔵相に就任後、立憲政友会に入党。
内閣の蔵相を経て、大正10年(1921年)には首相兼蔵相、政友会総裁となりました。
護憲三派内閣の農商務相を務め、田中義一内閣では蔵相として金融恐慌対策に従事しました。
昭和6年(1931年)12月の犬養毅内閣の蔵相就任後、金輸出再禁止に始まる高橋財政を展開しましたが、昭和11年(1936年)に公債漸減による財政引締めの方針をとって軍部と対立、2・26事件で殺害されてしまいました。


七転び八起きの人生

アメリカで奴隷になる
高橋是清は12歳の時に英学修行の生徒に選ばれ、横浜のヘボン夫妻のところへ送られました。
その後、慶応3年に米国のサンフランシスコに給費学生として渡りました。
ところが、オークランドの農園主に3年契約でボーイとして50ドルで売り飛ばされてしまったのです。
よく英語がわからないままサインしたのが大間違い。
しかし、その後運良く助け出され明治元年に日本に帰国しました。

芸妓のヒモになる
運良く奴隷奉公から解放されて帰国できたのは良いのですが、時代は明治。
仙台藩は官軍に反抗したために米国帰りの彼を受け入れるどころの騒ぎじゃない。
その時、薩摩の森有礼(のちの文部大臣)が英語ができるというので書生として雇ってくれました。
更に大学南校ができると英語の助手の仕事を世話してくれました。
ところが、芸者遊びを覚えてしまった。
遂には学校を辞職して芸妓の家に転がり込んでしまった。
小遣銭をもらってブラブラ・・・
こんなことをしていてよいのやら・・・と思っているときに幸運が。
肥前の唐津藩が英語学校を新設。その教師を月給100円で求めているという。
彼は東あずま太郎と名を変えて唐津に赴任しました。

相場詐欺に引っかかる
英語学校の教師と翻訳の仕事で彼は約5千円の貯金を作りました。
この金を3万円にしたい。3万円あれば、その利子で約30人の学生に奨学金が出せる。
彼はそう考えたのであります。
その話を聞いて銀相場を張ることを勧めてくれる人がいた。
その話に乗ったのがいけなかった。
あっという間に元金5千円をすられてしまったのでした。

銀山開発の詐欺に遭う
相場で貯金を無くした彼を救ってくれたのはまたもや森有礼。
森の世話で専売特許局長になり、欧米に出張して特許法の制定に尽力し高く評価されました。
ところがまたもや変な話が舞い込んできます。
森有礼の友人で農商務省次官の前田正名がペルーの銀山開発の話を持ち込んできたのです。
サンプルの鉱石を調べたら高品質。
牧野伸顕などが50万円を出資して会社を設立。その現地責任者になってくれとの話です。
最初は断りましたが、前田は殖産事業に熱心な人。諦めきれずに大臣の井上馨に頼み込んだのです。
ペルーで銀鉱山に成功すれば国家のためになる。
井上大臣の休職許可を得て彼はペルーへ渡ったのですが・・・・
3ヵ月後には鉱石の品質が悪いことが判明。
ペルー側に買収された日本人が偽のサンプルを前田に見せていたのです。
明らかな詐欺。
帰国後、1,500坪の敷地の邸宅を売り債務を清算し家賃6円の借家住まいとなってしまい、更には月給300円の特許局長も辞職せざるを得なくなってしまいました。

日銀副総裁になる
さすがに責任を感じていた前田は高橋に日本銀行総裁の川田小一郎を紹介しました。
とりあえず月給100円の日銀建築所事務主任のポストを与えられます。
そのうち川田総裁は高橋の能力を高く評価し本店支配役兼下関支店長に登用します。
更に外為専門銀行の横浜正金銀行に移り、外為業務をマスターして、日銀副総裁になりました。






高橋是清翁記念公園
(東京都港区赤坂7丁目3)




(平成25年7月15日再訪問)
高橋是清翁記念公園(高橋是清邸跡)

(平成25年7月15日再訪問)




高橋是清について記した石碑
(高橋是清翁記念公園)




(平成25年7月15日再訪問)

【碑文】

高橋是清翁ハ安政元年江戸芝ニ生ル幼少轗軻不運十四歳ニシテ
北米ニ渡航刻苦勉學シ長シテ轉々窮境ニ在ルモ気宇益高邁識見
常ニ卓抜夙ニ特許制度ヲ創設シ殖産興業國家経済ニ盡瘁シ或ハ
戰時財政ノ確保ニ貢獻スル所多ク日本銀行総裁大蔵大臣ヲ歴任
シテ遂ニ首相ノ枢職ニ就キ日夜一死報國ノ純志ニ終始セラレタ
リ昭和十一年二月■忽トシテ此邸ニ薨ス年八十三本邸ハ明治三
十三年以来翁カ日常起居ノ處ニシテ之ニ臨メハ洵ニヨク其ノ■
風雅懐ヲ偲フニ足レリ
昭和十三年十月嗣子子爵高橋是資氏ハ故高橋是清翁記念事業會
ト戮カ邸地二千坪ヲ擧ケテ本市ニ寄附シ永ク翁ヲ追慕スルノ資
タラシム本市ハ其趣旨ヲ承ケ諸般ノ保存施設ヲ了セリ茲ニ公開
ニ當リ由緒ヲ記シ以テ之ヲ後世ニ傳フ

昭和十六年六月   東京市

公園内の高橋是清像




高橋是清さんは公園のこういうところに座っておられました。





(平成15年5月24日)

高橋是清翁記念公園の沿革 (説明板より)

この公園は、日本の金融界における重鎮で大正から昭和始めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家「高橋是清」翁(1854年〜1936年)の邸宅があったところです。
翁は、昭和11年(1936年)2・26事件によりこの地において83歳で世を去りました。
翁の没後、昭和13年(1938年)10月高橋是清翁記念事業会がこの地を当時の東京市に寄附し、昭和16年(1941年)6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和50年(1975年)港区に移管されたものです。
第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母屋は故人の眠る多磨霊園に移築されていたため難を逃れ、現在は都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されています。
戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和30年(1955年)に再建されました。
現在の面積は5,320uで、国道246号線の拡幅等により開園当初よりやや減っていますが、和風庭園はほぼ当時のままの姿で残されています。
園内は池を中心として石像や石灯籠が配置され、樹木はかえで、もっこく、うらじろがし、くすのきなどたくさんの種類があり落ち着いた雰囲気をかもしだしています。

平成7年 港区


高橋是清記念公園


真ん中の緑の見えるところが「高橋是清翁記念公園」です。
その向こう側の斜めに切れている屋根のある建物がカナダ大使館です。


公園のある場所は、最初の赤坂区役所跡でもあります。



(平成15年5月24日)

最初の赤坂区役所跡 近代地方自治の発祥 (説明板より)

明治初年の地方制度は、いくたびか改正のくり返しが続いたが、明治11年(1878)7月22日、近代地方自治の歴史上画期的な、郡区町村編成法などの公布によって、同年11月2日、東京は15区6郡に区画され、区会も設けられた。
その時、現在の赤坂・青山の地域が赤坂区として誕生し、最初の赤坂区役所が赤坂表町3ノ5(現在赤坂7ノ2)に置かれ、同年11月4日に開庁した。初代区長は翌12年1月、島津忠亮が任命された。
赤坂区役所はその後、表町1丁目などに移り、さらに明治24年(1891)に現在の港区役所赤坂支所の位置に移った。
なお、芝・麻布・赤坂区は、昭和22年3月15日、統合されて港区となった。

昭和49年1月

東京都港区教育委員会


高橋是清邸
高橋是清邸



「江戸東京たてもの園」の中に移築されいています。
場所:東京都小金井市桜町3−7−1(都立小金井公園内)

交通:JR中央線武蔵小金井駅又は西武新宿線花小金井駅



(平成12年12月10日訪問)

高橋是清邸 (展示解説シートより)

高橋是清邸は、赤坂にあった政治家の高橋是清の主屋部分を移築したものである。
是清は本所押上から赤坂へと移り住み、1902年(明治35年)にこの家が完成してから、1936年(昭和11年)の2・26事件で暗殺されるまでの30年あまりをこの家で過ごした。
当時の赤坂は江戸時代の面影を残し、大名の屋敷地が多数残されていたため郊外の趣があったという。
約2,000坪(6,600u)の是清邸の敷地も、元は丹波篠山藩青山家の中屋敷地であった。
是清と家族ははじめのうち敷地内の古い屋敷で過ごし、この家の完成を待った。
是清の自伝には、明治35年元旦のこととして、「この日、かねて赤坂表町に新築中の新宅が、玄関および廊下を除いて、ほぼ落成したので、邸内の旧家からその方へ引越した。そうして家内一同新食堂にて屠蘇や雑煮を祝い、久し振りで人間の住居らしい我が家に新年を迎えた」と記されている。
この家と敷地等は是清の亡くなったあと1938年(昭和13年)に東京市に寄贈され、主屋部分は、3年後に是清の眠る多磨霊園に移築され休憩所として使われた。
また屋敷地は公園となり、元あった倉庫を改修し、高橋是清翁記念館とした。(建物は太平洋戦争で罹災し現存していない)


【高橋内閣の成立】

原敬内閣は原の死と共に倒れた。
政友会の後継総裁は、高橋是清に決定し、原の死後9日目に、高橋内閣が、蔵相は高橋の兼務で、その他の閣僚はそのままで成立した。
こんな「質流れ」のような政権は明治以来初めてであった。
現役の首相が急死したのも初めてだったが、それにしても原内閣が総辞職した以上、高橋は組閣にあたって、なぜ閣僚の総入れ替えを行わなかったのか。
その後も、第一次若槻内閣、第二次若槻内閣、戦後も岸信介内閣、佐藤栄作内閣も閣僚そのままも延長内閣で、いずれも、その後の成り行きは良くなく、野垂れ死にしている。
政権交代によって、人心一新という、重大なる政治的刺激を欠如していたからである。

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(上巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月第1刷)

(令和元年10月5日 追記)


【晩年の奉公振り】

山本権兵衛内閣の蔵相を振り出しに、前後7回、蔵相を務めた高橋是清にとって、一番辛かった事は、各省の予算分捕りであったという。
原敬内閣と犬養毅内閣の時にも、この弊を改めんと努力したが、どうもうまく行かず、これには終始悩まされたらしい。

原内閣の時、陸海軍とも相当厖大な予算を申請してきた。
加藤友三郎海相と田中義一陸相に対し、お互いに国務の立場からその緩急軽重を審議してもらいたいと言ったところ、田中陸相は「それは海軍大臣に重点が置かれるべきだ。海軍には軍艦の艦齢があるから」と言い、いともあっさりと海軍を立てた。
田中陸相のこの立派な態度に高橋はいたく感激、後年、彼が政友会総裁のバトンを田中に渡したのはこの時のことが頭に残っていたからである。

昭和2年4月の田中義一内閣の成立にあたり、金融恐慌処理を依頼されるや、高橋は即座に快諾した。
当時、高橋は74歳。
医者は強く反対したが、田中義一の人格に引かされた彼は朝夕注射を打ち、財政安定を見るまでの2ヶ月間、昼夜兼行で頑張り続け、6月に至り四周の情勢大丈夫と見確かめるや、彼は職を辞した。

その後も高橋是清は犬養毅、斎藤実、岡田啓介、各内閣の蔵相を歴任した。
ただ頼まれればやる、死ぬまでご奉公するといった気持ちで、毎朝の看経かんきんには、「息災延命」を祈っていた。
この頃、腸のどこかに狭いところが出来、鳥の餌のごとき「すり餌」と肉汁や果汁で生命を保ち、ホルモン注射で頑張るという有様で、体重も13貫を欠くようになった。
しかし、彼の勉強の意欲は少しも衰えず、虫眼鏡を用いて、原書まで紐解く。
仕事のことで名案が浮かぶとコツコツとメモを取る。
耳は少しも遠くなかったが、視力はやや鈍りだしたが、幸いにもホルモン注射は視力の衰えを止めるのに役立ったので、大いに喜び、友人にも奨めていた。

「老人はボケるというが、なるほど身体はいう事を利かなくなる。しかし精神は心掛け次第でボケる事はない。自ら老人だと思い込み、甘える気持ちがあるからボケるのだ。老いたら益々若い気持ちを持つように心掛けねばならない。そのほうが老人自身にとっても幸せである」と言っていたという。

(参考・引用:猪瀬直樹 監修 『目撃者が語る昭和史 第4巻 2・26事件』 新人物往来社 1989年第一刷発行)

(平成24年10月7日追記)


2・26事件

昭和11年2月26日、高橋是清邸を襲撃したのは中橋基明中尉の率いる137名の部隊。
午前4時半頃、近衛歩兵第3連隊の営門を出発。
高橋蔵相邸までは連隊から10分弱の距離。
門前で警戒中の玉置巡査は、押し入ろうとした兵隊達を制止しようとして銃剣により重傷を負う。
突入隊62名が高橋蔵相を襲い、残りは控兵隊として今泉義道少尉が指揮して周辺の警備に当った。
中橋中尉が「天誅」と叫んで、蒲団をはぎ、拳銃を3発撃った。
中島莞爾少尉は軍刀で左腕と右胸あたりを突いた。
高橋蔵相は一言唸って絶命。

【高橋蔵相が襲撃された理由@】
昭和7年1月、上海事変が勃発。
荒木貞夫陸軍大臣は、在留邦人の生命と財産を守るため陸軍部隊の派遣を閣議に諮った。
高橋大蔵大臣は、事変が拡大した場合は財政が長期派兵に耐えられないとして反対。
結局、荒木陸相が高橋邸へ出向いて、最小限の出兵と不拡大を約束して了承を得る。
犬養首相の意を受けた高橋蔵相が、陸軍の強引な主張を財政(金)の面から押さえつけようとしたことが陸軍の高橋に対する憤慨となった。

【高橋蔵相が襲撃された理由A】
斎藤内閣でも蔵相として留任、軍事予算のことでは陸海両相を抑える。
閣議の席で「陸軍は予算をやるとすぐ戦争をする」の発言で荒木陸相と激論となる。

【高橋蔵相が襲撃された理由B】
昭和10年11月の予算閣議で川島陸相に説教をした。
「国防とは守るに足るだけで良し。軍部は常識に欠けている。地方幼年学校の増設は無意味である。社会から隔離した特殊教育を幼年学校で行なうから片寄った人間を作るのだ。この人間が陸軍の幹部となり政治にまで口を出すのだから言語道断、国家の災いである」という意味のことを82歳の老人が説いたのだから陸軍は格好がつかない。
これを書記官長の白根竹介が新聞記者に話してしまい、新聞紙上に「軍部たしなめられる」と見出しがついて公表されてしまったので陸軍の怒りを買ってしまった。

【高橋蔵相が襲撃された理由C】
「参謀本部なんてものがあるから陸軍は戦争をしたがるのだ」という放言が参謀本部廃止論とされて、更に陸軍の怒りを買ってしまった。

これらの積重ねが殺害リストに加えられた理由のようである。

(平成16年7月18日記)


年表
年号 西暦 年齢 出来事 世の中
嘉永 7
安政元
1854 閏7月27日誕生 日米和親条約
安政 2 1855 安政大地震で家が潰れるが奇跡的に無傷で助かる 藤田東湖圧死
安政 4 1857 偶然、藩主の奥方と神社で出会い、可愛がられる  
安政 5 1858 御三家の行列の馬に踏まれるが無傷で助かる 安政の大獄
文久 4
元治元
1864 11 横浜へ英学修業に行く
ヘボン夫妻から英語の稽古を受ける
長州征討
佐久間象山暗殺
慶応 2 1866 13 銀行家シャンドのボーイになる 薩長連合
慶応 3 1867 14 アメリカに留学するが、騙されて身売りされる アメリカ、アラスカを買収
慶応 4
明治元
1868 15 日本に帰国
森有礼邸に身を寄せる
昌平校・開成所再興
明治 2 1869 16 大学南校(開成学校)に入学する。
英語が堪能のため一躍、教官手伝いになる
東京・横浜間電信開通
横井小楠暗殺
明治 3 1870 17 茶屋遊びを覚え、放蕩にはまる 人力車の発明
明治 4 1871 18 芸妓と浅草で芝居見物したことが露見、教師を辞す
唐津藩英学校の教師になる
毎日三升の酒を飲み、血を吐く
廃藩置県
郵便規則制定
文部省を置く
明治 5 1872 19 東京に戻り駅逓寮に出仕
しかし、前島密と衝突し、憤然と辞職する
新橋・横浜間鉄道開通
本木昌造、活版印刷を開始
明治 6 1873 20 文部省に出仕する 東京外国語学校創立
明治 8 1875 22 大阪英語学校長に任命されるが赴任せず
(友人と仏教研究に耽っていた)
同志社英学校設立
明治 9 1876 23 東京英語学校の教官になる 神風連の乱
明治10 1877 24 吉原通いをした英語学校長の追放運動を展開
自らも職を辞す
西南の役・西郷隆盛自殺
明治11 1878 25 共立学校を再興し、校長となる
銭相場に手を出し失敗
カラクリを学ぶべく自ら仲買店を開く
大久保利通暗殺
明治14 1881 28 再び官途に就く
(文部省御用掛、農商務省工務局雇)
国会開設の詔
開拓使官有物払下事件
明治15 1882 29 農商務省調査課長になる 開拓使廃止
日本銀行創立
明治17 1884 31 商標登録所長を兼任 加波山事件・秩父事件
明治18 1885 32 特許制度の責任者として欧米視察へ 内閣制度制定
明治20 1887 34 商標条例、意匠条例、特許条例を無事に発布
特許局長に就任する
東京に電燈がつく
明治22 1889 36 農商務省を辞し、鉱山経営のためペルーに行く
しかし、騙され無一文となる
大日本帝国憲法発布
明治25 1892 39 日本銀行建築所事務主任となり手腕を発揮 水力電気工業各地に起こる
明治26 1893 40 日本銀行西部(馬関)支店長に就任  
明治27 1894 41   日清戦争
明治28 1895 42 横浜正金銀行の本店支配人になる 下関条約調印
明治30 1897 44 横浜正金銀行の副頭取になる 貨幣法公布
(金本位制確立)
明治32 1899 46 日本銀行副総裁に就任 台湾銀行創立
明治37 1904 51 日露戦費の外債募集のため英米に出張
見事に成功させる
日露戦争
明治38 1905 52 貴族院議員になる 日本海海戦
明治44 1911 58 日本銀行総裁に就任 朝鮮銀行法制定
大正 2 1913 60 第一次山本内閣の大蔵大臣に就任
立憲政友会に入る
税制改革
行政整理により国費節約
大正 7 1918 65 内閣の大蔵大臣に就任
参謀本部と文部省の廃止をぶち上げる
シベリア出兵
米騒動
大正10 1921 68 原の暗殺で総理に就任するが半年で辞職する ワシントン会議
大正12 1923 70   関東大震災
大正13 1924 71 衆議院選で当選
加藤高明内閣の農商務(農林・商工)大臣に就任
政友会分裂
小作調停法公布
昭和 2 1927 74 田中義一内閣の大蔵大臣に就任
金融危機を42日で解決する
第一次山東出兵
金融恐慌
昭和 5 1930 77   金解禁実施
農業恐慌
昭和 6 1931 78 犬養内閣の大蔵大臣に就任 満洲事変
地租法公布
金輸出再禁止
昭和 7 1932 79 斎藤内閣の大蔵大臣に就任 5.15事件
昭和 8 1933 80   外国為替管理法公布 
昭和 9 1934 81 岡田内閣の大蔵大臣に就任 不正競争防止法公布
昭和11 1936 83 2月26日、暗殺される  

(参考:『歴史街道 2013年6月号』)
(参考:児玉幸矢多 編 『日本史年表・地図』 2003年第9版第1刷 吉川弘文館)

(平成25年11月7日 追記)




 トップページに戻る   銅像のリストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送