蓮如像 平成20年6月17日

蓮如 れんにょ

応永22年2月25日(1415年4月13日)〜明応8年3月25日(1499年5月14日)

大阪市中央区・北御堂でお会いしました。


少年期に本願寺再興を決意し、父に宗学を学び真宗教義への理解を深めた。
文安4〜宝徳元(1447〜49年)東国に赴き親鸞関係の遺跡を巡り、長禄元年(1457年)本願寺8世となった。
以後、近江門徒の掌握を行ったため比叡山との関係が悪化し、寛正6年(1465年)本願寺の破却にあった。
三河地方の教化ののち、文明3年(1471年)越前国吉崎に坊舎を建てた。
吉崎には門前町が形成され大いに栄えたが、冨樫氏の攻略にあい退去。
京都山科に本願寺を再興し、教団隆盛の基礎を築いた。
教えは「御文おんふみ」としてまとめられた。


蓮如上人像

蓮如上人像
(大阪市中央区・北御堂)

蓮如上人五百回遠忌大坂坊舎建立五百年を記念して之を建立す
平成9年4月
輪番 吉川孝臣
進納者 大阪南組 萬福寺門徒中


(平成20年6月17日)
北御堂



北御堂
(本願寺津村別院)
(大阪市中央区本町4−1−3)





(平成20年6月17日)

北御堂と御堂筋

大阪一、いや日本一の美しい道路。
シャンゼリゼ通りがパリの顔なら、いちょう並木の御堂筋は大阪の顔です。
その御堂筋は北御堂・南御堂を結ぶ道路であることから時の関市長が命名されました。
因に「北御堂」は浄土真宗本願寺派(お西さんとも呼ばれています)「本願寺津村別院」というのが正式名称です。
私たちの大阪は、豊臣秀吉大阪城(1583年)築城以来、城下町として栄えてきたと思われがちですが、本当は本願寺第八代「蓮如上人」がこの地を見出され、はじめて「大坂おおざか」という名をもちいられ、石山本願寺(1496年・現大阪城あたり)を建立されたことに始まるのです。
その後、本願寺は京都に移りましたが、本願寺ゆかりの大阪の地に津村別院(北御堂)が建立され、寺内町として発展してきました。
かつては「御堂さんの鐘が聞こえる処で暖簾のれんをはってまっせ」と、大阪商人の精神的バックボーンとしての役割を果たしてきたようにも思います。
このように、今日の北御堂の境内は、昼休みの時、OL・ビジネスマンのオアシスとして、又、御堂筋は、歌謡曲にも歌われる都会的ムードのある散歩道として、ともに国際商業都市大阪のみなさんに親しまれています。

(説明板より)


蓮如上人碑



蓮如上人碑
(大阪市・大阪城)





(平成20年6月17日)
蓮如上人碑



蓮如上人碑
(大阪市・大阪城)





(平成20年6月17日)

碑文

御土御門天皇ノ御代明應五年十月 本願寺第八世蓮如上人佛法弘通ノ為メ地ヲ石山ニ卜シテ一宇ノ坊舎ヲ建テラ
是所謂後ノ石山本願寺ナリ
當時上人自ラ述ヘテ曰ク
抑當國摂州東成郡生玉ノ庄内大坂トイフ在所ハ往古ヨリイカナル約束ノアリケルニヤサンヌル明應第五ノ秋下旬ノコロヨリカリソメナカラコノ在所ヲミソメシヨリステニカタノコトク一宇ノ坊舎ヲ建立セシメ 云々ト
爾来幾多ノ変遷ヲ経ト雖モ當時ノ寺跡ハ明カニ此地ニシテ上人ノ袈裟掛松ト称スル老松ノ舊株猶存セリ
因テ此霊地ニ尊号ノ碑ヲ建テ有縁ノ道俗ト共ニ上人ノ芳躅ヲ追懐セント欲シ茲ニ其略縁ヲ誌スト云爾

昭和四年五月 大阪城 行幸ノ際 信者識

石山本願寺と大阪(大坂)

明応5年(1496)、本願寺第8代蓮如は摂津国東成郡生玉庄内の大坂に坊舎を築いた。
「大坂」という地名が歴史上初めてあらわれるのは、明応7年(1498)11月21日付の蓮如の『御文(御文章)』とされている。
この坊舎を中心にして周囲に土居と堀を巡らせた「六町の構」といわれた寺内町が形成された。
天文元年(1532)に山科本願寺が炎上すると、本願寺はこの地に移され、本願寺教団の中心となった。
大坂(石山)本願寺の寺内町では、御影堂・阿弥陀堂を中心に、六町2千軒におよぶ町屋が立ち並んでいた。
多くの職人や商人が生活しており、当時の堺とならぶ豊かな都市生活がくりひろげられていた。
やがて本願寺は織田信長と対立し、元亀元年(1570)から11年間に及ぶいわゆる石山合戦の後、大坂を退去し鷺森、貝塚、天満を経て天正19年(1591)に京都へ移転した。
一方秀吉は、大坂(石山)本願寺と寺内町の跡に大坂城を建設した。
この大坂城は、大坂夏の陣で炎上したが、江戸幕府によって再建される。
大坂(石山)本願寺の遺構はいまだ確認されていない。
しかし、この大阪城公園の辺りがその遺跡と推定され、現在の商業都市大阪の礎となったといわれている。

大阪市教育委員会

(説明板より)

蓮如上人袈裟懸の松



蓮如上人袈裟懸の松
(大阪市・大阪城)





(平成20年6月17日)
蓮如上人袈裟懸の松



蓮如上人袈裟懸の松
(大阪市・大阪城)





(平成20年6月17日)

蓮如上人袈裟懸の松

本願寺第8代蓮如上人は明応5年9月この地をえらんで一宇の坊舎を建立し明応8年2月まで居住す。
天文元年8月第10代証如上人は山科より本願寺をこの地に移し大坂(石山)本願寺と称す。
ここに本願寺は大いに繁昌し道俗男女群集した。
永禄13年(元亀元年)織田信長本願寺に難題を申し入れ遂に石山合戦の発端をなす。
而して11年間攻防の末天正8年3月勅によって和議なる。
天正11年豊臣秀吉大坂城を築く。
のち時代は変われども蓮如上人袈裟懸の松の根のみが残りわずかに往昔を偲ぶ。

本願寺津村別院誌(抜粋)

(説明板より)

石山本願寺推定地




石山本願寺推定地
(大阪市・大阪城)




(平成20年6月17日)

石山本願寺推定地

明応5年(1496)に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。
これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現れる初例である。
『天文日記』によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えられる。
その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに、天文元年(1532)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。
石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。
この造営が現在の大阪の町並の原形となったと考えられる。
その後十一世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。
一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設される。
この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。
さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して、再び大規模な土木工事が行われた。
このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。

大阪市教育委員会

(説明板より)




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