夏目漱石銅像 平成15年12月22日

夏目漱石 なつめ・そうせき

慶応3年1月5日(1867年2月9日)〜大正5年(1916年)12月9日

東京都新宿区早稲田南町 漱石公園(漱石山房跡)でお会いしました。


本名は金之助。
幼い時に塩原家に入りますが、養父母の不和から生家に戻りました。
東京大学卒、同級生に正岡子規がいます。
明治28年(1895年)に松山中学校に赴任、翌年には五高教授に転任しました。
1900年、文部省留学生としてロンドンに留学、英文学研究に携わりました。
1903年、一高教授兼東京帝国大学文科、大学講師。
1905年、「吾輩は猫である」と「倫敦塔ロンドンとう」などの短編を発表して文壇に登場しました。
「坊ちゃん」「草枕」などで余裕派と呼ばれました。
1907年、東京朝日新聞に入社し文芸欄で活躍しました。
「三四郎」「それから」「門」の中期三部作を発表。
大病を経て「こゝろ」「道草」「明暗」などで苦悩する近代知識人の内面を描きました。


誕生の地



夏目漱石誕生の地跡
(東京都新宿区喜久井町1番地)




(平成17年5月19日)

新宿区指定史跡
夏目漱石誕生の地

所在地 新宿区喜久井町1番地
指定年月日 昭和61年10月3日

文豪夏目漱石(1867〜1916)は、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末子としてこの地に生れた。
夏目家は、牛込馬場下横町周辺の11ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は夏目家の家紋「井桁に菊」に因み、また夏目坂は直克が命名したものだという。
漱石は生後まもなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家にもどり、2歳の11月に再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子となり、22歳のとき夏目家に復籍している。
なお、この地での幼少時代のことは大正4年に書かれた随筆「硝子戸の中」に詳述されている。
また、この記念碑は昭和41年に漱石生誕百年を記念して建立されたもので、文字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。

平成3年11月
東京都新宿区教育委員会

(説明板より)

夏目漱石誕生之地碑



「夏目漱石誕生之地」碑






(平成17年5月19日)

碑文

夏目漱石は慶応3年(1867年)1月5日(陽暦2月9日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町1)名主夏目小兵衛直克の末子として生まれ明治の教育者文豪として不滅の業績を残し、大正5年(1916年)12月9日新宿区早稲田南町7において没す生誕百年にあたり漱石の偉業を称えてその生誕の地にこの碑を建つ

昭和41年2月9日
夏目漱石生誕百年記念
新宿区建之


愚陀仏庵



愚陀佛庵(復元)
(愛媛県松山市・萬翠荘敷地内)





(平成19年11月8日)
愚陀佛庵



愚陀佛庵(復元)
(愛媛県松山市・萬翠荘敷地内)





(平成19年11月8日)

愚陀佛庵ぐだぶつあん

この建物は、市内二番町にあった上野義方うえのよしかた宅の離れを、昭和57年(1982年)に復元したものです。
明治28年(1895年)春に松山中学校英語教師として東京から松山に来た夏目漱石が下宿し、自分の俳号「愚陀佛」をとって愚陀佛庵と名付けました。
漱石は、親友正岡子規が故郷松山で療養し始めたことを知り、愚陀佛庵での生活を勧めました。
8月から10月までの50日余り、子規は1階で、漱石は2階で、共同生活を送りました。
その間、子規は療養しながらも句会などの俳句活動を続け、漱石も句会に参加しました。

(説明板より)

藩政時代の井戸



藩政時代の井戸
(愛媛県松山市・萬翠荘敷地内)





(平成19年11月8日)

藩政時代の井戸

松山城築城当時に掘られたものといわれ、いまでも枯れることなく湧いている。
茶を好んだ夏目漱石はこの屋敷に下宿しているときは毎日この水を愛飲した。
小説「坊ちゃん」には“宿の亭主がお茶をいれましょうと云ってやってくる。お茶をいれると云うから御馳走するのかと思うと、おれの茶を遠慮なく入れて自分が飲むのだ。この様子では留守中も勝手にお茶を入れましょうと一人で履行しているかも知れない”
深さ20米、水深14.2米

(説明板より)


 平成23年2月7日

熊本県熊本市・上熊本駅前でお会いしました。





「若き日の漱石」像
(熊本県熊本市西区・上熊本駅前)





(平成23年2月7日)

若き日の漱石

夏目漱石(本名夏目金之助)は、旧制第五高等学校の英語教師として赴任、明治29年4月13日、ここ上熊本駅(当時池田駅)に降り立った。
漱石は、4年3ヵ月を熊本で過ごし、その間結婚や長女の誕生を迎えている。
漱石が住んだ熊本には多くの足跡が残されている。
漱石来熊百年を記念して、熊本で過ごした若き日の漱石の面影を偲び、いつまでも多くの人々が親しめるよう、ここにモニュメントを設置する。

平成8年11月9日
「’96くまもと漱石博」推進百人委員会

(説明石碑・碑文より)

【漱石モニュメント】

この銅像は、夏目漱石来熊百年を記念して1996年に「’96くまもと漱石博」推進100人委員会によりJR上熊本駅前広場に設置されました。
今回、九州新幹線建設事業及びJR鹿児島本線等連続立体交差事業に伴い、この地に仮移設しております。

熊本市役所 観光政策課
平成18年10月
(タイムカプセルは観光政策課にて本移設まで保管)

(説明パネルより)


森鴎外旧居跡



夏目漱石旧居跡

(東京都文京区向丘2−20−7・日本医科大学同窓会館)





(平成20年2月21日)

夏目漱石旧居跡

夏目漱石は明治卅六年一月英國から帰り、三月三日ここ千駄木町五十七番地に居を構へた。
前半二箇年は一高と東大の授業に没頭したが、卅八年一月「吾輩は猫である」「倫敦塔」等を發表して忽ち天下の注目を浴び、更に「猫」の續稿と竝行、卅九年初から「坊ちゃん」「草枕」「野分」等を矢継早に出して作家漱石の名を不動にした。
歳末二重廾七日西片町に移り、翌四十年四月朝日新聞に入社し、以後創作に専念した。
千駄木町は漱石文学發祥の地である。
森鴎外も前に(自明治廾三年十月至同廾五年一月)その家に住んでいた。
家は近年保存のため移築され、現在犬山市明治村にある。

昭和46年3月3日

(碑文より)

夏目漱石旧居跡(区指定史跡)

日本医科大学同窓会館 文京区向丘2−20−7

夏目漱石 本名・金之助。
慶応3年〜大正5年(1867〜1916)。
小説家。
この地に、漱石がイギリス留学から帰国後の、明治36年3月から39年12月、現在の西片1丁目に移るまで、3年10か月住んだ家があった。(家主は東大同期の斉藤阿具氏)
当時、東京帝大英文科、第一高等学校講師として教職にあった漱石は、この地で初めて創作の筆をとった。
その作品『吾輩は猫である』の舞台として、“猫の家”と呼ばれ親しまれた。
この地で、『倫敦塔ろんどんとう』『坊ちゃん』『草枕』などの名作を次々に発表し、一躍文壇に名をあらわした。
漱石文学の発祥の地である。
漱石が住む13年程前の明治23年10月から1年余り森鴎外が住み、文学活動に励んだ。
鴎外は、ここから団子坂上の観潮楼かんちょうろうへ移っていった。
二大文豪の居住の地、漱石文学発祥の地として、近代文学史上の重要な史跡である。
旧居は、愛知県犬山市の「明治村」に移築保存してある。

文京区教育委員会
平成7年3月

(説明板より)


漱石唯一の紀行文 『満韓ところどころ』

漱石は、明治42年(1909年)9月2日、満洲、韓国の旅に出て、10月17日に帰京する。
「一対満鉄なんて云ふところは何をするところだと聞いたら、貴様は馬鹿だ、それより満鉄の経営はどんな事をして居るか、日本人の活動はどう云ふ風か見てこい・・・・」
旧友の満鉄総裁・中村是公ぜこうからこう言われて満洲にやって来たのだ、と9月12日の大連・満鉄従業員養成所での講演『物の関係と三様の人間』で1時間話している。
漱石唯一の紀行文である『満韓ところどころ』が東京朝日新聞に掲載されたのは、明治42年(1909年)10月21日からである。
『満韓ところどころ』は12月30日の51回で打ち切りになる未完の紀行文である。
71日のうち20日掲載されなかった。
『満韓ところどころ』に与えられたのは、新聞の小説を載せる三面であった。
こうした紙面構成のため、10月26日の伊藤博文暗殺といった大事件が起きると、二面だけには収まり切らず、三面にまで及ぶ。
その煽りを喰ったのが『満韓ところどころ』である。
10月28日から11月6日までの10日間で7日休載になったのだから漱石の立腹も当然であった。
11月6日付で主筆・池辺三山宛に終了を通告した。
池辺の調整で8日から第8回が再開され順調に推移したが、11月25日から漱石主宰による文芸欄が三面に新設された。
いよいよ三面は身動きが取れなくなってしまい、12月1日から六面に掲載されることになった。
六面には伊藤暗殺を受け、11月5日から30日まで24回にわたって社会部長の渋川玄耳しぶかわげんじの『恐ろしい朝鮮』を載せていた。
最終回の第51回は撫順ぶじゅん炭鉱の坑内に入ろうとするところで終わる。
「まだ書く事はあるが、もう大晦日だから一先やめる」と書いて漱石は筆を折った。
ところがこの文言は門弟の小宮豊隆こみやとよたかに書かせたものであるという。
大正4年(1915年)『満韓ところどころ』が春陽社から出版されたとき、漱石は「茲處ここまで新聞に書いて来ると、大晦日になった。2年に亘わたるのも大変だから一先やめる事にした」と柔らかく訂正した。
漱石が耳にした『満韓ところどころ』批判の一つは、漱石の推薦で東京朝日新聞に掲載された『土』の作家、長塚節である。
漱石という男は人を馬鹿にしているといって大いに憤慨したそうである。

(参考:『歴史読本 2009年9月号 特集・石原莞爾と満洲帝国』 新人物往来社)

(平成23年6月24日追記)


夏目漱石胸像



夏目漱石の胸像






(平成15年12月22日)

銘板碑文

漱石は慶応3年(1867)2月9日この近くの江戸牛込馬場下横町(現・新宿区喜久井町1)に生まれた。
明治40年9月にこの地に住み、「三四郎」「それから」「門」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」などを発表、大正5年(1916)12月9日、数え年50歳で死去した。
この終焉の「漱石山房」跡地に漱石の胸像を建立し、その偉大な文業を、永遠に称えるものである。
なお、表の漱石の自筆の俳句は
「ひとよりも空 語よりも黙 肩に来て人なつかしや赤蜻蛉」
と読む。

平成3年3月
新宿区

漱石公園



漱石終焉の地(漱石公園)






(平成15年12月22日)

新宿区指定史跡
夏目漱石終焉の地

所在地 新宿区早稲田南町7番地
指定年月日 昭和61年10月3日

この漱石公園一帯は、文豪夏目漱石が晩年の明治40年9月29日から大正5年12月9日に死去するまで住んだところで「漱石山房」と呼んでいた。
漱石はここで「坑夫」「三四郎」「それから」「門」などの代表作を発表し、「明暗」執筆の半ばに世を去った。
漱石死去当日の様子は内田百聞の「漱石先生臨終記」に詳述されている。
また、漱石山房の様子は、漱石の「文士の生活」や、芥川龍之介の「漱石山房の秋」「漱石山房の冬」(ともに「東京小品」の中)などに克明に書かれている。
この石塔は俗称「猫塚」と呼ばれているが、これは「吾輩は猫である」の猫の墓ではなく、漱石の没後遺族が家で飼っていた犬や猫、小鳥の供養のために建てたもので、昭和28年の漱石の命日に、ここに復元されたものである。

平成3年11月
東京都新宿区教育委員会

(説明板より)


夏目漱石の最期

漱石は神経衰弱や慢性胃病などの持病に苦しめれれ続けていたが、大正5年、胃潰瘍が悪化し衰弱し始めた。
苦しみながら胸を開いて「早くここへ水をぶっかけてくれ。死ぬと困るから・・・」と訴え、看護師に水をかけてもらうと、「ありがとう」の言葉を発して意識を失い絶命したという。

(平成17年10月19日追記)


漱石の碑



漱石の句碑
(東京都文京区小日向1丁目・本法寺)





(平成18年3月11日)

説明碑・碑文

夏目漱石は、明治22年2月5日に「兄の死」と題し一高で英語の演説をし、墓参の心境と境内の情景を語った。
29年正月松の内には本法寺で「展先妣墓」として「梅の花不肖なれども梅の花」と詠んだ。
名作「坊ちゃん」の清の墓のモデルも他ならぬ小日向の菩提寺のこの墓である。

平成14年3月吉日
早稲田大学総長
奥島孝康 識

菩提寺・本法寺



夏目漱石の菩提寺・本法寺
(東京都文京区小日向1丁目・本法寺)





(平成18年3月11日)

高源山随自意院本法寺は、東本願寺の末寺で、眞宗大谷派に属し、夏目漱石(金之助)の菩提寺である。
夏目家は、代々江戸の名主をつとめた。
明治14年1月に母、20年3月に長兄、6月に次兄が本法寺に葬られた。
それ以来、漱石はしばしば小日向を訪れた。
亡き母を詠んだ句もある。
兄の死を悼んだ英文のスピーチを旧制一高で弁じたこともある。
蓮如の「御ふみ」の言葉を友人子規に書き送りもした。
作家となってからは「坊ちゃん」の清の墓をここに設けるなど、漱石の心の中に本法寺の幻はゆらめきつづけた。
境内には、早稲田大学第14代総長奥島孝康が揮毫した漱石の句碑がある。

(説明板より)


主な作品
吾輩は猫である 明治の俗物紳士たちの語る珍談・基譚・小事件の数かずを、迷い込んで飼われている猫の眼から風刺的に描いた漱石最初の長編小説。
坊ちゃん 松山中学在任当時の体験を背景とした初期の代表作。近代小説に勧善懲悪の主題を復活させた快作。
三四郎 熊本から東京の大学に入学した三四郎は、心を寄せる都会育ちの女性美禰子の態度に翻弄されてしまう。青春の不安や戸惑いを描く。
それから 定職も持たず思索の毎日を送る代助と友人の妻との不倫の愛。激変する運命の中で自己を凝視し、愛の真実を貫く知識人の苦悩を描く。
親友を裏切り、彼の妻であった御米と結ばれた宗助は、その罪意識に苦しみ宗教の門を叩くが・・・「三四郎」「それから」に続く3部作。
明暗 明治の知識階級に蔓延した立身出世主義の具現者であるひと組の夫婦を中心に、エゴイズムとそれからの脱却を追及した未完の絶筆。
草枕 智に働けば角が立つ―思索にかられつつ山路を登りつめた青春画家の前に現われる謎の美女。絢爛たる文章で綴る漱石初期の名作。
虞美人草 我執と虚栄に心おごる美女が、ついに一切を失って破局に向う凄愴な姿を描き、偽りの生き方が生む人間の堕落と悲劇を追う問題作。
彼岸過迄 自意識が強く内向的な須永と、感情のままに行動して悪びれない従妹との恋愛を中心に、エゴイズムに苦悩する近代知識人の姿を描く。
行人 余りに理知的であるが故に周囲と齟齬をきたす主人公の一郎。孤独に苦しみながらも、我を捨てることができない男に救いはあるか?
こころ 親友を裏切って恋人を得たが、親友が自殺したために罪悪感に苦しみ、みずからも死を選ぶ、孤独な明治の知識人の内面を抉る秀作。
道草 健三は、愛に飢えていながら率直に表現できず、妻のお住は、そんな夫を理解できない。近代知識人の矛盾にみちた生活と苦悩を描く。
硝子戸の中 漱石山房から眺めた外界の様子は?終日書斎の硝子戸の中に坐し、頭の動くまま気分の変わるままに、静かに人生と社会を語る随想集。
坑夫 恋愛事件のために出奔し、自棄になって坑夫になる決心をした青年が実際に銅山で見たものは・・・漱石文学のルポルタージュ的異色作。

(平成20年1月18日追記)


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